虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第109回 不健康自慢

 第73回で、20歳以降、綺麗に5年おきで腎臓結石を患ってきたことを述べたが、3年前、戦々兢々としながら迎えた45歳は、無事に乗り越えることができていた。ああ、これも転職して生活習慣が変わったおかげよと自己満足に浸っていたら、昨日、会議中に、全くイレギュラーに、そして全く突然に、尿路に異変を感じた。8年ぶり6回目の結石である。
 
 これまた下の話で恐縮であるが、これまでと違ったのは、石が尿管に到達するまで気付かなかったこと、従って「死んだ方が楽」とさえ思える疝痛に襲われなかったこと、そして確かに石が尿管を通過するのを認めたのに、出てきたときに便器に当たるカチンという音がしなかったことである。恐らく、それほどに小さな小さな石だったのだろう。因みに、これまでに苦しめられてきた結石の大きさは、いずれも米粒の半分程度。私はそんな小物と死闘を繰り広げているのだ。
 
 まあ、こんなことを武勇伝よろしく綴るのも情けない話であるが、自身もさることながら、どういう訳か周りには、昔から「不健康自慢」をする人が多いのである。健康診断結果の異常値をドヤ顔で見せ合うのはまだ可愛いもの。「過労で倒れ入院することは何よりの勲章」と豪語する人もいたし、「もうアカンわ」「いよいよヤバい」などとあれこれ身体の不調を訴えて病院に行くも、何の異状もなく健康そのもの、という検査結果を聞いて、なぜか酷く落胆した人も一人ならず見ている。蓋し、これはこれで重篤な「病気」である。
 
 私自身、若い頃は、「定年になる前に、惜しまれながら死にたい」「職場で派手に血を吐いて事切れたい」「死んだら盛大に社葬を執り行ってもらい、同期で最も出世した者に弔辞を読んでほしい」などと気の触れたことをよく言っていて、特に吐血や喀血には一種の憧憬すら覚えていたことがあるが、実際、胃潰瘍で血を吐き、自宅の洗面所を血で染めたときには、「自分はいよいよ死ぬのだ」と言い知れぬ恐怖を覚えた。憧れが実現して戦慄に震えるとはよほどのサイコパスなのかと、自分で自分が呪わしくなってくる。
 
 私の周りだけでなく、世の中全般にもそういう人は多いようで、「不健康自慢」する人の心理を考察するこんな記事を見つけた。

 -「努力」「苦労」「我慢」を美徳とする日本人に深く根付いた考え方
 -忙しい=偉い、周りから必要とされている俺ってすごいでしょ?アピール
 -本当に忙しくて疲れているから優しくしてほしい 
 
 不健康は忙しさゆえであり、不健康自慢は忙しさ自慢という訳だ。うっ……となるが、なるほど、当てはまるというか、思い当たる節は多々ある。すなわち、不健康自慢は所詮、構ってちゃんの戯言に過ぎなかったのだと、今更ながらにようやく気が付いた。「大丈夫ですか~」と心配してほしかったり、「そんなになるまで働いたらダメですよ~」と慰めてほしかったり。でも結局、本当に倒れて穴を開けてしまったら誰かに迷惑を掛けるのだし、よしや穴を開けたところで困らない組織なら、そもそも自分なんていなくてよいのである。3年前に心不全で入院したときも、周囲からは「無理しすぎですよ」という慰めとともに、「もっと人を信じて任せないとダメ」と叱責も受けた。これがあるべき姿というものだろう。
 
 それ以来、毎日処方された薬を飲み、血圧を欠かさず測るという日課がそうさせているのかもしれないが、健康のことを考えるようになった。暴飲暴食を家人に咎められても、「我慢してストレス溜める方が体に悪いわ!」と抗弁しながら、好きなものを好きなだけ飲み食いしてきたが、そうして油断をしていると、朝晩の血圧測定でハッとすることがある。呼吸が苦しくなって救急搬送されたあの日のことを思い出し、それがやっぱり怖くなって、ご飯の大盛りやおかわりをやめるとか、茶色いおかずばかりにしないとか、毎日の夕食後にアイスを食べるのを我慢するとか、目的地の2~3駅前で下車して歩くとか、そういう意識はするようになった。
 
 それでも最近、小さな身体の不調が続いていて、小さな不安を覚えてしまう。アホみたいな量を食べてはいないのに、食後、腹が異常に張る。胃もキリキリ痛むことが多い。首のサイドが一定の間隔でズキズキ痛む。頭痛は最早慢性の持病。階段の昇降時に膝が痛い。座り仕事の時間が長くなると、坐骨神経痛のような辛い痛みが続く。老眼が確実に進行しているのも不自由極まりない。あれだけ「不健康自慢」をしていたのに、今ではすっかり不健康に怯える日々である。
 
 それは「老いの恐怖」なのかもしれない。あるいは、老いることではなく、死ぬことを恐れているのかもしれない。あれだけ惜しまれるうちに逝くことを望んでいたのに、である。先日、元同僚の生保レディーと話をしていて、「若い頃は定年前に死にたいとか思ってたんですよね……」とこぼしたら、「今や日本人の平均寿命は男性でも81.41歳、女性に至っては87.45歳。言い方悪いですけど、『死にたくても死ねない』んですよ、日本人の身体って」と言われた。ならば腹を括って、自然に健康に、齢を重ねていくしかあるまい。
 
 「不健康自慢」が格好良いと思っていたのも今は昔。人間らしく「健康自慢」ができるよう、日々の摂生に努めようと思いつつ、目の前にあるチョコレートに手が伸びるのを必死に抑えている今日この頃である。

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第108回 遠くへ行きたい

 Osaka Metro本町駅の、御堂筋線と中央線の乗り換えエスカレーターに、「フェリーさんふらわあ」と鹿児島県による共同企画『2021年 鹿児島おおすみ12星座占い』のポスターが貼られている。大隅半島の絶景スポット・絶品グルメの12種類を「ラッキースポット」「ラッキーフード」として、今年の運勢を占うという企画である。

 駅貼りの観光ポスターは往々にして、激しく旅情を掻き立ててくるので、旅好きには困った存在である。一つひとつのポスターを観賞しながらエスカレーターを上り、降り立つ場所にある最後のポスターにこんなフレーズが書かれていた。

 「きっと未来は明るいでしょう。必ず会えると、すみっこから願っています」
 
 この状況下で、こんなことを語り掛けられたら込み上げてくるものを抑えられず、何としても大隅の地に足を踏み入れなんと、想いは募るばかりである。
 
 けれども、旅に出ることはまだまだ許されそうにない。
 
 前にも言ったかもしれないが、私にとって、旅とは「非日常へ飛び出す」ことである。そして、費用や時間を大胆に使うことには、大いなる勇気を伴うものだ。況んやこのコロナ禍である。非日常の世界は不要不急であり、勇気を抑えて辛抱あるのみなのだ。
 
 辛抱も長期化すれば閉塞感は否応にも増してしまう。「リモート」「オンライン」という言葉が、仕事や授業だけでなく、リモート飲み会とかオンライン公演とか、趣味や娯楽の世界にも広がっていったのは、そうした閉塞感を打破したいという人々の切なる希求なのかもしれない。試みに「リモート旅行」を検索してみると、やはりあれこれと出てくる。家に居ながら国内や海外の名所を巡ることができる、しかも無料で観光が可能。そんな触れ込みで旅に出ることができない人たちの心を慰めている。
 
 子どもの頃、「ドラえもんのどこでもドアがあればなぁ」と、何度思ったことだろう。そんな思いを抱きながら、リビングにあったワラヂヤ出版の『コンパニオン道路地図帳』を眺めては、その地に思いを馳せることが趣味になっていた。それは長じても衰えることはなく、大学生になり、バイトで稼いだなけなしの金を叩いて、昭文社の『スーパーマップル』を全国全巻揃え、暇な時には読書よろしく「精読」していた。そして、子どもの時と同じように、開いた地図のページからその地の風景を想像しては胸を膨らませ、気持ちが嵩じれば時刻表(勿論冊子の)を取り出して机上旅行まで始めた。
 
 だから、YouTubeとかGoogleストリートビューとか、どこでもドアよろしく、地図上で思いを馳せていた地にすぐさま飛んで行ける文明の利器に触れたときには、大層感激した。鉄道や道路の前面展望動画などは、リアル旅行の気分に十分浸れるし、プロ並の優れた編集技術の施された美しい映像は、下手な旅行番組よりよっぽど惹き付けられる。と同時に、「旅に出る勇気」を殺がれるような気がして、複雑な気持ちにもなった。子どもの頃の机上旅行や妄想旅行は、いつか実際にその地に赴くことを夢見るからこその愉しみであり、その地への思いが「旅に出る勇気」にまで昇華したときにリアルに触れられるからこその感動である。PCの画面でいとも容易くその夢を「実現」してしまってよいのだろうか。
 
 リモート会議でも実際に会話はできる。オンライン公演でも実際の芝居を観ることはできる。リモート飲み会でも実際の酒は飲める。でも、リモート旅行は実際の旅行ではない。風景も空気も人情も全部バーチャルであって、実際に触れることはできない。そればかりか、生半にバーチャルの映像や画像を先に見てしまっているから、実際の旅に出て、リアルの風景を見ても、感動は半減なのだ。「リモート旅行」は所詮、辛抱を強いられる人たちの慰みに過ぎず、それで閉塞感が払拭されることもない。
 
 だからこそ、「Go To トラベル」が始まったとき、人々はリアルな旅を求めて、非日常の世界へと飛び出した。でも、結果はご存じのとおり。まだまだ緩和は許されず、辛抱の時期が続く。
 
 作家の浅田次郎は、JALグループの機内誌『SKYWARD』の2020年8月号で、結核を患いながら克服した祖父の思い出を綴りながら、このようなことを述べている。

 かにかくに私は、『コロナ後の世界』『コロナとの共生』といった議論に加わる気にはなれない。それはどこかしら、たとえば核廃絶よりも核の抑止力によって平和を保とうという、錯誤に通じると思えるからである。われわれは偉大なる先人たちと同様に、共存など断じて許さぬ克服の意思を持たねばならぬと思う。
(『つばさよつばさ』第203回「サナトリウムの記憶」より)

 旅はリモートで代替できないから、「辛抱」によってコロナ禍の終息に強く取り組みながら、いつかリアルな旅に出られる日を思い続けるしかあるまい。
 
 件の「鹿児島おおすみ12星座占い」、乙女座の私は、鹿児島黒牛を食べると、モーーーーっと力があふれ出て、パワフルに動き回れる1年になるのだそうだ。今は辛抱の時期であるが、許される時になったら、勇気を出して、きっと鹿児島の地に足を踏み下ろそうではないか。ついでに鹿児島市内まで足を伸ばして、死ぬまでに一度は口にしたかった本場のしろくまを、腹を下すまで食べてやるんだ。 
 
#この1年の変化

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第107回 親分の背中

 前職に、心の底から慕っていた「親分」がいた。
 
 親分との出会いは22年前。親分38歳、私は25歳。夢破れ、無為な日々を過ごしていた私を拾ってくれたのが親分だった。モラトリアムと言いながらその実、この先の人生を模索することさえできず、しかし生きていかねばならないので、塾講師のアルバイトをしていた。塾なので夜の商売。昼過ぎまで寝ていたら、校舎長だった親分から電話がかかってきて、「お前な、その歳で定職にも就かずこんな時間まで惰眠を貪っとったらアカンやろ。社員登用の手続取っといたから、人事部に電話して面接の日程とか聞いとけ」、と。
 
 3日後に人事課長との1次面接、さらにその3日後に役員面接、そしてその翌日には合格の連絡が来た。親分の「強引な優しさ」で、わずか1週間で私の人生航路は大きく舵を切ることになった。1次面接のとき、課長の手元にあった上長からの推薦書が見えた。そこには親分の字で、「即戦力。すぐにでも校舎長可」と書いてあった。自分の明るい未来が見出せなかった当時の私にとって、人から認められることがこんなにも嬉しいことなのだと、胸が一杯になった。
 
 翌春、晴れて「遅咲きの新入社員」となった私は、幸運にもバイト時代と同じ校舎の配属となり、引き続き親分の下で働くことになった。初日、張り切って始業30分前に出勤すると、親分を始め、先輩社員、パートの事務員と既に全員が揃っていた。親分は鬼の形相で、「一番ペーペーで、一番家の近い奴が、何で一番最後に出勤しとんねん!!」と怒鳴り付けてきた。
 
 翌日からは誰よりも早く出勤するようにしたが、「古い掲示物貼ったままやん。どこ見て仕事しとんねん」「机の上に物を積むな。整理整頓がでけん奴は仕事もでけんのや」「仕事が遅い。強い者が勝つん違うんや、早い者が勝つんや」「一生懸命やるのは当たり前、やり方間違った一生懸命なんて何の意味もない」などと、毎日毎日新しいことで叱られた。ある時、叱られながら唇を噛み締めると、「内リク(=内部リクルート。バイトから登用された者のこと)はそうやってな、バイトと社員のギャップにぶち当たってすぐにケツを割りよるんや。どうせお前もそうなんやろ?」と言われた。心中を見事に言い当てられた私は思わず「辞めへんわ!」と抗弁した。親分は「そうかそうか」と笑った。
 
 親分のモーレツしごき教室のおかげで、7月には体重が5kg減っていたが、その頃には叱られなくなっていた。隣の校舎の校舎長から、「あれは親分流の人の育て方やねん。ちゃんと力をつけてきたら、そのうちぱたっと言われなくなるよ」と慰められていたが、実際その通りだった。
 
 仕事に対する姿勢は本当に厳しかったが、失敗は必ずケツを拭いてくれた。ある時、担任を受け持っていたクラスの保護者からクレームが入ったと報告を受けた。子どもが算数の講師に「こんなんもわからんのか」と言われて萎縮してしまい、塾に行きたくないと言っているという。その講師に事実確認をすると、「これくらいできなアカンで」と言ったのだと釈明したが、保護者は納得するはずもない。1日置けば怒りも鎮まるだろうと思って、翌日お詫びの電話を入れたら、電話に出た父親の怒りはむしろ倍増していて、殺されるかと思うほどに罵られた。親分に報告をしたら、すぐにその保護者に電話を入れてくれ、1時間ほどの通話の後、「大丈夫やで」と言ってくれた。そして、「前に『早い者が勝つ』て言うたん、覚えてるか。事実関係とか後でええねん、相手が怒ってることだけが事実や。だから、クレームがあったらすぐにお詫びの電話を入れる。これが鉄則やで」と諭してくれた。
 
 それからも、何かあれば必ず、「もし自分が校舎長だったら、という視点で物事を考えてみ」ということばを添えて、鍛えてくれた。入社のとき、親分が推薦書に書いてくれた通りに、すぐに校舎長に昇進することが恩返しだと考えるようになった。実際、1年で候補者研修にノミネートされ、その翌年には校舎長の切符を手にした。でも、着任の前日、つまり親分と同じ職場の最後の日、親分は「企業人たるもの、自分の城を持つことはロマンやけど、しかし明日から君がおらんようになるのは、やっぱり困るし淋しいなぁ」と言ってくれた。
 
 校舎長になってからの4年間、親分はエリア長として、引き続き私の親分でいてくれた。「企業人としての自我」が芽生えていた私は、生意気にも親分に噛み付いたことは数知れず、時には返り討ちに遭ってこっ酷く叱られ、時には笑いながらあしらわれ、時には私の我儘な意見を上層部へ掛け合ってくれ、時にはもう辞めたいと捨て鉢になった私を宥めてくれ、手のかかる子分だったと思うが、厳しい愛情を持って育ててくれた。
 
 その後、私は本社へ異動になり、1つのセクションを任されることになった。事業部門も異なって、親分との「人事上の師弟関係」は解消になったが、それでも親分は私の親分に違いなかった。お互い残業で遅くなったとき、他に誰もいないオフィスで、親分はおもむろに語り始めた。「本社の仕事なんてオモロいか? 現場が一番オモロいと思うねん。生徒、学生の講師、そして、生徒の保護者。いろんな世代の人たちと毎日向き合って、話ができて、こんなオモロい仕事ないと思うねん。君だって、現場にいてこそ輝くのになぁ」。既に親分は部長になっていたが、とことん現場主義の人だった。
 
 それから10年ほど経って、私はお世話になったその会社を辞めた。波風立てずに静かに去りたかったので、最終出勤日の最後に、社内メールで一方的に、皆に退職の挨拶を送った。メールを見た親分はすぐに電話をくれた。「どうせ君のことやから、上とやり合って辞めたんやろ」と、何もかも見透かしたようなことを言われた。やり合った訳ではないが、思うところがあったのは確かだ。事業部門が違っても、私のことをずっと見てくれていて、ずっと心中を慮ってくれていたのだ。
 
 それからも年に1度は親分にお目にかかり、杯を交わす機会を持っている。親分は今年の5月に、定年を迎えた。先日の酒席では、還暦と定年のお祝い、そしてこれまでのお礼のつもりで、私が勘定を持たせていただいた。勿論こんなことは親分との22年間では初めてのことで、私も何だか面映ゆかったが、親分は「君に奢ってもらえる日が来るなんてなぁ。○○くん(私の名)にご馳走になったわ、って、帰ったら嫁はんに報告しよっと」と笑ってくれた。私も今年で47歳だが、親分の前ではいつまでも子どもみたいなものである。
 
 奥さまにも公私に亙ってお世話になった(独身時代、頼みもしないのに見合いの斡旋を受けたこともある)し、初めて会ったときにはまだ小2だった娘は昨年、嫁に行ったという。そう考えれば、あっという間だった22年という時間の長さが、しみじみと感じられる。
 
 そして22年間、私は親分の背中をずっと見てきた。今、部長という立場になって、事業部門のマネジメントに悪戦苦闘する日々であるが、行き詰まりそうになったときには、会社が変わった今でも自然と親分の背中が瞼に浮かび上がってくる。何かを誰かに語るとき、無意識に親分の口癖をトレースしている自分に気付くこともある。親分に較べればまだまだ能力も人望も足りていない私であるが、これからも親分の背中を追い掛けながら、人の人生に貢献できる自分でありたいと思う。

第106回 花道に雪が舞う

 吉本新喜劇内場勝則辻本茂雄が、座長を勇退した。就任から20年。今年で60周年を迎える吉本新喜劇の歴史の、実に3分の1もの間、屋台骨を支えてきたのだ。花紀京岡八朗を「新喜劇の巨星」と呼ぶことに異論などあろうはずもないが、20年の重みはやはり大きく、2人は紛う方もなく、「新喜劇の歴史に残る名座長」である。それだけに、喪失感も大きい。
 
 正直に言えば、内場座長はそろそろその日が来るのかな、とは思っていた。舞台やテレビドラマなど、新喜劇以外での活躍も増えていたし、若手の成長も目覚ましく、後進に道を譲るような予感というか、覚悟はできていた。しかし、辻本座長は、まだまだ集客力も高く、「筆頭座長」としてもう暫くは大黒柱たる存在感を示していくものだと思っていた。
 
 辻本座長には、ワンパターンだとか、若手に対して厳しいだとかの批判もあるようだが、私に言わせれば、あんなに後輩思いの座長もいないだろう。アキ・五十嵐サキ大島和久たかおみゆき森田展義平山昌雄・もじゃ吉田・奥重敦史・レイチェル・もりすけ松浦景子・永田良輔など、辻本座長がいたからこそ、そのキャラが輝いた座員は多数いる。
 
 いや、今にして思えばこの1年余、辻本座長は、意図して若手を鍛え、育ててきたのに違いないのだ。「アドリブ祭り」と称した、森田展義・もじゃ吉田・奥重敦史・もりすけへの無茶振り。大島和久・もじゃ吉田の「回し(ツッコミ兼進行役)」への抜擢。平山昌雄の単独公演『ちゃんばら新喜劇』への客演。そして、自身の座長週への清水けんじの積極登用。この間、劇場やテレビで見てきた公演を顧みるに、それらのいずれにも、座長勇退後、後を託したい若手へのエールがひしひしと感ぜられ、改めて、胸がいっぱいになるのである。
 
 両座長の勇退が発表された日、『辻本班』のメンバーの1人である五十嵐サキが、自身のInstagramでこんなことを綴っている。

内場座長には、私が若手の頃からずっと新喜劇の中でのお芝居をしながらの笑いというものを沢山教えて頂きました。
辻本座長には、特に近年 キャラとしての笑いの間や演技、とても難しいヒステリックな母親役などを沢山鍛えて教えて頂きました。
座長は世代交代の時期にきてしまいましたが、
営業公演やイベントでは座長公演をされますし
ベテランとして今後の新喜劇を支えて行かれるお二人のご活躍は変わりません。
私個人的にも今後も、お二人から学ばせて頂いた事やこれから新たに学ばせて頂く事も大切に
新喜劇の一座員として未熟ながらも今まで通り「初心忘るべからず」をモットーに日々精進と勉強をして行きたいと思います。
学び多き中、感謝しながらも自分自身の喜劇役者としての力量がこれでいいと思えた日がありません。
反省と努力の毎日は今までと今後も変わりません。
出演の多い少ないという時期も幾度か経験しております。
今後の出演状況をご心配して下さるお声もたまに頂きますが今までと同じく どんな状況になっても自分の出来る限りの精一杯で頑張って行きたいと思いますので
吉本新喜劇共々、これからも応援宜しくお願い致します🙇
https://www.instagram.com/p/Btc8DuYHpwD/


 言葉を選びつつも、『辻本班』のメンバーとしての複雑な胸中、そして今後に向けての覚悟が、痛切なまでに語られている。既に『辻本班』を卒業し、「新幹線ネタ」を封印して芝居そのもので魅せている伊賀健二のように、新体制になって、彼らは大きな壁を乗り越えていかなければならないのだろう。
 
 一方で、辻本座長自身にも、今回の勇退人事に思うところはあったようだが、それでも、「僕を芸人として育ててくれたのはこの吉本新喜劇なので、僕がベテランとして、若手を育てて恩返しせなあかんなって」と、後進にしっかりバトンを渡し、ベテランとして今後も吉本新喜劇を支えていく決意を語っている。
 
 2月20日なんばグランド花月の『吉本新喜劇100』を観に行った。辻本茂雄の座長としての最後の週である。内場座長がゲストで出演していて、通常は半分くらいしか埋まらないNGKの夜公演なのに、2階席まで含めて満席、立見券までも売り切れという人気ぶりであった。ストーリー自体はいつもの「茂造のお決まりの流れ」なのだが、後半、娘(鮫島幸恵)と生き別れた父の役を演じた清水けんじが、本当に涙を流しながら、これまでに見たことのないレベルでの迫真の演技を披露し、場内の方々からは啜り泣く声が聞こえた。辻本座長の、自身の後継者としての清水への思いが込められた配役。それに全力で応える新リーダーの清水。観客の感動は、幕が降りる際の万雷の拍手となって、最高潮に達した。正に、辻本座長の大いなる花道となった名公演であり、観客の記憶にいつまでも深く刻まれることだろう。
 
 時を同じくして私は、勤め先で事業部長を拝命した。内示を受けて以来、その重責に押し潰されそうな気持ちに苛まれる毎日だが、ここまで奮闘してこられた前任の部長の存在の大きさを、新喜劇の座長勇退にどうしても重ね合わせてしまう。預かるのは新規事業を担うセクションだが、退かれた前任者は、事業の立ち上げ以来、苦労を重ねながら部門を守り、部下を決して売ることなく、「全ては自分の責任」と、厳しい評価を一身に受けてこられた。それだけに、志半ばという無念の思いはあったに違いない。それでも「あなたなら大丈夫ですよ」とバトンを渡してくださった。その志を決して忘れることなく、しっかり受け継いでいきたい。そしていつの日か、その座を降りることになるとき、花道を踏み締めながら退けるよう、確かな歩みを進めてゆきたいと思う。

第105回 本屋さんの行く末

 昨日、仕事の所用で1年半ぶりに中百舌鳥駅に降り立った。引っ越したり転勤したりで離れた街は、その後必ず発展するというのが私の人生の常であるが、久々の中百舌鳥駅前はあまり変わっていなくて、少しほっとした。が、一つだけ、引っ掛かる光景があった。駅前のTSUTAYAが真っ暗なのだ。聞けば、9月末で閉店したらしい。前職で週に1回は中百舌鳥に通っていて、周辺でそれなりの品揃えがある書店はここくらいだったから重宝していた。それだけに、これは大いにショックだった。
 
 我が家の近所でも、弁天町の大阪ベイタワーにあった、文教堂系列のキャップ書店が3月に撤退した。港区内には小さな書店が数店と、ライフ弁天町店の2階の書籍コーナーが辛うじて残るのみ。この先、こうして街中からどんどん本屋さんが消えていくのだろう。本好きにとっては、心底淋しい話である。
 
 そもそも、私にとって最も幸せな休日の過ごし方は、書店で「たゆたう時を愉しむ」ことである。「たゆたう」という言葉の使い方が合っているのかどうか分からないけれども、目的を決めず、時間にも縛られず、本とともにゆったりと過ごしたいのだ。手にする本のジャンルは問わない。文藝書でも、ビジネス書でも、専門書でも、地図でも、雑誌でも、できるだけ隈なく店内を巡りたい。書店に入るとなぜか便意を催すのは私とて同様であるから、トイレで用を足すことさえも織り込んで、書店での時間と空間を共有したい。
 
 立ち読みの客を叩(はた)きで追い払う店主の存在なんて今は昔の話。ジュンク堂などは「立って読むのもしんどいでしょうから、どうぞこちらにお座りになってごゆるりと」とばかりに机や椅子を用意し、『座り読み』を推奨しているほどである。読むだけ読んで買わないのは申し訳ないと思うけれど、少なくとも私の場合、立ち読みとは即ち品定めであって、これにじっくり時間をかけ、これぞと思う本は購入している。逆に言えば、買いたい商品が決まっていて利用するネット通販と違って、「これぞと思う本」との出会いを求めて書店へ足を運ぶのだ。あれこれと本を手に取って、時には思いがけない本との出会いで衝動買いしてしまうこともあるけれども、そんなこんなも含めた一連の流れこそが至上の愉しみなのであって、ネット通販で本を買おうとあまり思わないのはそれが理由である。
 
 ところで、書籍を実際に手にして、というのなら、図書館でもよいではないかという意見もあるだろう。けれども私は、図書館にはあまり足が向かない。公共施設としては随一の静謐な空間であるから、集中して読書を愉しめそうな気がするのだが、あそこでじっくり本を読もうという気にどうもなれないのだ。自分ひとりの空間で「たゆたう時を愉しむ」という感じがしないし、施設の公共性が、それを阻害しているような気がする。現に、図書館の利用目的は「本を読むこと」には限らないだろう。調べものをしている人もいる。それと見せかけて自習をしている学生もいる。椅子に座って居眠りをしているだけの老人もいる。本など歯牙にもかけない子どもたちもいる。その点、書店だって物理的な意味での個別空間では当然ないけれども、本を読む、本を手にする以外の目的で書架の前に立つ客はあまりいないだろう。手にする本はその人固有の目的で選ばれているものだから、そこはもう、自分ひとりの空間であり、「たゆたう時を愉しむ」時間となるのだ。
 
 であれば、借りて帰ればよいではないかという意見もまたあるかもしれない。私の手元には、大阪府立図書館と、大阪市立図書館の双方の利用者カードがあって、実際、時々利用もするのだが、家に持ち帰ったところでやっぱり集中して読めない。なぜなら、返却期限の存在が「早よ読め!」「まだ読み残してる本があんぞ!」という強迫観念となるからだ。人様のものを借りているのだから、期限までにお返しするのは当たり前だが、読書というのは、好きなときに、好きなスピードで行いたいから、いつまでに読了しなければならないというプレッシャーは、大いに読書への集中を妨げるのだ。その点、自身が購入した本であれば、読了の期限もないから、気儘に「たゆたう時を愉しむ」ことができる。そんな次第だから、積読本は増える一方であるし、うっかり同じ本を重複して購入してしまうこともしばしばであるが、それに囲まれるのもささやかな喜び、そこから本を発掘するのもまたささやかな喜びというものである。
 
 街中からは書店がどんどんその姿を消している。Wikipediaによれば、2000年から2010年の10年間で約3割、数にして約6,000店が減少したという。今なら減少のスピードはもっと加速しているのではないだろうか。インターネットの普及で情報源が多元化したこと、電子書籍の登場で書店の来店者が減ったこと、都心の大型書店への寡占化が進んでいることなどなど、書店業界を取り巻く環境の激変は多分にあるだろう。所属する事業部は違えど、勤務先も書店業を営んでいるから、そうした厳しい状況の下、「リアル店舗の存在価値」を懸命に見出し、訴求しているのを知っている。
 
 TSUTAYAが公立図書館の運営を受託したり、Amazonが米国でリアル書店を出店したりと、本屋さんの在り方もまた大きく変容してきていて、どれがどういう方向に向かうのか、素人には分からないけれども、リアルの本屋さんはこれからも大切な存在であり続けるし、一人の本好きとして、その存在価値を、小さな声ながら声高に叫びたい。

第104回 入院回顧録(二)

 さて、入院は1か月近くにも及んだので、勤務先には大層な迷惑を掛けた。人生で初めての転職をし、昨年7月から今の会社でお世話になっている。11月からは店舗のマネジャーを任され、新店の立ち上げをしたところだった。そして評価をいただき、2月に契約社員から正社員に切り替えていただくことになった、その矢先で開けた大きな穴だったので、ただただ申し訳ない気持ちに苛まれ続けた入院生活だった。
 
 しかし、入院翌日には、事業部長と人事部長がお見舞いに来てくださり、「向こう1ヶ月は他店舗のメンバーで応援する布陣を組んだので、何ら心配することなく、療養に専念してください」と言ってくださった。次の日には、応援に入ってくださる社員でグループLINEが作られ、店舗の状況を日々報告くださった。その次の週には御年82歳になられる相談役がお越しになり、ご自身の心筋梗塞の経験を語りながら、「退院しても、ちょっとくらい無理が利くようになってから出勤しておいでや」と仰ってくださった。更に翌週には常務が臨店先からわざわざ回り道をして立ち寄ってくださり、社長は個人の携帯から励ましのメールをくださった。
 
 まだまだ新参者で、どこの馬の骨とも分からない身でありながら、上司や同僚のみならず、経営幹部の方々まで気を遣ってくださり、この会社に転職して、本当によかったと思っている。でも、この転職はすんなりと決まった訳ではなかった。
 
 前職では、新卒入社以来20年近く勤続してきたが、会社の業容拡大が進む中で、事業部門ごとのセクショナリズムが進行し、後発だった所属部門のガラパゴス化と、それによる閉塞感を、年々強く覚えるようになってきていた。また、以前に、人材開発部門での仕事を5年に亙って担当しており、各事業部門を横断して社員の成長を支援することにやり甲斐を感じていて、これをライフワークにしたいという強い思いがあったので、その方面での仕事にもう一度従事したいと考えるようになった。業務量が年中オーバーフロー気味で、残業や休日出勤も常態化しており、ライフワークバランスを転換したいという考えもあった。
 
 ただ、前職への義理や恩義は強く感じていたし、新たなフィールドで自分を試してみたいという気持ちもあったから、直接競合する同業他社は選択肢から外し、新卒の大量採用企画や、全社トータルの人材育成システムの開発などの実績、事業部門でのマネジメント経験を携えて、一般企業の人事職を中心にエントリーを重ねた。しかし、実際に選考に進んでも、実務経験から離れて7年になるブランクや、労務や人事制度企画などの経験がないことがマイナス評価となり、不首尾の結果が続いた。
 
 そもそも、退職前の転職活動が、業務の都合上どうしてもできず、離職後のスタートとなった。エージェントによっては、そのこと自体が失敗だと厳しい見解を述べる方もおられた。「立つ鳥跡を濁さず」ではありたかったので、その点での後悔はなかったものの、転職に対する自身の考えの甘さを痛感し、それまでに培ってきたものが世間では通用しないのだと打ち拉がれた。ただ、毎日家に居る亭主を見ながら出勤する嫁に無用な心配を掛けたくなかったので、「離職期間は3か月以内」という目標を定め、努めてポジティブに振る舞った。転職活動をしながら、“主夫”として、掃除、洗濯、炊事などの家事をこなした。
 
 登録していた転職サイトを通して、エージェント数社から期待の持てるコンタクトを受けたが、面談に赴くと一転、「前職を辞めた理由がどうも腹落ちできない」「年収200万円ダウンは当然」とまで言われて、心が折れそうになったこともあった。しかし、その度に、気持ちを立て直し、経歴の棚卸しと職務経歴書の推敲を重ね、自身のスキルや実績を的確に訴求することに腐心した。いろんな方から「変なこだわりは捨てて、もっとダイレクトに経験が活かせる仕事を選ぶべき」とのアドバイスもいただき、活動の方向性を見直し始めていたところに、あるヘッドハンティング会社からスカウトメールを頂戴した。コンサルタントと面会し、これまでの経歴、転職の理由、真にやりたい仕事などをとても親身に聞いてくださり、それに合う2社をご紹介いただいた。
 
 早速、社長や役員の方との面談を複数回周旋いただき、その度に同行もしてくださった。結果、2社とも管理職のポスト、待遇も前職同等の条件で内定をいただくことができた。どちらにするかは迷ったが、「ダイレクトに経験が活かせる仕事を」とのアドバイスを踏まえ、前職と同じ業種に従事することにした。ただ、進取の精神に富む企業で、今回お話をいただいたのもこの業界に新規参入として立ち上げたばかりの部門だったので、完全な同業他社へ移るような後ろめたさは感じなかったし、即戦力として貢献したいと素直に思った。何より、面談でお会いした経営幹部の方々――入院中にお見舞いに来てくださったり、メールをくださったりした方々――のお人柄や先見性に惹かれ、出来上がったところに収まるのではなく、ゼロからの構築に携われる期待感、事業の将来性、一部上場企業グループとしての安定性など、総合的に判断し、ご縁をいただくことにした。それが、今の勤務先である。
 
 面談の際に「現場主義」ということについて話をしたのを覚えてくださっていた常務が、入社手続日の前に「店舗の見学にご案内しますよ」と連絡をくださった。当日、アテンドいただくエリアマネジャーが、「早くお会いしたいと楽しみにしていました」と仰ってくださった。立ち上げに携わった店舗の開店の日には、事業部のメンバーから「オープンおめでとうございます」と電話やメールをたくさんもらった。入院中、そんなことを思い返しながら、留守にしている職場に思いをずっと馳せていた。すると、「じっとしていたらいろんなことを考えてしまうでしょうが、店舗のことは任せてもらって、しっかり養生してください」と、こちらの性分を見透かしたLINEをもらったりもした。そして退院し、復帰した日にイントラの掲示板を開くと、「退院おめでとうございます」「お帰りなさい」「待ってましたよ」の文字が並んでいた。感涙に咽んでしまった。
 
 「ミドルの転職」の厳しさを思い知った転職活動だったが、入院を機に改めて、転職とは正に「ご縁」であり、仕事とは自分の存在価値を確認できる素晴らしいものだと、しみじみと実感した。そして、自分を必要として待ってくれている職場の存在のありがたみを、心の底から感じた。年相応に自分の身体を気遣いながら、会社の方々の期待や思いに応えられる働きをしっかりしていきたいと、静かに決意している。

第103回 入院回顧録(一)

 1月末から昨日まで3週間余り、入院していた。病名は心不全である。
 
 11月の中ごろ、逆流性食道炎を患い、近所の消化器内科に通院していた。胃カメラ検査も行い、薬を飲み続けていたが、一向に良くならない。再診の度に薬を一つずつ増やされては「これで暫く様子を見ましょう」と言われるのだが、咳が日に日に酷くなるし、前に屈むだけで胃酸が逆流してくる感じがしてとにかく辛い。そのうち、食欲の減退と反比例してなぜか体重が増え続け、夜も眠れぬほどに呼吸が苦しくなってきたので、これはおかしいと思い、別の内科を受診したら、レントゲンを見て医師が一言、「心不全や。紹介状を書くけど、すぐ入院やで」。心臓の大きさが通常の2倍以上に肥大していた。受診が終わったらその足で出勤するつもりだったから、スーツ姿のまま、区内の大きな病院へ急患として搬送され、そのまま入院と相成った。
 
 咳にしても体重増にしても呼吸の苦しさにしても、逆流性食道炎が原因と思っていた諸々の症状は全て心不全が原因で、酸素吸入と点滴によって、それらの症状は1週間ほどで収まった。特に、体内に溜まっていた水は大量で、食事制限の効果もあったのだろうが、強い利尿剤を投与したことで、その1週間で一気に10kgほど減ったのには驚いた。心電図も含め、体中にいろんなチューブや線が四六時中つながっているので、行動の自由は制限され、用を足すにも、小水であればベッド横に置かれた尿瓶に溜め、大便であればナースコールして車椅子でトイレまで連れて行ってもらう。なかなかに恥ずかしいことではあった。
 
 それにしても、看護師がそういったことを嫌がらずにやるのは、仕事だから当然とは言え、流石やなぁと感心する。私の場合は、用を足すこと自体は自分でできるのでまだよいが、介護を要するお年寄りであれば、下の処理もこなさなくてはならない。誰が名付けたのか「白衣の天使」なんて呼ぶのであるが、こちとら病身にあっては心も弱るのであって、優しく接してくれる看護師は、確かに「天使」の如くに映る。その仕事内容を鑑みるとき、何と尊い職業だろうかと思うし、相応の待遇を受けるべきだとも考える。我儘言い放題のお年寄りたちを御している様子を見るに、せめて、少なくともこの病棟内において最若年であろう私は、決して看護師さんたちの余計な手を煩わせることなく、良い子にして過ごそうと心に決めた。
 
 そんな“若年”の私に、更に若年であろう看護師の殆どは敬語で話をしてくれたのだが、何人か、他のお年寄りに対するのと同様に、「大丈夫?」「ごめんね」などとあやすような口調で物を言ってくる人がいて、これが少し気に障った。「自分は年寄りとは違う」という下らないプライドがそういう感情にさせているのだろうが、しかし、相手の立場や状況がどうであれ、年長者には敬意を持って接するのが長幼の序というものだろうし、だとすれば本来、お年寄りにだって敬語で話すのがあるべき姿なのではないだろうか。
 
 そんなことを病臥の徒然に考えていたある日、看護学生の実習が始まった。同室の、73歳になる爺さんのもとにも、一人の女子学生が指導教員に付き添われてやってきた。緊張に声を震わせながら、如何にも定型句と思しき挨拶をするのがカーテン越しに聞こえてくる。しかし、爺さんは何も言わない。肺炎を患って入院しているこの爺さん、病気自体はとっくに完治しているらしいが、動くのを厭い、リハビリにも応じない上に、看護師が「そんなんやったらトイレも行かれへんから、お家に帰られへんやないの!」と叱っても、家族との折り合いが悪いのか、「帰りたない……」と憤(むずか)る始末であるから、学生さんにはなかなかの試練だろうな、と思った。
 
 しかし学生は、爺さんのところに日参しては、優しく、そして地道に声を掛け続ける。爺さんは決して応答しないので、どこまでも一方的ではあるのだが、他愛もない話題の中に、「おトイレ行ってみますか?」「車椅子に乗ってみますか?」「お風呂に入ってみますか?」などと織り交ぜてみる。当たり前だが敬語である。爺さんはどこまでもだんまりを決め込んだままだが、無理強いすることなく、感情的になることもなく、爺さんの無言を“返事”のように受け止め、「じゃあ明日は一緒に頑張ってみましょうね」などと“会話”を続けている。そして、おむつを替え、体を拭き、下の処置をやっている。その献身的な看護の様子に、私はただただ、胸を熱くするばかりだった。
 
 それから暫く経った日、爺さんの奥さんがやってきた。「腹が減るからパン買うてきてくれ」などと指図しているが、「出されたもん、ちゃんと食べや!」とかわしている。何や爺さん、ちゃんと声を出せるやないか、と心の中でツッコんでいたら、学生がやってきて、一瞬、体を硬直させた。「お、奥さまでいらっしゃいますか?」と声を上ずらせる様子は、さながら、愛人が本妻に出くわして狼狽しているような雰囲気であった。学生の挨拶を受け、奥さんは、日頃夫が世話になっていることの謝辞や、夫の家での普段の様子、自分はかつてこの病院で清掃職員として働いていたことなど、フランクに語った。その鷹揚な人柄に、学生はすっかり魅せられた様子で、爺さんそっちのけで会話を弾ませている。そして、帰り際に奥さんが「手のかかる人やけど、頑張って、良い看護師になってや」と声を掛けたときには、少し涙ぐんでいるようだった。
 
 爺さんは、妻と学生のやり取りに思うところがあったのか、その明くる日、「明日、一緒にお散歩に行きませんか?」といつものように声を掛けられると、遂に「うん」と答えた。学生は「本当ですか!? ありがとうございます! 絶対ですよ、約束ですよ!!」と、喜びを抑えることができない様子だ。次の日、爺さんはちゃんと約束を守り、学生と一緒に、車椅子での病院内散歩に出掛けた。30分ほどして病室に戻ってきて、爺さんをベッドに寝かせた後、学生は何度も何度も、「ありがとうございました」と繰り返していた。そして夕方、「今日はありがとうございました。明日また来ますね」と言って帰ろうとした学生に、爺さんは「お疲れさん」と声を掛けた。学生は「うわぁ……」と言って顔を押さえた。ナースの卵たる者が、これしきのことで感情を揺さ振られ、泣いているようではいけないのだろうが、私は彼女にすっかり感情移入し、カーテンのこちら側で貰い泣きしてしまった。
 
 その翌日から、学生の爺さんへの話し方が少し砕け、軽いタメ口になった。しかし、そこに不遜な感じは微塵もなく、それが至極当然であるようにさえ感じられた。これは学生さんが爺さんとの間に築いた信頼関係の賜物であろう。大いに自信を持ち、勲章にすればよいと思う。直接には何も享受していない私だが、この学生の姿を見ることが、自身の退院に向けての励みにもなった。日々の仕事に追われる看護師たちの眼に、彼女の甲斐甲斐しい姿は一体どのように映っているのであろうか。
 
 学生の介助を受けながら、爺さんは自分で口を濯いだり、浴室やトイレに行ったりするようになった。看護師や理学療法士の言うことは聞かないなど、相変わらずなところはある爺さんだが、ご家族やケアマネージャーを交えての退院後の相談も進み始めたようだ。私は先に退院したが、実習中にこの爺さんが退院できることを、この学生さんの成長のために、願いたい。

第102回 吉本新喜劇の「不易流行」

 吉本新喜劇が大好きである。土曜の半ドン授業を終えて小学校から帰宅し、昼飯を食べながらテレビで放映される新喜劇を見ていたから、幼いときからずっと親しんできた。時間に余裕のできた最近は、なんばグランド花月NGK)やよしもと祇園花月の舞台をしばしば堪能している。ライブの迫力はまた格別で、四十路を迎えて、ますますその魅力にハマっている。
 
 ところで、ある週の毎日放送の放映で、辻本茂雄座長の公演回を見た人たちによる、毎回同じでつまらないというネット上の書き込みを目にした。確かに「毎回同じ」である部分は多いが、「毎回同じ」ところでちゃんと笑いは起きる。私は、この回の公演をライブで観ているから、その笑いがサクラではないことも知っている。むしろ、“壮大なマンネリズム”こそが吉本新喜劇アイデンティティなのであって、花紀京岡八郎(後の八朗)、原哲男船場太郎木村進間寛平、室谷信雄といった人たちが看板であった当時と、本質的なテイストは何ら変わっていないと思う。それに、ベテラン座員の浅香あき恵が、辻本座長の公演について「こちらは定番のお馴染みギャグが満載なので、お客様の、テレビで見たものを見たい!のニーズに応えてくれる週なのです(笑)」と、自身のブログ(6月6日)で綴っている。客もまた、“壮大なマンネリズム”を求めているはずなのだ。
 
 かつて、凋落傾向にあった吉本新喜劇を立て直すため、『新喜劇やめよッカナ!?キャンペーン』を展開し、大胆な改革を図ったことは夙に知られる。人気をV字回復した新喜劇が、全国展開へと踏み出してゆくのは当然の流れであった。そして、その流れの中で1997年から、平日のゴールデンタイムに全国ネットでの放送が開始されたが、これまでの新喜劇とは「何かが違う」という感が拭えず、そのうち見るのをやめてしまった。「土曜の昼」という放送時間が習慣として染み付いていたからかもしれない。吉本とは無関係なゲストが出てきて空気や間を壊したり、取って付けたトークコーナーがあったりしたからかもしれない。関西のローカルものを全国に売るのだから、アレンジが必要なのは分かる。でも、“壮大なマンネリズム”が吉本新喜劇の美学であると理解する者にとっては、やはり「何かが違」ったのだ。そんな違和感は当の役者たちが最も痛切に感じていて、中でも、読売新聞に掲載された「当時、大阪に帰って来るたび、『何してんや、何で普段の新喜劇せえへんの?』って言われて、辛かった」という内場勝則のコメントは胸に迫った。そんな歴史を経て今の吉本新喜劇があることを知れば、「毎回同じ」と批判をする気には、少なくとも私はなれない。
 
 さて、“壮大なマンネリズム”が貫く吉本新喜劇ではあるが、その本質は、あくまで「芝居」にあると思う。それぞれの役者の持ちネタやギャグがあって、観客はそれを期待し、それが出たら大いに沸くのであるが、それは脈絡なく出ている訳ではなく、ストーリーの中でそれが挿入される必然性があるのだ。例えば、心斎橋筋2丁目劇場出身の島田珠代が新喜劇に入った当時、一人コントのノリで荒唐無稽なことをやっていたら、浅香あき恵に「珠ちゃん、NGKは基本お芝居。役柄設定もあるし、1人でやってるんじゃない。かわいくまとめてから、ヘンテコな方にする方向に、変えたほうがいいんじゃない?」(毎日放送よしもと新喜劇』公式サイトの座員インタビューより。以下、※印は同様)と指摘を受け、今のスタイルに達したという。また、座長の一人である川畑泰史は、「一の介さんの『おじゃまします』、桑原師匠の『ごめんください』も、自分の家に帰ってきた時に言うのは、僕の中ではちょっと気持ち悪いんですよね。極力、他所から来る人というシチュエーションにしたい。……ドリルのネタも、すっちーが吉田君を殴る必然性をつけて欲しいんですよ。そりゃ、棒で殴るわな、という。やることは一緒なんですが、その連続の中に大事なものがあるんじゃないかなと思います」(※)と、一家言を述べている。“壮大なマンネリズム”も、こうした「芝居」へのこだわりの上に成立しているものなのだ。
 
 一方で、昔ながらの新喜劇を金科玉条よろしく固守しているだけでは決してない。先述の『新喜劇やめよッカナ!?キャンペーン』を転機とし、若手の台頭によって、“新しい新喜劇”が生まれている。新体制以後の座長経験を有する吉田ヒロは、「(新しいことをするのは)しんどいですよ。しんどいのが楽しいんです。まわりに同じことをしてると思われたくない。どういうか……常に新鮮でいたいんですね」(※)と、自身のポリシーを語っている。その後、「金の卵オーディション」で加入したメンバーがさらに新しい風を吹き込んでいて、若手座員のみで舞台を作る『しんきげき10』など、意欲的な取り組みも増えている。「いいーよぉ~」のギャグで人気のアキは、「新喜劇にダンスを融合する」という新境地を開いた。自身が脚本・演出・主演を務める『JOY! JOY! エンタメ新喜劇』も、この9月で3回目を数える。小籔千豊座長は、「伝統が8割、斬新が2割です。ただ先人たちが編み出した奥義の巻物ばかり使っていても、セコイ。座長になったんで、借りるばかりじゃなくて、新しいワザを巻物に記して、長くして次の人たちに渡さなアカンと思う」(※)と考えを述べていて、“壮大なマンネリズム”の中に進取の精神が貫く、吉本新喜劇の「不易流行」をよく表している。
 
 そして何より、吉本新喜劇の最大の魅力は、“全員野球”という点にあると思う。これについては第78回でも述べたが、松竹新喜劇は、藤山寛美という一枚看板が全てであったのに対し、吉本新喜劇は、誰かのボケに対して舞台上の一同でコケるという“全員野球”であり、その違いがそのまま人気の差になったという、『やめよッカナ!?キャンペーン』の仕掛け人でもある、元吉本興業常務の木村政雄の説明が最もしっくりくる。今の“新しい新喜劇”に、桑原和男池乃めだか末成由美島田一の介といった古参メンバーが今なお精力的に出演し、若手と共に活躍していることも、私には大きな魅力に映る。
 
 その桑原和男が語る、「気持ちは扇の要やないけど、僕とめだか君で、お芝居の雰囲気は残して、いらんところは淘汰しながら若い人に教えていったらいいのと違うかなと、そう思いながらやってました。だから、人気を取り戻した時は嬉しかったというか、安堵しましたね。……大阪というか、『なにわ』は笑いの土壌がしっかりしてるでしょ、必ず笑いを求めてる。だから絶対、廃れませんよ。何があっても。お客さんと芸人と会社が三位一体で生きている限り、吉本新喜劇は永久に残ると思います」(※)という言は、新喜劇の歴史と未来を、実に端的に表していると思う。
 
 長きに亙って吉本新喜劇を支えてきた古参メンバーである、井上竜夫島木譲二中山美保が、この1年の間に続いて鬼籍に入った。その喪失感は今も大きいが、「金の卵」世代である酒井藍が、7月26日の舞台から座長に就任する、明るいニュースも入ってきている。初の正式な女座長、そして新体制以降では最年少となる新座長であり、吉本新喜劇の歴史に、大きなエポックが刻まれる。60年近い歴史の重みを背負いながら更なる高みを目指す、「不易流行の吉本新喜劇」を、“全員野球”で作っていくことだろう。

第101回 新・北国の春

 新卒入社以来、20年余に亙って勤めてきた会社を辞めた。毎日毎日、ゾンビのように屹立してくる仕事に立ち向かい、自らを省みる心的余裕もあまりなかったが、どこかに「このままでよいのか」という、漠然とした閉塞感も覚えていた。第99回でも綴った、1年前の義父の死をきっかけに、もう少し家庭を顧みたいとも思うようになったし、手に職をつけてキャリアアップを図りたいとも考えた。
 
 そういう訳で、退職を機に、というのも皮肉ではあるが、社会人になって初めて、有給休暇というものを行使し、所定の公休もつないで1か月まるまる休んだ。それまで残業や休日出勤の日々であったから、この落差はあまりに大きく、定年退職した人はきっとこういう心境で毎日を過ごしているのだろうと、仄かな理解を示している。ただ、如何に満身創痍の体を休めたいとは申せ、家に引き籠もってばかりいたのでは老化が一気に進んでしまうのではと不安にもなる。幸い、在職中のご縁で、社内外のいろんな方から連日お声掛けをいただき、酒席を設けてくださったので、自宅で塞ぎ込むことはなかったし、セカンドキャリアに向けて、さまざまなアドバイスもいただくことができて、充実した1か月を過ごすことができた。
 
 個人的には、まとまった休みをとって旅行することもこれまではなかなか叶わなかったので、「卒業旅行」と称する一人旅を企画した。「家庭を顧みたい」と言いながら家人を置いて旅に出るとは何事ぞ、とお叱りを受けそうだが、彼女は何日も仕事を休む訳にもゆかず、「一人でのんびり行ってきたらええやん」とのお言葉を得て、単身、旅立つことにした。
 
 JRは、片道101km以上で、経路が一筆書きになっておれば、1枚の通しの切符を買うことができ、何度途中下車しても構わない。当然、下車駅で一々買い直すよりもはるかに安いから、時刻表を買ってきて、巻頭の地図をにらめっこしながら行程を考えた。1日目は、大阪から「サンダーバード」で金沢まで行き、北陸新幹線に乗り換えて長野へ。2日目は、高崎経由で新潟まで新幹線を乗り継ぎ、そこから羽越本線の特急「いなほ」で秋田へ。3日目は、死ぬまでに一度は乗りたかった「リゾートしらかみ」で五能線の車窓を堪能し、新青森から北海道新幹線を経て、新函館北斗へ。4日目は、「スーパー北斗」で南千歳まで行き、新千歳空港から飛行機で帰る、という3泊4日の行程である。第13回で記した6年前の旅は、夜行の急行「きたぐに」と、特急「いなほ」を乗り継いで秋田まで行ったが、酷い荒天のため途中で降ろされ、代行バスで向かったので、そのリベンジも兼ねている。

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 ただ乗り物に乗っているだけの旅行と思われるかもしれないが、「旅の醍醐味は非日常に飛び出すこと」だと思うので、知らぬ土地の風景を眺める移動そのものも、旅の愉しみなのである。北へと向かう今回の旅は、車窓左手に広がる日本海が各所で望め、しかも、それぞれの場所や通過時刻が異なるから、海の表情もまた違う。北陸新幹線から見えた糸魚川の海は、意外と静かで穏やかで、昨年末の大火に傷ついた街を優しく見守っているかのよう。羽越本線の車窓に映ったのは、6年前とは違って、陽が傾き始めた桑川付近、太陽の沈みゆく吹浦付近、日没後の薄暮の山形・秋田県境付近と、北へ進むにつれて空と海の色が刻々と変化する、静謐な日本海であった。3日目の五能線は、雲一つない空、どこまでも広がる濃紺の海、ごつごつした岩のコントラストは、「風光明媚」なんて陳腐な言葉では表現し尽くせぬ美景。大いに目の保養と心の洗濯とになった。
 
 車窓の愉しみは海だけではない。北陸新幹線からの立山連峰北アルプス上越新幹線からの上越国境。「いなほ」からの出羽三山鳥海山等々、雪残る早春の山の美しい姿が拝めたのも、北への旅ならでは。中でも胸を熱くしたのは、「リゾートしらかみ」から望めた岩木山。「津軽富士」とも称される青森の名峰であるが、これを眺めていると急に抒情的な気持ちに駆られ、五所川原を過ぎて、雪に覆われた真っ白なりんご畑の向こうの真正面に聳える姿を認めたときには、どうした訳かこみ上げるものがあり、落涙してしまった。1986年の大河ドラマ『いのち』で、坂田晃一の手による美しいテーマ曲の調べに乗せて、この岩木山がシンボリックに映し出されるオープニングが印象深く、りんご農家に嫁いだ主人公の女医が、さまざまな試練や確執を重ねるドラマの内容とオーバーラップしてしまったのかもしれないが、それでも早春の雪景色は、優しさを感じさせるものであった。
 
 「食」もまた、旅の愉しみである。ヘタレの一人旅なので、店に入って手酌する勇気はないのだが、各地の駅弁をアテに、新幹線の車内やホテルの部屋で呑むのもまた一興。金沢の「輪島朝市弁当」、高崎の「だるま弁当」、秋田の「あきたこまち弁当」、函館の「鰊みがき弁当」に舌鼓を打った。また、長野では、出張中の幼馴染みとの邂逅が偶然に叶い、戸隠そばをはじめとする郷土料理に、信州の地酒を楽しめる居酒屋で盃を交わせたのもラッキーだった。我々の座ったカウンター席の横で、やはり一人旅と思しきうら若き女性が、静かに地酒を啜っていて、自分が20年若かったら声を掛けたのに……などと思いながら、四十路半ばのおっさんはとぼとぼホテルへ帰ったのであった。そういえば3日目の夜は函館山に登ったのであるが、ちょっと人気の少ないところに行くと若き男女がチューとかしているのであって、「お前らこんなとこでちちくり合うてんと、ちゃんと夜景を鑑賞せえよ」と注意しようと思ったが、後の虚無感が怖いので止めた。おっさんの一人旅も、シーンによっては何だか切ないね。
 
 さて、3日目、函館山からホテルに戻り、「鰊みがき弁当」をつまみながらチューハイを呑んでいると、地元のケーブルテレビで、市内の中学校の卒業式のノーカット放送という凄い番組をやっていた。卒業証書授与もノーカットであるから、卒業生全員の氏名と顔はばっちり流れるし、故あって出席していない子は、名前だけ呼ばれてスキップされるのも生々しく流れる。物凄いことよと思いつつ、いつしか食い入るように見てしまった。そして、自分はかつて、学校の先生になりたかったのだということを思い出して、またしても涙が出てきた。
 
 最後の4日目、「スーパー北斗」の車窓から噴火湾を眺めつつ、前夜のテレビを反芻しながら、自分の来し方と行く末に思いを馳せた。前職で、新卒の採用や研修に携わる仕事をしていたとき、同僚から「激務やのに、いつも人の心配をしてるね」と言われたことがある。思えばこれが最高の賛辞だった。「学校の先生」は叶わなくても、やっぱり、人の成長や人生を応援する仕事をしたいなぁと思う。そのために身につけなければならないスキルもある。北へ向かう一人旅はこれで終わりだが、自分探しの旅はこれからである。

第100回 百物語

 2008年の正月に始めた拙ブログも、途中、3年ほど放置したこともあったが、漸く100回を迎えることができた。私が拙文を認(したた)めるに際して範とした方のブログがあるのだが、この方は1997年に開始され、2005年に368回を以て擱筆された。そこまで続けられるかどうかは分からないけれども、まずは「100回」を目標としてみた。週に1本というペースを確立し、そのペースで行けば、2014年の秋くらいに100回に到達できるという算段だったが、これで生計を立てている訳でなし、誰かから次回を心待ちにするファンレターが届く訳でなし、徒然の慰みに書き散らしているだけの駄文であるから、これだけの歳月を要してしまうのは宜なる話である。それでもご愛読いただいている奇特な方々の存在こそが、筆を執ることを続けられるエネルギーなのであり、心から感謝を申し上げる次第である。
 
 それにしても、登山に喩えるならば、頂上が果てしない彼方にあるときは、いつ心が折れるとも知れないのに、そこに手が届きそうなほどに距離を縮めてくれば、何とか奮起できるものであるが、「100」というのは、そうした山の頂のようなものであり、やはりそれだけの節目なのである。換言すれば、「現実的に何とか手の届きそうな、我々にとっての最大の数字」が、「100」なのかもしれない。実際には千円札や一万円札を日常生活では扱うのだが、例えば、その値段を1円玉に両替した物理的な量が想像できるかと言えば、そうではあるまい。人類にとって「唯一の永遠」である時間の世界でも、100年を1世紀とする単位はあれども、それ以上は存在しないが、これも、人間が生き永らえられる限界が、およそ100年ということなのだろうし、実際、そうである。
 
 そう言えば小学校のとき、『全国こども電話相談室』というラジオ番組があり、ここに「無量大数という数の単位が最も大きいらしいが、それより大きな数字はどうやって表すのか」という質問を寄せたことがある。ただし、夜も眠れぬほど真剣にそのことを思い悩んだ訳ではなく、「電話のお姉さん」の二階堂杏子と話がしたい、そしてOAで自分の声が流れるかもしれないというミーハーな理由で掛けただけの電話であった。電話こそつながったものの、放送されない別のお姉さん(というより声質は明らかにお母さん)が電話を取り、回答者も永六輔無着成恭といった錚々たる人ではなく、恐らく「くだらない質問」の担当として控えている人が如何にも無機的に答えただけであった。尤も、もともとは級友との戯れをきっかけに掛けてみた電話だったし、その日にやっていたプレゼント企画には当選し、番組の最後で私の名前がお姉さんに読み上げられ、後日、お姉さんの直筆メッセージが添えられた番組特製のトレーナーが届いたから、本懐を遂げた点で十分なのだが、件(くだん)の質問に対する回答は、「実際の生活でそこまで大きな数を扱うことはないから、そんなことは考えなくてよろしい」という、何とも腑に落ちぬ内容であった。千や万という数字は、我々人間が考えるべきでない数量なのでは、とさえ思われる。
 
 歌謡曲に目を向けたとき、これもまた、100を超える大きな数字を扱うものがなかなか想起できない。私の知る限りで最大の数量を扱ったものは、THE ALFEEの『100億のLove Story』と、田原俊彦の『100億年の恋人』くらいであるが、前者は、歌詞を見ても「100億」である必然性がどこにも見出せないし、後者では「100億年の恋人 ずっと君を探してた 100億年の恋人 もう 君を離さない」などと歌っているが、探すのに100億年、交際に100億年、都合200億年もかけて何をするというのだろうか。軽々しく破格の数量を口にしてはいけないと思うのだ。その点、幼き日から愛唱してきた歌の数々を回顧すれば、「数字の1はなあに 工場の煙突」と、折り目正しく「1」から始め、天辺は「一年生になったら 友だち100人できるかな」までである。やはり100が最大なのだ。
 
 さて、自身が子どもの時に好きだった芸能人は、何といっても山口百恵である。毎日、幼稚園から帰った後、京阪電車牧野駅に赴き、「今日こそは百恵ちゃんが来てくれる」と待ち焦がれては、日の沈む頃に母親が怒りながら迎えに来て、肩を落としつつ家路に着いたものである。年端もゆかぬ私は、「大きくなったら百恵ちゃんと結婚するねん」と日々公言していたのだが、小学校への進学直前、物の分別がつくようになった年齢であっても、愛しの百恵ちゃんが三浦友和に奪われるショックは計り知れなかった。それほどまでに百恵に心酔していた私には、到底納得できぬことが一つあった。幼稚園に「千恵」という名の子がいたのであるが、「百恵ちゃんが100に甘んじているのに、こいつが1000を名乗るとは何事ぞ」というものである。甚だしい言いがかりであり、名字すらも忘れたその千恵ちゃんとの邂逅が叶うなら是非とも謝罪したいのだが、自分の中でその溜飲を下げることができたのは、高校で漢文を学び、「百も千も『途轍もなく大きな数』の意であって、具体的な数量は問題でない」ということを知ったときである。なれば「百恵」は“最大級の恵”ということで問題はなく、私の中で「百恵伝説」は穢されることなく今も生き続けている。
 
 だらだらと「100」にまつわるあれこれを書き散らしたが、拙ブログも次の「100回」を目指して、牛の歩みかもしれないが、ぼちぼちと続けてゆきたい。