虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第73回 四十にして惑いまくり

 私事で恐縮であるが、9月14日で40歳になった。「四十而不惑」と言ったのは孔子であるが、誕生日が来たからと言って急に落ち着きが生まれる訳もなく、相変わらず惑ってばかりである。尤も、孔子自身も、政治の世界に打って出たのは40歳を過ぎてからであり、50歳を過ぎてやっと役職を得るも、後に失脚し、亡命生活を送ることになるから、不惑以降は正に不遇の人生と言えようが、「不惑」というのは迷いを絶って、自らの思う道を進もうと決意するという意味と考えれば、腑に落ちる。
 
 私自身も、会社で一定の職責を与えられる立場にはあるものの、所詮、課長職は「中間管理職」なのであって、いざとなれば銃弾は上司である部長が浴びてくださるのであり、そうした庇護の下でのうのうと過ごしている。いつまでもそんなことではアカンよなあと焦燥を覚える40歳であるが、そうした安穏とした日々のツケが回ってきたのか、神は、どうやら私の体内に試練を与え給うたのだ。只今現在、尿路結石に苦しめられているのである。
 
 男性にとって、数え年で41歳、つまり満40歳というのは「前厄」でもある。逆流性食道炎やら胃潰瘍やらで、それまでの2年間で大概吐血を繰り返しているので、前厄といっても何を今更の感もあるが、年長者の方たちが口々に「厄除けに行きなさい」と宣うので、仰せに従って、正月元旦に、宝塚の清荒神に詣で、2,000円の大枚を叩いて御札と火箸をもらって帰った。ところが健康の不安は一向に拭えず、毎朝歯磨きをしてはオエオエいっているような状況であるが、遂に今夏、結石に倒れることとなったのである。よく見れば、家人が使う鏡台の上に置いていた御札が倒れているではないか。荒神様の祟りに相違あるまい。
 
 実は、結石は「5年ぶり5回目」の出場であり、背中に疝痛が走った瞬間にそれと分かったので馴れたものであるが、そうは言っても痛いものは痛いのである。人はよく、「死ぬほど痛い」という形容の仕方をするが、この痛みはそんな甘いものではなく、森鷗外の『高瀬舟』の如くに、「死んだら楽になるだろうということを考えてしまう痛み」なのである。
 
 初めて結石に襲われたのは20歳のとき。大学から帰り、一人暮らしのマンションでだらだらと過ごしていたら、突然、背中に経験したことのない激痛を覚えた。こういうときに限って、やれ飲みに行こうだの、やれ麻雀の面子が足らないから来いだのと、いろんな人から電話がかかってくるのである。その都度、「あー」とか「うー」とか言葉にならない言葉で応答し、「何か分からんけど大変そうやから切るわ」と言わせて話を終える。そのうち痛みは背中から腹部に移動する。壮絶な痛みのあまり、何度もトイレで嘔吐し、これ以上吐くものがなくなって、脱水症状を恐れて水を飲むが、それもまた吐いてしまう。胃の中には水しかないのだから、吐くのは当然ながら水だけである。こんなクリスタルな吐瀉物は、後にも先にも見たことがない。家の中で七転八倒しながら一晩中悶え続け、長かった夜が明けて朝一番で病院に駆け込むと、医者は開口一番、「何で救急車を呼ばへんかったんや?」と。レントゲンで米粒半分くらいの大きさの石があることを知り、利尿剤を与えられ、数日後に無事出産と相成った。
 
 2回目は25歳のとき。朝、出勤の支度をしていたら、ガス欠から一気に満タンという感じで一気に疝痛のボルテージが跳ね上がり、嘔吐でトイレの便器に顔を突っ込んだまま気を失ってしまった。そのうち、電話の鳴る音で我に返り、出てみると、職場の上司からであった。始業時刻を過ぎても出勤してこないので、どうやら激怒しているようなのだが、狂おしい痛みで動くことができず、やはり言葉にならぬ言葉で「今日は休ませてほしい」という趣旨のことを訴えた。後に、今度は寝過ごして遅刻したことがあり、平謝りの電話を入れたのだが、そのとき上司はどういう訳か爆笑していた。病気で倒れて苛烈な叱責を受け、寝坊で遅刻したときには笑って許されるというのは一体どうしたものであろうか。
 
 3回目は30歳のとき、4回目は35歳のときで、これらはさほどの痛みはなかったものの、排尿時に尿道の手前で石が引っ掛かったに違和感を覚えて、すぐにそれと判った。とにかく常に残尿感があるのが苦痛であった。初めはあまり効かなかった利尿剤が、仕事帰りに突然効き始め、当時行っていた泉北光明池の現場から、中百舌鳥、三国ヶ丘天王寺、鶴橋と電車を降りてはトイレに駆け込み、森ノ宮で降りたときには遂に電車がなくなって、タクシーでの帰宅を余儀なくされた。こういう場合のタクシー代は保険適用にしてほしいと思った。
 
 そして5回目の今回は、よりによって真っ昼間の勤務中、それも社を挙げてのイベントをやっている最中に結石の来襲を受けたものだから、進退は窮まった。脂汗を大量に流し、背中を摩って暴れる石を宥めつつ、何とかその場を乗り切ったが、限界に達して、顔面蒼白でその場に蹲った。周囲の人々は初めて私の異変を認め、誰かが救急車を呼んでくれた。「四十而初乗救急車(四十にして初めて救急車に乗る)」である。しかしその日は日曜日、どこの病院も開いているのは救急外来のみである。ましてや泌尿器科の専門医がいるところなどなく、結局、痛み止めだけを与えられ、「明日以降にどこかの泌尿器科を受診せよ」と言われるのみなのだ。与えられた痛み止めは「ボルタレン」という最強の鎮痛剤であり、服用すれば確かに痛みは引くのであるが、切れたら疝痛は再発する。しかも飲み過ぎると胃に必ず穴が開くという恐怖の薬である。倒れたのが3日間続くイベントの初日。翌日も翌々日も職場を離れる訳にはゆかぬので、皆から救援物資として与えられた「命の水」をひたすら飲み続け、用心しながらボルタレンを服用し、その3日間を乗り切った。
 
 それから1カ月以上が経過するが、未だに“ややこ”は産まれず、数日前にCTを撮ってもらって確認した現在位置は、まだ膀胱の手前だそうである。泌尿器科医にとって尿路結石は、高名な数学者が小学1年生に足し算や引き算を教えるが如きつまらない症例のようで、どこの医者も「水をしっかり飲んで、頑張って出しましょう」と軽く言うのみなのだが、5~7mmの石が最後に尿管を通過するとき、どんな痛みが待ち受けているのだろうかと思うと、ただただ戦慄に震えるばかりなのである。
 
 ここまで、何だか闘病記のようなことを書いてきて気付いたが、きれいに5年ごとに結石に見舞われているではないか。この調子で行けば、次は45歳、その次は50歳、そのまた次は55歳……と続くことになる。私にとっての「不惑」は、一体いつになったら迎えられるのであろうか。