虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第99回 決意を翻して決意する

 2016年1月1日午前0時、タバコをやめた。「強い決意を持って、禁煙など断じてしない」と公言していたにも拘らず、である。「やめた」とかな書きにしたのは、「止めた」で表記は合っているのだろうが、心情的には「辞めた」という気もするからである。禁煙と言うより「卒煙」と記した方がしっくりくる。それにしても、およそ四半世紀に亙って続けてきた生活習慣を、急に変えることができるのか。1月の中旬には大きな仕事を抱えていたので、せめてそれが終わってからではダメか――などと家人に泣きついてみたが、「あかん」と一蹴されて終わった。そう、この「卒煙」は、家人の強い命令の下に遂行されたものなのである。
 
 もともと家人は嫌煙者であり、自宅における喫煙場所は須らく指定されていた。そして、実家の義父も喫煙者であったが、同様にリビング内での喫煙は禁じられていた。「禁煙ファシスト」のレベルでの過激派ではないものの、それでも「タバコと酒に溺れる人間を、私は心から軽蔑する」と言って憚らなかったから、今回遂に発布された禁煙令には抗うべくもなかったのだが、背景にはもう少し深いものがあったのだ。
 
 家人と付き合い始め、向こうの両親に紹介してもらったのは既に10年も前の話である。仕事中に届いた「今日、親に会ってもらえる?」という召喚メールに応じて、ある日突然出頭することになった。家人は厳格に育てられた一人娘であるから、世間一般とはかけ離れた特殊な生業に身を置く私を許さないとでも言われるのだろうか。しかし取り敢えず、今日は仕事でスーツを着ていたから、格好だけなら何とかなるだろう。けれども手土産など買っていく時間的余裕はないが手ぶらは具合が悪かろうしどうしたものか……などと逡巡しながら、会社を出た。
 
 緊張に手を震わせながら駅に降り立つと、改札口の向こうに3人が立っていた。予想通りの強面の父親……なのだが、如何にもラフなフリース姿、しかも右手にはなぜかスポーツ新聞が握られている。別の意味で、ちょっと怖くなった。近くの居酒屋に入り、身を硬くして通り一遍の挨拶を終えると、「まあ、彼女の親に会うちゅうのは緊張するもんやわな、俺もそうやったわ。そやけどそう硬くならんと、上着脱ぎいな」と声を掛けてくれた。言われるがままに脱ぐと、Yシャツの胸ポケットを見て、「ん? 何や、タバコ吸うんか? 落ち着くやろから遠慮せんと吸いいな。俺も吸うわ。ほれ」と、ライターの火を向けてくれた。「酒は飲むの?」「飲みます」「何を飲むん?」「何でも飲みますが、日本酒が一番好きです」「ほっほーん。いや俺もな、仕事柄地方への出張が多くてな、そこで手に入れた地酒を集めて、家の一室を貯蔵庫にして並べてるねん」と、そんなやり取りが続き、「酒飲みの喫煙者」というだけで気に入ってもらえた。
 
 以後、結婚するまでも、してからも、女2人に「酔っ払いがタバコ蒸しながら管を巻いて、ホンマにウザいわ」と罵られつつ、ちょくちょく飲みに連れて行ってもらったり、時には「家の一室を貯蔵庫にして並べてる」地酒コレクションからセレクトされた一品を我が家に持ってきてもらったりもして、「酒とタバコ」を通じた誼は続いた。あるとき、酒を酌み交わしながら、「こんな煩い女どもは放っといて、あんたのお父さんも一緒に、男3人で旅行に行こうや」と義父が言い出した。「いいですねぇ。どこに行きたいですか?」と問うたら、「左に沢と書く地名があんねんけど、読まれへんやろ?」と、質問で返された。しかし地図マニアの私が知らぬ訳はなく、「ああ、山形の『あてらざわ』ですね」と答えたら、いたく感動して、「絶対行こう、こいつらなんか放っといて、行こう」と、酩酊状態でありながら嬉しそうに語った。
 
 ところが昨秋、義父は病に倒れた。胃癌であった。胃を全摘出する手術を受けることになったが、「決して見舞いになど来ないように」ときつく言われた。義母によれば、「無様な姿を、どうしても見られたくない」ということらしい。病院に駆け付けた家人は、帰宅してくるや、「タバコをやめて」と言った。「お父さんがああなったのは、ヘビースモーカーやったからや。お願いやから、タバコをやめて。年末まで待つから」と訴えてきた。痛切な訴えに折れる形で、年末での禁煙、いや、卒煙を決意することになった。その後、「頑張って治すから、完治したら、左沢へ行こう」との義父のメッセージが、メールで届いた。
 
 それから暫く経ったある日、たまたま点けていたテレビで、『六角精児の呑み鉄本線・日本旅』という番組をやっていた。奥羽本線赤湯駅を起点に、長井市を経て、西置賜郡白鷹町荒砥駅までを結ぶ、山形鉄道フラワー長井線を“呑み鉄”する旅だったのだが、長閑な車窓、降り立つ街の風景、地元の居酒屋で酒と料理に舌鼓を打つ姿……私の旅情をここまで掻き立ててくれる旅番組に邂逅したことがなく、永劫に続けてほしいシリーズである。そして、六角精児が旅をした「長井線」は、義父が行きたがっている「左沢線」とは違う路線であるけれども、奥羽本線から分かれるローカル線を“呑み鉄”する旅への思いは募るばかりであった。
 
 そして家人との約束通り、年が改まるのを機として、タバコをぴたっとやめた。禁煙外来に通い、薬に頼らないとやめられないと思ったのだが、仕事が立て込むと多少、吸いたくなるときはあるものの、やってみれば何てことのないものである。「1月中旬の大きな仕事」も、タバコに逃げることなく、乗り切ることができた。
 
 そして、その「大きな仕事」が落ち着いた翌日の朝、義父は58歳の若さで逝った。結局、手術の報せを聞いてから、一度も顔を合わせることがないままになってしまった。棺の中の顔はとても安らかで、義母によれば、全く苦しむことなく臨終を迎えたそうだが、癌は、ステージⅣまで進行していたことをこのとき初めて知った。家人が横から、「この人、タバコやめてんで」と言ったら、義母は「お父さん、死ぬ直前まで、隠れてタバコ吸ってたわ。タバコはあかんよ……」と力なく言った。決して禁煙しないことを決意していた私は、二度とタバコを口にしないことを、棺の前で誓った。
 
 葬儀が終わり、義母を実家まで車で送っていった。「もう、飲む人おれへんから、持って帰って」と義母から渡されたのは、秋田の地酒「まんさくの花」だった。生前、義父が「2015年一押しの地酒」と激賞し、取り寄せたものらしい。義父のことに、そして一緒に行けなかった東北の地に思いを馳せつつ、しみじみと啜りながら、故人の供養とした。タバコも吸わないで、ただひたすらに啜った。

第98回 運のない男

 年賀状の発売が、既に10月末から始まっていたということを知らなかった。例年は11月に入ってからの発売開始だったように記憶している。昨今では年賀状を出す人も年々減少していると聞くが、早くから売り始めて話題化を図り、発売枚数を少しでも伸ばそうとする戦略なのであろうか。だとすれば、早くから売り始めたことすら知らなかった人間がここに1名いる訳であって、もっと派手に訴求を図るべきではないのだろうかと余計な心配をしてしまう。年賀はがきの販売ノルマに苦しむ郵便局員たちは自爆営業に走り、金券ショップに売り捌く際の差額は自腹というのだから、かかる憂慮は尚更である。
 
 それはさて措き、年賀状というものは、出す(書く)のは面倒臭いけれども、もらうのは嬉しいという、“自分勝手の王道”の代表格ではないかと考える私は、この数年、もらった人にだけ出すというスタイルを取っている。流石に目上の人には、自分から差し出し、しかも元旦に届くように出そうとは思うのだが、年末大晦日まで仕事に追われるという言い訳の下、最近では相手の格の上下に関わらず元旦の投函である。非礼の段をご寛恕願いたいと思うが、それでも平均すれば120枚ほど頂戴するので、ありがたさをしみじみ噛み締めながら、届いた一枚一枚に目を通している。
 
 さて、その約120枚の年賀状のほとんどは、お年玉くじ付きなのであるが、どうした訳か、最下等すら1枚も当たらないということが、かれこれもう10年くらい続いている。郵便局のWEBサイトを見ると、2016年のお年玉商品の当籤確率は、1等の「旅行・家電など・現金(10万円)」が100万本に1本、2等の「ふるさと小包など」が1万本に1本、3等の「お年玉切手シート」が100本に2本とある。確率どおりであれば、切手シートの2~3枚くらいは当たって然るべきというのに、これは一体何の罰であろうか。かてて加えて口惜しきは、自分が出した年賀はがきが「当たりました」という知らせをよく受けることである。
 
 正月早々、卦体糞の悪い話であるが、我が人生を回顧すれば、どうやら「くじ運」にはとことん恵まれぬようである。
 
 昔ほどあまり見なくなったような気がするが、アイスキャンディーの棒に当たりくじの付いたものがある。あれに当たった回数は、42年もの間生きていて、片手で数えるほどである。当たりつきアイスの代表格である『ガリガリ君』を製造販売している赤城乳業のWEBサイトによると、「ガリガリ君の当りの確率は、景表法という法律に則って、公正に調節致しております。具体的な確率については、申し上げられませんが、その範囲内で還元させて頂いております(原文のママ)」と記載がある。景表法とは「不当景品類及び不当表示防止法」のことであるが、消費者庁のWEBサイトで確認すると、景品の当籤確率は「懸賞に係る売上予定総額の2%」以内に設定することになっているらしい。つまり、当たりの確率は最大50本に1本ということになる。生を享けてから今日までに当たりつきアイスを何本食したかの確かな記憶はないが、仮に月に1本ずつ食べ続けたとするなら、これまでにおよそ500本は口にした計算となり、当たった本数は片手では済まぬはず、小学校の時分ならもっと頻繁に食べたはずだからそれ以上に相違ない。当たりつきの飲料の自動販売機で当たった例もほとんどなく、確率論だけで言えば、「人並み」を著しく下回る運のなさなのだ。
 
 そんな不運ぶりであるから、偶さかに当籤の幸運に浴すると、それはもう、盆と正月が一度に来たどころの騒ぎではないのだが、これにはこれで、恨めしい事態が待ち受けている。
 
 子どもの頃、当時日本水産から発売されていた『ドラえもんソーセージ』という魚肉ソーセージのくじに当たったことがある。当たるとタケコプターが貰えるという代物であるが、ねだったものを何でも買ってもらえるような甘い家庭ではなかったから、まず、これを手にすること自体が難関であった。それだけに、割と早い段階で当たりが出たときには狂喜乱舞した。その当たりくじを発売元に送ると、程なくして景品が届いた。これをガムテープで頭に貼り付け、皆の前で滑り台の上から飛んでみた。しかし、当たり前であるがそのまま地面に墜落し負傷した。のみならず、タケコプターを頭から取り外す際、結構な数の頭髪が抜け、断末魔の叫びを上げた。折角の当籤というのに、えらい目に遭ったものである。
 
 懸賞応募もまあ当たらない。「厳正なる抽選の上当選者を決定します」「当選者の発表は賞品の発送をもって代えさせていただきます」とは懸賞の定型句である。厳正に抽選してもらえるよう、アンケートには丁重に回答し、書道に臨むような気持ちで宛名を書いて投函するのにも拘らず、である。懸賞生活なんてものを営んでいる人がいるらしいが、どうやったらそんなことが可能になるのだろうか。数打ちゃ当たるという言葉があるが、こちとら数を打っても当たらないものは当たらないのだ。それでも一度だけ、文藝春秋社の献本に当たったことがある。しかし応募したことすら忘れていた私は、発売日にその本を購入して、早々に読了した。そして読了したその日に、「おめでとうございます!」と、当籤した本が送られてきた。347ページに及ぶ長編が2冊、仲良く書棚に並んでいるのを呆然と眺めるばかりであった。
 
 それほど運のない男であるから、ギャンブルなどは全くの埒外である。競馬場にも競輪場にも競艇場にも絶対に近寄らない。大学時代にえらい目に遭って以来、麻雀は「やったことがない」ことにしている。尤も、「相手の手を読む」能力が絶望的に欠損しているので、運の以前に、将棋も囲碁もオセロもトランプも何もかもダメである。
 
 そんな次第にも拘らず、やはり大学時代の一時期、パチンコを嗜んでいたことがある。しかるに勝ったのは一度だけ、しかも金額は6000円である。やっぱりダメなのだ。ところが幼稚園の頃、日曜日に父親のパチンコに付いていって、父の膝に乗って打たせてもらったことがある。18歳未満は入店禁止のはずだが、子どもを車の中に放置して熱死させる鬼親ではなかったから、仕方なく一緒に連れて入った。父が打っているのを見て「ボクもやりたい!」とせがんで興じてみたところ、これが大フィーバー。当時のパチンコ台は、今と違ってレバーを操作して一発ずつ打つスタイルであったが、幼年時代の私は、絶妙な力加減で玉を打ち、確実に入賞口へ玉を導いてみせた。出るわ出るわの大騒ぎ、周りのおっさん連中から喝采を浴びたという。戦利品のお菓子を大量に持ち帰り、母を驚かせたが、私の親指にぷっくり水脹れができていたのにもっと驚いたと言う。
 
 今にして思えば、この時に人生の運気を全て使い果たしてしまったのかもしれない。そろそろ年末ジャンボ宝くじの時期であるが、買うか買うまいかと逡巡する日々である。

第97回 「ございます」の美学

 先日、料理研究家岸朝子氏が、91歳で死去した。氏の名を広く知らしめたのは、申すまでもなく、テレビ番組『料理の鉄人』であった。番組が終了して既に16年が経過するので、そんな番組があったことを知らないという若い人も多いだろうが、それでも逝去に際しての報道で、初代の鉄人3人からのコメントが寄せられるあたりに、今でも、この番組での姿こそが氏の印象として人々の記憶に刻まれていることが伺える。中でも、「おいしゅうございました」は、氏の人となりを表す決め台詞として夙に知られる。
 
 そんなことを考えながら、「ございます」とは何と美しい表現であろうかと、今更ながらに思うのである。英語では何であってもbe動詞で済まされるのだが、日本語は「だ」「です」「でございます」と、丁重さの段階に応じて助動詞にさえ使い分けがなされる。これが、外国人が日本語を学習するときに難儀する点の一つであるという話も聞いたことがあるが、「言霊」という語を引き合いに出すまでもなく、日本語は、語感の微妙なニュアンスや、話者の心の機微が相手にどう伝わるかを大切にする、優れた言語だと思うのだ。
 
 飛行機の機内アナウンスは「~ございます」調が基本である。あれを聴くだけで、普通席に乗っていてもラグジュアリーな気持ちに浸れるのだから、言霊のパワーは大したものだと実感する。ところが過日、沖縄に行ったときのこと。伊丹から搭乗したJALのCAは、事もあろうに「この飛行機は、日本航空2081便、沖縄・那覇空港行きです」「この便の機長は△△、私は客室を担当いたします○○です」と、2度までも「~です」とアナウンスしたのである。他の乗客の誰も、そんなことには反応しないが、私は酷く落胆し、そして狼狽した。あるべきものが突然失われたときの不安や動揺にも似た感情に苛まれながら、2時間のフライトを耐え忍んだのだが、帰路のCAは「~ございます」と言ってくれたので胸を撫ぜ下ろした。
 
 ここまで来ると、私にとって「ございます」は、最早発作時の頓服のようなものであるが、「こういうシチュエーションなら『ございます』と言うだろう」とか、「この人なら当然『ございます』と言ってくれるはずだ」といった期待があって、それが期待どおりであれば安心するし、そうでなければ座りの悪い心持ちに駆られるのである。そして昨今、この「期待」を裏切るシーンが、静かに増えつつあるような気がする。
 
 例えば、かつてはどの百貨店にもいたエレベーターガール。「上へ参ります」と言いながら腕を直角に挙げる所作は実に美しく、「3階、婦人服のフロアでございます」など案内するそのエレガントな姿に、憧憬を覚え、「エレベーターガールごっこ」に興じた子どもは少なくあるまい。美しい所作に、「ございます」の上品な発声。それは百貨店の華であり、ステータスでもあったはずである。しかし、いつしかほとんどの百貨店からその姿を消し、機械的な自動音声が「3階です」と無機質に語るのみである。
 
 電話応対も、昔は、一般家庭でさえ「ございます」が主流だったように記憶する。小学校の頃、友達の家に電話を掛けたら、出たのが男の子であっても「はい、○○でございます」と言う家庭が多かった。そのように躾けられていたのだろうし、そのように電話を出るような家庭の子は、どんなにやんちゃくれであっても、やっぱり“ええとこの子”と映ったものである。携帯電話の普及に伴って、固定電話を持たない家庭が増えつつあることが背景にあるのか、はたまたセールス電話への防御であるのか、「○○でございます」が消えるどころか、自らを名乗ることすらなく、「はい」や「もしもし」が跋扈している。
 
 なぜ「ございます」がこうして廃れていったのだろうか。慇懃が過ぎるという意見もあるだろうし、回りくどいとかまどろっこしいという考え方もあるだろう。前述したように、「上品さ」ということと不可分の表現であるから、逆にそれが鼻持ちならぬと感じる向きがあるのかもしれない。一般家庭はさて措き、企業人としての物言いとなるとブランドイメージに関わる部分もあるから、意図して「ございます」から「です」への転換を図っていることも考えられる。しかし、そうであるなら、「ございます」にも、「上品さを醸し出す」ということ以上の意図があると考えても、おかしくないのではないだろうか。
 
 関東はどうなのか知らないが、かつての関西の私鉄のアナウンスの文末は、軒並み「~でございます」だった。大阪市営地下鉄でも同様で、「毎度ご乗車ありがとうございます。この列車は、なんば・天王寺方面、あびこ行きでございます。次は、淀屋橋淀屋橋、市役所前。京阪線は、お乗り換えでございます」とか、「中津、中津、この列車は、ここまででございます。新大阪・千里中央方面へお越しの方は、次の列車をお待ち願います」といったアナウンスは、今でも諳んじて覚えている。しかし、1992年に英語のアナウンスが追加された際に、「~です」に変更され、その後、私鉄各社も追従するかのように、「~です」に転換してゆく。
 
 天下の台所たる大阪では古来、商売人は、いわゆる大阪弁とは一線を画す「船場言葉」を用いてきた。Wikipediaにはその説明に、「できる限り丁寧な表現を用いるように努め、一般の大阪市民が多用した『おます』や『だす』よりも、『ござります』や『ごわす・ごあす』を多用した」とある。船場言葉自体は廃れてしまったけれども、「~ございます」のアナウンスは、お客を大切にし、懇篤にもてなさんとする商売人の精神が、今なお息づいていることの表れなのかもしれない――何の根拠もない想像ではあるが、そう思う。
 
 聞けばやはり、「語尾が不明瞭である」「放送がくどくて煩い」などの乗客の声に応えての変更だったそうである。時代の流れと言えばそれまでであろうが、「ございます」に込められた商売人の精神がお客に受け入れられなくなったというのは、何とも皮肉な話ではあるまいか。
 
 勤務先には明確な電話応対のマニュアルがある訳ではなく、社員によって「です」派と「ございます」派に分かれているが、私は船場の商売人の精神を勝手に受け継ぎ、今日も「ございます」を墨守するのである。

第96回 夏炉冬扇

 大阪港に引っ越してきて、2度目の夏を迎えた。一昨日から私も休暇だが、今日は終わらぬ仕事を片付けに、誰もいない会社に出向いたから、全く心身が休まらない。それはさて措くとしても、夏休みに入って、朝から海遊館への観光客が地下鉄大阪港駅に降り立ち、その大群を掻き分けながら都心向きの電車に乗り込む日々であるから、出勤前から疲弊している。
 
 しかし、疲弊の原因は、我が住まいにもあるのである。
 
 夫婦2人暮らしに広い部屋は持て余し気味ということで、1部屋を減じた物件を選んだのであるが、今の物件の1部屋はロフト式なのである。ロフトにしては十分に広く、天井も低くないのでよいのだが、暮らしてみて初めてわかったことがある。ロフトルームは、夏は猛暑、冬は極寒なのだ。室内の暖気は上昇、冷気は下降するので、冷房をかければ上層部の温度は上がる一方、暖房をかければ下層部の温度は下がる一方なのである。暑さに酷く弱く、寒さに酷く弱い私にとって、これは筆舌に尽くし難き辛さであり、思慮の足らぬままにこの物件に決めたことを、今更ながらに恨めしく思う。
 
 独身時代のワンルームマンションは、エアコンが備え付けられていたのだが、これがある夏に故障し、ただの送風機と化したことがあった。備え付けであるからオーナーに言って修理をしてもらえばよかったのだけれども、寝に帰るだけのために存在した自室はカオスの様相を呈し、およそ他人を招き入れられる状態になく、家人とは結婚までに約5年間付き合ったが、この者さえ一度として家に上げたことがない。仕方がないので、ソフトタイプの氷枕を大量買いしてベッドに敷き詰め、扇風機2台を全裸の体に当てて熱帯夜を凌いだ。それでも辛抱ならぬ夜は、格安のビジネスホテルに寝床を求めたこともある。
 
 結婚して新居に移り、一晩中冷房をかけて安眠を享受できる幸せを噛み締めていたから、ロフトルームの灼熱地獄は悪夢の再来であり、これは何とかせねばと対策を講じることにした。
 
 ロフトルームに窓があれば、はめ込み式のエアコンを迷うことなく購入するところであるが、残念ながら、あるのは壁だけである。ネットで検索すると、サーキュレーターなるものが効果的であると書かれていた。扇風機と違って、直進性の高い風を発生させることができ、風量も強いのだとか。これによって室内の空気が循環できるから、上層と下層での温度差が均一になるらしい。これは我が家の喫緊の必需品と、早速に大型家電店に駆け込み、最強の品を所望して持ち帰った。ロフトルームの梯子の前には扇風機も置いて、万全を期した。
 
 確かに、何もしないよりはましではあったが、サーキュレーターのパワーは期待したほどではなく、また、扇風機には、なぜかタイマーをかけずとも6時間で自動停止する余計な機能が備わっていて、夜明け頃には寝汗びっしょりなのである。より強力なサーキュレーターの購入も検討したが、室内の空調如きにどれだけ散財すればよいのかと、途方に暮れるばかりであった。已んぬるかな、私はリビングに布団を敷き、そこで寝ることにした。
 
 ところが、である。階下では、今度は冬の極寒が耐えられない。実は夏場でさえも、階下では冷気が溜まって毎朝凍えているくらいなのだが、真冬は毛布2枚に羽毛布団を重ねて何とか凌げる程度である。それでも首から上はカバーできないから、寝ると余計に筋肉が凝り固まるという地団駄を踏むことになる。毎朝6時にはエアコンの暖房が入るようにセットするが、その温風が私の顔面を直撃するものだから唇は乾燥してひび割れを起こし、起床する際には口の周りが血だらけという断末魔的様相で、高が睡眠で、何故こんなに命を懸けねばならぬのだろうかと厭世的な気持ちになったのである。
 
 折角根付いてきたこの街であるから、再び渡り鳥のように棲み処を求めて旅立つことは考えていないが、しかしこの寝苦しさからだけは、一刻も早く抜け出したいと、滴る汗を拭いながら考えあぐねる夏期休暇の日々である。

第95回 「お疲れさま」を巡って

 社を挙げての大きなイベントがあって、昨日まで3日連続、毎朝5時に起床していた。会場ではずっと走り回ったり大声を上げて回ったりで、さすがに最終日の3日目は立ったまま意識を失うことができるほどに疲労の極致に達して、今日は普通に出勤の家人に叩き起こされる形で一旦目覚めたものの、本気の二度寝を実践して、正式な起床に及んだのは西陽が差さんとする16時半である。よくまあ眠れるものよと我ながら感心するが、そんな私は今日から夏期休暇だ。
 
 そのイベントで、撤収作業に最後まで立ち合い、全スタッフを見送ったのは我が上司である部長である。汗臭さ全開の体を引き摺って会場を後にするスタッフたちの個々に、「お疲れー!」と声を掛けられる姿には、べんちゃらでも追従でもない真の敬意を表するばかりで、次席の私も負けじと「お疲れさまでしたー!」「ありがとうー!」と絶叫してみた。
 
 大きな仕事を終えて、互いを労い合う言葉に「お疲れさま」は実に似つかわしく、他にしっくりくる表現は見当たらない。しかるにその「お疲れさま」が、最近、物議を醸していた。7月26日放送の『ヨルタモリ』での、「お疲れさま」に関するタモリの発言である。曰く、「撮影現場などで子役がやたらと『お疲れさまです』と挨拶するようになっている」「子役が相手を選ばず『お疲れさまです』を使うのはおかしい」「『お疲れさま』というのは、元来、目上の者が目下の者にいう言葉。これをわかっていない」「民放連は各メディアに『子役には“お疲れさまです”という挨拶をさせない』という申し入れをすべき」と。
 
 赤塚不二夫の葬儀での、勧進帳さながらの弔辞に感動し、『タモリ倶楽部』や『ブラタモリ』などで開陳されるマニアックな薀蓄の数々に舌を巻いてきた私は、そのタモリが何を言い出すのかと、少しく狼狽した。「ご苦労さまでした」を目上の者に言ってはならない、使うなら「お疲れさまでした」である――と信じて疑わない人は少なくないはずだ。タモリの言説が一つの“常識”として存在することは私も知っている。しかし、「ご苦労さま」も「お疲れさま」も使っては失礼だというのなら、一体どう言えばよいのだろうか。
 
 勤務先での実例であるが、面談に来られたお客様がお帰りになる際、その店舗のマネージャーが「お疲れさまでした」と言ったのに吃驚したことがある。「顧客に『お疲れさま』はおかしいのではないか」と指摘したのだが、彼は、「あのね、目上の人に『ご苦労さまです』と言ったら失礼に当たるのですよ」とドヤ顔で抗弁してくる。「そんなことくらい知っとるがな。俺は、客に『お疲れさまです』と言うのがおかしいって言うとんねん」と返したが、「ほな、どない言うたらいいんですか」と訊かれ、言葉に窮したのだ。暫く、代替の表現を考え続けたのだが、どうしても適語が思いつかない。悶々としているうちに、別の店舗で、「あっ、これや」と得心のゆく表現に行き当たった。すなわち、「ありがとうございました」である。

 ところで、「お疲れさま」に関連する違和感としてもう一つ取り上げたいのは、「お元気さま」という表現である。「お疲れさまです」では「疲れる」というネガティブなワードが含まれるので、「元気」というポジティブワードに置き換えているのだとか。世間一般にどれくらい浸透しているのかは知らないが、稲森和夫氏が京セラグループ内でこれを徹底させたのだそうで、「京セラフィロソフィー」の薫陶を受けている数々の企業で広まりつつあるのではないかと思う。現に、私の勤務先でも一部の社員が好んで用いているが、ことばには人一倍煩い性分が災いしてか、ビジネスの世界で跋扈する「人財(人材)、志事(仕事)」などの当て字と同様、こういう一般的でない表現を用いられることに、私はどうしてもアレルギーが生じるのだ。
 
 「お(ご)~さまです」という表現にはどんなものがあるのかを考えてみてほしい。「お疲れさま」「ご苦労さま」「ご愁傷さま」「お気の毒さま」等々、全部ネガティブワードではないか。「ご馳走さま」もの「馳走」も本来は「奔走」と同義で、客人をもてなすために走り回ったことを意味する。つまり、「お(ご)」という丁寧の接頭辞に加え、「さま」という敬意を含む接尾辞をつけることで、相手を労い、ネガティブなニュアンスを相殺する意味というか思いが、この「お(ご)~さま」には込められていると考えるのである。
 
 とすれば、「お元気」にわざわざ「さま」という労いの意を添えることは無用であるばかりか全くナンセンスなことで、むしろ、「お疲れさま」という表現にネガティブなニュアンスを含むなどと云々することは、言い掛かりやイチャモンの類ということにさえなる。折角の労い、すなわちネガティブをポジティブに変換した心遣いを蹂躙するものである、とまで述べると言い過ぎか。
 
 それはさて措き、ネット上をあれこれと検索してみても、「お疲れさま」については揺れているようだが、大切なのは、話し手にも聞き手にも違和感がなく、気持ちがこもっていることではないかと思う。格の上下に関わらず、朝っぱらとか休みの日に「お疲れさまです」というメールが来れば気持ち悪いし、その気持ち悪さを感じないままに使っていること、換言すれば、杓子定規の“常識”にとらわれ、思いのこもらぬ言葉を用いていることこそがどうかしているのである。タモリの発言も、子役が一丁前に「お疲れさまです」なんて言葉を使うことに違和感を覚えて、というのが真相であると信じたい。

第94回 ホテルで会ってホテルで別れる

 過日、藤原竜也主演の『ハムレット』を観に梅田芸術劇場へ行ったときのことである。「梅田」を名乗るものの、地下鉄で行くなら御堂筋線の中津で降りる方が近いので、そのようにしたのだが、最寄りの4号出口を出て、地上の様子がおかしいことに気付いた。どうも空が広いのである。振り返ってみると、そこに聳えていたはずのビルがない。ここに建っていた三井生命ビルが、いつの間にか解体されていたのだ。
 
 このビルの上層階には「三井アーバンホテル大阪」があって、地下鉄の車内放送でも、長らく「三井アーバンホテル大阪、大学受験の河合塾大阪校へお越しの方は、次でお降りください」と流れていたから、記憶にある方も多いだろう。
 
 話は今から四半世紀近く前、大学受験のときまで遡る。大阪の池田にあった某国立大学(今は柏原の辺鄙な山の上に移転)を受験するために、入試の前々日に家を出た。当時は岡山に住んでいたのだが、当日7時前の新幹線に乗れば、試験開始時刻には十分間に合うし、そもそも大阪の出身である上、池田には親戚もいて何度も足を運んでいるので、迷う方もないのであるが、「試験当日と同じ時刻に出て、当日と同じ電車に乗り、試験会場まで下見に行ってみることは欠かせない」などと記された受験情報誌と、JTBの受験生パックのパンフレットを親に見せて言い包め、“2泊3日の受験旅行”にいそいそと出掛けたのである。下見が終われば後は自由、試験も午前中に終わってやっぱり自由、そんな旅行感覚で受験になど行くから、第1志望の大学にも関わらず落ちてしまったのだが。
 
 新大阪駅に降り立ち、地下鉄に乗り換えて2駅、中津の駅に直結しているそのホテルこそ、「三井アーバンホテル大阪」であった。件の地下鉄の車内放送で名前はさんざん聞いていたから、宿泊先は迷わずここに決めた。コンコースから直結の通路を通ってホテルのロビーへ向かい、緊張しながらフロントにクーポンを差し出してチェックインする。渡されたルームキーに示されたのは14階の部屋。そこそこ高層階だし、さぞかし眺めはよかろうと思って部屋に入ると、窓に映るのはビル内部の吹き抜けばかりで、向かいの部屋が丸見えである。後に分かったことだが、このホテルはロの字状の造りになっていて、シングルルームは全てその内側に配置されているのであった。これには少々がっかりした。
 
 さて、宿泊の予約はパックで行ったものだから、朝夕の食事は込みである。ここで一つ難題が発生する。以前にも記したが、私は一人で外食するのがひどく苦手なのである。と言うより、それまでに一人飯など経験したことがないのだ。チェックイン時に渡された食事券を握り締め、最上階のレストランへ向かう。席に案内されたはよいが、メニューを持ってくる訳でなし、注文を取りにくる訳でなし、どうしてよいのか分からぬままじっと耐えていたら、そのうちウエイターがスープを持ってきた。どうやらコース料理のようである。勝手が分からず、ただ出されるものを出されるがままに口へと運び続けるのだが、今度は何を以て終了とするのかが分からない。デザートらしきものが出てきて、逡巡の末、きっとこれで終わりだろうと判断、席を立った。パックだから当然精算はないのだが、そのまま黙って店から出てよいのかどうかも分からず、おろおろしているうちに「ありがとうございました」と言われたので、安堵と解放感で、逃げるようにして部屋へ戻った。お分かりと思うが、最後のコーヒーを飲まないまま席を立っている。
 
 そんなほろ苦い思い出の“初ホテル”であったが、それだけに思い入れもあって、地下鉄に乗る度に車内放送を聞いては自嘲気味に嗤い、社会人になってからも、深夜に及ぶ残業が続いて帰宅が面倒臭くなったときには、格安プランで何度かお世話になった。後に、経営母体が変わったのか、「コムズホテル大阪」と名を改めたが、それ以降も、あのときのレストランでランチバイクングをやっていて、“プチ贅沢”と称して、家人とよく行ったものである。
 
 そんな思い出のホテルが、いつの間にか跡形もなくなくなっていた。隣にあった、ライバルの東洋ホテル(こちらも後に名を改め、「ラマダホテル」となった)も、同じように閉館になったという。格安のビジネスホテルに押されてしまったのか、はたまた中津というロケーションが災いしたのか、真相は分からないが、思い出のスポットがまた一つ、記憶の彼方へと消えゆくことは、そこはかとなく哀しい。三井生命ビルの跡地にはタワーマンションが建つそうであるが、それを見る度に、私にとってのランドマークタワーの幻影を見出すことであろう。

第93回 修学旅行の本義

 先日、知り合いの小学生の子が修学旅行に行ってきたと言うので、「どこに行ったん?」と問うてみた。答えて曰く、「明治村と、名古屋港水族館と、ナガシマスパーランド」と。
 
 更に続けてみた。「ふうん。ところで『修学旅行』というのは読んで字の如く、『学問を修める旅行』なんやけど、明治村ではどんな学問を修めてきたん?」と。しかし、「……」と答えに窮している。可哀想なので、「『学問を修める』というのは、それによって学びを完成させることを言うねん。開国以降の明治時代の文化や文明について、学校の授業で習ったようなことがあれこれとリアルに再現されていて、ほっほーんと思ったやろ?」と助け船を出してみた。けれども、ますます俯き黙ってしまうばかりである。「ま、ええとしよか。ほな、名古屋港水族館では何を学んだんや?」「……」「ごめんごめん、じゃあ、ナガシマスパーランドでは? 観覧車から木曽三川が見えて、輪中の人々の暮らしに思いを馳せてみたとか?」
 
 いよいよ苦しくなった彼女は、遂に涙声になって「……みんなでジェットコースターに乗って楽じんだだげでじだぁぁぁ」と語る始末で、幼気(いたいけ)なる子どもを苛めるのは本意にあらずと、それ以上の追及は控えることにした。
 
 子どもたちにとって修学旅行というのは、どこに行ったかとか、何を見たかとかはどうでもよいことで、自宅や学校を離れ、友達と非日常の時間や空間を共有することこそが大切なのであろう。「宿泊」という要素はその点において極めて重要な意味を持ち、日帰りの「遠足」とは須らく一線を画されるべきなのも論を俟たない。教師の目を盗んで女子の部屋へ赴き、目眩く逢瀬を重ねるという秘め事は、大人の階段そのものである。かく申す自分とてそうであった。ただ、それが修学旅行の本義かと言えば、そうではあるまい。
 
 それに、落ち着いて考えれば、教師の作ったスケジュールに従って移動しただけの彼らに「どこへ行き、何を学んだか」を問うのはそもそも無体な話なのであって、「修学旅行」の本義を忘れた行程を考案する教師たちこそどうかしているのである。各学校の修学旅行の行き先は概ね固定化されているのだから、何度も引率して訪れているだろうし、子どもたちの学びの機会とするならば、当地のことはまず教師こそが熟知しておいて然るべきとも思うが、これがどういう訳か、そうでもないみたいなのである。
 
 古い話で恐縮であるが、小学校のときの修学旅行を思い出す。当時は岡山に住んでおり、行き先は京都・奈良・大阪であった。ところが私は、その数年前まで大阪暮らしであったから、訪問先の全てが「行ったことのあるところ」なのである。テンションの上がらぬ話ではあるが、出身者として自分が観光案内くらいのことはできればと思っていた。
 
 実施日が近づくにつれ、教師たちの手作りによる『修学旅行のしおり』が配付された。が、それを見て私は、「先生、このページの京都の地図に路面電車が載っていますが、とっくに全部なくなっています」と異を唱えた。京都市電の全廃は1978年、それから既に7年が経過している。教師は一瞬言葉に詰まった後、「○○くん(私の名前)は本当によく勉強していますね。『修学旅行』というくらいなのですから勉強に行くのであって、遊びなのではありません。みんなも○○くんのように各自で調べるくらいのことはしなさい!」と激昂し始めた。矛先を変えられ、それによって自分が周囲から浮いてしまったのでは堪ったものではないから、「別に勉強した訳ではなくて、住んでいたから知っているだけです」と抗弁した。ちゃんと調べていないのは教師の方ではないか。
 
 もっと驚いたのは、事前学習の時間に副担任の教師が、行き先の一つである東大寺について、「何と、大仏の鼻の穴の中は人が通れるんですよ。とても大きくて、傘を差しても通れるのだからすごいですよねー」と言い出したことである。説明するのも憚られるが、「大仏の鼻の穴の中を通れる」のではなく、「柱に開けられた、同じサイズの穴を通れる」が正しい。それに、「傘を差しても通れる」なんて、申すまでもなくとんでもない虚偽である。現地では案の定、巨漢の児童が穴に引っ掛かって進退極まれる惨事が発生し、泣き叫ぶ彼の脚を皆で引っ張って救出し、事無きを得たのだが、制服のボタンは全部取れ、生地には一面に引っ掻き傷ができて見るも無惨な姿である。この教師は、一体どんな思いでその始終を見ていたのだろうか。
 
 近隣の小学校は最後をエキスポランドで締め括ったのに対して、我が校は、大阪空港の屋上テラスから飛行機の離着陸をただ眺めるだけであった。当時の岡山空港にはプロペラ機しか飛んでいなかったから、これを見るだけでも貴重な体験ではあるのだが、それでも「ボクらもエキスポランド行きたーい!」と、児童たちは喚く。教師は「修学旅行は遊びではありません!」と再び定型句を出して諌めるのであるが、一体どの口が言うとんねんと、可愛気のない私は思うのであった。
 
 それから3年後の、中学校の修学旅行。行き先は九州であったが、当時荒れに荒れた学校を立て直すために、福岡市内と長崎市内を班単位で行程を決めて巡るフィールドワークを取り入れ、「生徒たちが自らの手で作り上げる修学旅行」が企画された。2箇所でそれを行う学校は他に例がなく、校内の荒廃ぶりを鑑みてもリスクが大きいと、内外からの反対意見は多かったと聞くが、教師たちは「だからこそ、子どもたちの自主性を信じたい」との想いを貫いた。授業にはろくに出席しないヤンキーたちも、修学旅行にはちゃんと参加し、長崎ではちゃっかりカステラのお土産を買っている。大きなトラブルもなく3日間の行程を終え、満足そうに笑みを浮かべる担任団の表情を今でも忘れない。小学校も中学校も、同じ岡山市内の公立校であったが、全く対照的な修学旅行であった。
 
 どこぞの阿呆な中学生が、修学旅行先の長崎で、被爆体験の語り部に「死に損ないのくそじじい」と暴言を吐いた事件は記憶に新しいところであるが、当該の生徒に落とし前の付け方をきちんと指導すると同時に、修学旅行を単発の行事としてでなく、各々の教育課程の中でどう位置付けるのかを、教師たちはもう少し熟考すべきだと思うのである。これは特定の学校における固有の問題ではなく、修学旅行という制度においての一つの普遍的かつ象徴的な命題であろう。
 
 やんちゃな児童生徒たちを四六時中御し続けねばならぬ激務に思いを致さぬものではないが、それを理由に「それどころではない」と言うのなら、修学旅行なんて止めればよいのだ。「修学旅行は専ら学びの場である」なんて堅苦しい考えを振り翳すつもりは毛頭ない。しかし、「思い出が夜の枕投げだけ」というのも淋しい話である。シーズンもそろそろ終了となる今だからこそ、修学旅行の在り方というものを、振り返りを含めて見直すべきであろう。教師たちには毎年の年中行事であっても、子どもたちには一生に一度ずつのものなのだから。

第92回 保険屋ガールズ

 昼休みの時間になると、勤務先に某保険会社のセールスレディが現れるのだが、あれがどうも苦手である。
 
 最近は忙しいので、会社の1階にあるコンビニで弁当を買い、自席に持ち帰って食べるのが習慣化しているのだが、さて昼休みなのでコンビニに行こうと思ってエレベーターホールに行くと、そのセールスレディが屹立して待ち構えている。昼休みは、どの会社も一斉にランチに繰り出さんとするから、3台あるエレベーターもなかなかやってこない。じっと待っているしかないから、“エア羽交い絞め”よろしく近寄ってくるのだ。
 
 「こんにちはー、○○生命です! この度、△△から私、□□に担当が代わりましたので、ご挨拶させていただきます。よろしかったら、お名刺の交換をさせていただけませんでしょうか?」
 
 まず、私は前の担当が△△さんという人だったことを知らないし、そもそも契約すらしていない、つまり客ではないから、担当が誰それと言われてもどう返答すればよいのかわからない。それに、今から飯を買いに行くだけなので名刺なぞ持ち合わせていない。その旨を伝えると、「では、お名前だけでも頂戴してよろしいでしょうか」と。いやいや、私の名前は私固有のものであるから、頂戴とねだられてもあげる訳にはゆかぬのだ……なんて意地悪なことは言わず(いや、でも「お名前頂戴」って、やっぱり表現としてやっぱりおかしいよ)、名字だけは名乗ってあげたら、「こちらをどうぞ!」とパンフレットを渡される。拒むのも気の毒なので受け取ったが、これから外へ出ようとする者にそんなものを押し付けて、相手が困るとは思わないのだろうか。しかも、パンフレットは学資保険の内容だったのだけれども、ウチには子どもがいないから、落ち着いて考えればとんでもなく失礼な話である。
 
 そうした「保険屋ガールズ」に入れ食いよろしく引っ掛かっている、いやむしろ、逆に話し相手として捕まえて離さぬ煩悩の塊のような男性社員も中にはいるのだが、そうではない私は、もともとセールスというものに拭えぬ先入観を持っていて、どうしても嫌悪感や拒絶感が先に立ってしまうから、どうしても彼女たちを避けてしまうのである。この感情はどこから出てくるものなのかを考えたとき、やはり、これまでの体験に起因するのだという結論に落ち着く。
 
 まず、セールスに携わるからには、「他人のテリトリーに臆面もなく入ってゆく厚かましさを持ち合わせていること」が前提というか必要条件にある。子どもの頃、知らないおばあさんが葱を買ってくれと言って我が家によくやって来た。誰とでも懇意にする社交性の高い母親は、嫌な顔一つせず、むしろ「買い物行かなくていいから助かるわあ」などと言ってはおばあさんを喜ばせていたのだが、私はこのおばあさんが、ノックをするでもチャイムを鳴らすでもなく、勝手に人の家のドアを開けて入ってくるのが、どうしても受け容れられなかった。如何に1970年代のこととは言え、集合住宅のドアを施錠もしないでいる我が家も我が家なのだが、当時の『土曜ワイド劇場』で、押し込み強盗に襲われる秋野暢子を見て以来、玄関の鍵を開け放っていることはとんでもなく無防備で恐ろしいことよと、トラウマになっていたから、おばあさんと言えども赤の他人が勝手に自宅に入り込むなんて、狂気の沙汰なのである。勿論おばあさんは押し込み強盗などではなく、ただ葱を買ってほしいだけなのだが。
 
 そんな訳で、大学生になって一人暮らしを始めてからは、ドアのチャイムが鳴っても、基本的には居留守を使ってきた。ところが弾みでつい出てしまったことがあって、そんなときに限ってろくでもないセールスなのである。酷かったのは有線(有線放送)の勧誘である。これが標準装備されているワンルームマンションを当時見たことがあって、チャンネルをあれこれ回していたら、一日中般若心経を唱えている番組や、一日中羊の数を数えている番組や、一日中卑猥なことを言っている番組など、いろいろあって面白いとは思ったが、四六時中家に居る訳でないし、わざわざお金を払って契約してまで聴くほどのものかと思い、「要りません」と断った。しかし、音楽は生活を豊かにするだの、これを聴いていないと合コンでカラオケ行ったら恥をかくだの、関大生は皆(1万人以上の学生全員に聞いて回ったんかい!)加入しているだのと畳み掛けて一歩も引かない。終いには「お金がないんならバイトして稼いでもらわんと」とまで言うから、「そんな恐喝紛いのことすんねやったら警察呼ぶぞ」と言って追い返した。「とにかくしつこいこと」もセールスの嫌な点である。
 
 社会人になって、店舗のマネージャーを務めるようになった頃、先物取引の勧誘電話が止め処なくかかってきたのにも閉口した。こちとらただの社員、地位も主任職相当であるから先立つものも持ち合わせていない。しかし、そうして如何に言葉を尽くして説明しても聞く耳を持たず、こっちが経営者であるという前提で話を続けるからどこまでも平行線である。挙げ句の果てには、電話に出た女子社員を「社長夫人」として追い込んでくるものだから、受話器を取り上げ、「お前ええ加減にせえよ」と凄んだら、相手は人が変わったようにキレ始めた。「何や話聞いてるんかいな」と笑ってしまったが、この女子は暫くの間、怖がって電話を取れなくなってしまった。蓋し、一方的に喋って相手を疲弊させ、根を上げて「わかりました、買いますよ」と言わせる戦法なのだろう。かくして、セールス忌避の3つ目の理由は「こちらの話を聞くより、自分の話を優先すること」であるが、私はそんなものに屈したりなど絶対にしない。
 
 まあ、屈することがないのは向こうの方が一枚も二枚も十枚も上手なのであって、件の「保険屋ガールズ」たちは、不死鳥の如くに毎日毎日、「こんにちはー!」と満面に笑みを湛えて近寄ってくる。押し売りの類の非合法なものでなければ、真っ当な仕事としてやっているのだからこちらが四の五の言う筋合いもないとは思うが、それでも、「保険屋ガールズ」の皆さんに一つだけ、お願いを申し上げたい。
 
 トイレに行くときまで一々「行ってらっしゃいませ!」とお見送りをしないでくれ。

第91回 事件は現場で起きている

 秋風の心地よさを感じるようになった今日この頃に、夏休みのことを未だにねちねち言うのはどうかと思うが、緊縮財政下、今年も夏の逃避行が叶わなかったのは痛恨の極みである。9月以降の三連休は全て三連勤、今日など台風と闘いながらそれでもやはり「三連休は三連勤」なものだから、方々へ旅行に行ったという人様の話を聞けば、恨み節の一つや二つも言いたくなるというものである。自宅で地図を広げては“妄想旅行”に出掛けるのが、せめてもの慰みだ。
 
 基本的に海外には興味がほぼ皆無で、それよりは死ぬまでに国内の全都道府県を制覇したいと願っている。未踏の地は、青森、大分、宮崎、鹿児島の4県を残すのみ。これらの踏破も急ぎたいところであるが、一度行ったけれども再び訪れたいと思う地がある。中でも、長野県の松本から新潟県糸魚川を結ぶ「大糸線」の旅は、何度行っても飽きることがない。梓川に架かる橋に因む梓橋駅のホームには「是より北 安曇野」の看板があり、田園の向こうに聳える北アルプスの峰々を望めば、一気に旅情が高まる。信濃大町から白馬にかけては、鬱蒼とした森や、仁科三湖と呼ばれる湖の縁を走り、南小谷気動車に乗り換えると、姫川沿いの険しい渓谷を驚くほどの低速でくねくねと進んでゆく。景色を眺めているだけでも十分旅行の愉しみを実感できる私にとって、この大糸線の車窓ほど、我が心を虜にするものはない。
 
 かてて加えて、大糸線が旅情を掻き立てる要素には、何とも抒情的な駅名が多いことも挙げられよう。先述した梓橋に始まり、豊科、有明安曇追分安曇沓掛信濃常盤海ノ口簗場、神城、信濃森上、千国、南小谷、北小谷、小滝、頸城大野、姫川、そして糸魚川。こうして書き連ねてみるだけで、えも言われぬ郷愁に駆られる。しかも、「あずさ、あずみ、くつかけ、ときわ、ちくに、おたり、くびき」とは、何と美しい響きであろうか。その響きの美しさは、きっと訓読み、つまり大和言葉であることから染み出てくるものに相違ない。響きの柔らかさ(例えば訓読みの一音目に濁音や半濁音が来るものは殆どない)もあるし、「追分」や「沓掛」など、その言葉の意味から古(いにしえ)の旅人たちの姿が想起される物語性もある。蓋しこれは、旅の抒情性に関わる、極めて重要なファクターであるのだ。追分を「ツイブン」、沓掛を「トウケイ」などと読んだのではそうはゆかない。
 
 翻って、5月に引っ越してきたここ大阪市港区。田中とか石田とか、吃驚するほど普通の地名(かつてこの辺の新田開発を行った人の姓に因むものらしいから「吃驚するほど普通」などと言っては失礼なのだが)もあって笑ってしまうけれども、波除(なみよけ)、夕凪(ゆうなぎ)、磯路(いそじ)、三先(みさき)と、文字にしただけで潮の香りが漂ってくるような抒情的な地名が、ここにもある(尤も、「岬」のことだと思っていた「三先」は、調べてみたらそうではないらしい。詳しくはここを参照)。
 
 しかるに、大阪維新の会が8月に発表した、都構想における大阪市の区割り案を見て、私は思わず嘆息を漏らしてしまった。現在24ある行政区が5つの特別区にまとめられ、その区名が「中央区、北区、東区、南区」、そして我が港区を含む地域は「湾岸区」になるのだという。大阪維新の会のあくまで“構想”であるから、狼狽えることもないのだが、あたかも決まり事のように報じられたものだから、心に波が立ってしまうのである。
 
 細分化された区をまとめるのは必ずしも悪いこととは思わないが、機械的なまとめ方も如何なものかと思う。例えば「湾岸区」は、西淀川、此花、港、大正、住之江と、単に海沿いというだけで地理的つながりのない地域が一括りにされる。この「湾岸」は、南北に連なる位置関係であるから、ダイレクトな行き来は阪神高速道路によるものしか手段がないのである。ましてや車を持たない者が、西淀川の中心である歌島橋から、「湾岸区役所」が置かれるという南港のトレードセンターまで行こうと思えば、御幣島からJR東西線海老江まで出て、野田阪神から地下鉄千日前線に乗って阿波座へ行き、中央線でコスモスクエア、更にニュートラムと、3回も乗り換えを強いられる。検索ソフトで調べたら40分以上もかかるのだ。大体、阿波座は「湾岸区」ではないから、区内の移動なのに一度区外へ出ねばならぬというのも不条理である。
 
 それ以上に、地名の持つアイデンティティを大切に思う者にとっては、東西南北や中央は、ただの位置関係を表す記号に過ぎず、どうも無機質に感ぜられてならない。最近、雨後の筍の如くに誕生している、周辺の市町村を合併して強引に成立した地方の政令指定都市でも、「特定の地域を区名に採用しない」という方針の下、同様の決定がなされるところが多いが、全く以ていただけない。その点、仙台市は、同様の条件に加えて「東西南北と中央も採用しない」という方針で区名の公募がなされ、「青葉区宮城野区若林区太白区泉区(これだけは旧泉市の合併によるものなので命名の経緯が違うのだが)」という名前になったそうだ。大阪市も、どうしても5つにまとめたいなら、せめてこういう風情のある名前にできぬものだろうか。例えば「北区」は、昔の朝日放送ラジオを聴いていた人なら誰でも知っておられる「大淀区」の名を復活させるなんてどうだろう。
 
 さすれば、「湾岸区」は無機的でないからよいではないかと言われるかもしれない。確かに、当初は、他の区と同様に「西区」の名称とする予定だったらしいから、それに較べればましとも言えるが、「『湾岸区』と名付け、舞洲にカジノを誘致し、『東洋のベネチア』とすることを目玉とする」という発想が感心しない。「湾岸」の名前で「東洋のベネチア」たり得る訳でもあるまいし、バブルの余韻のような安直な名前が、地域に固有の地名の美しさを相殺してしまってはならぬと思うのだ。
 
 よく考えれば、現在の大阪市の区名は、方角は北、西、中央(かつてあった南区と東区は中央区に括られた)の3つ。天王寺、大正、城東だけが音読みで、後は都島、福島、此花、港、浪速、西淀川、東淀川、東成、生野、旭、阿倍野、住吉、東住吉、西成、淀川、鶴見、住之江、平野と、軒並み大和言葉の地名なのだ。「此花」が、古今和歌集仮名序に引かれている王仁の歌「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」に由来するのは広く知られているところであるし、「住之江」も、百人一首にも取り上げられている「住の江の岸による波よるさへや夢の通ひ路人めよくらむ」という藤原敏行の歌で知られる歌枕である。こういう由緒ある地名が、「湾岸」などという漢語表現に取って代わられるのは、やっぱり承服できない。
 
 かつての名作ドラマ『踊る大捜査線』は、奇しくも「湾岸」という名の警察署が舞台だったが、そこでの織田裕二演じる青島俊作は「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ!」という名台詞を残した。ここでも、もう少し現場の考え、つまり民意を汲んだ都構想であってほしいと、地元を愛する一市民は思う。

第90回 夏の忘れ物(二)

 怒涛の如き忙殺の日々を経て、漸く夏期休暇に入っている。夏休みだけはしっかり7日間もらえるので、旅行に出る社員も多いようだが、私は休みになると体調を崩す、というより、それまで抑圧してきた病原が休みに入った途端、一気に顕在化して体を蝕むのが常であるから、よくできた身体と言うべきか、とにかく夏風邪でダウンである。サービス業従事の家人は盆休みなど関係ないので、誰もいない静かな部屋で、普段では考えられぬ怠惰な時間を過ごしている。
 
 しかし、悠長に休んでいる場合でもなく、溜まる一方である目前の課題を思うと、全く落ち着かない。その中の一つに、来年の6月に某大手出版社から刊行される実用書の執筆があって、休み中というのにその後の執筆状況はどうなっているのかという督促メールが来るものだから、精神的な逃げ場がなくて誠によろしくない。印税生活は確かに夢ではあるけれども、本当に書きたいのは実用書などではないし、そもそも仕事の一環としてやっていることだから、入ってくる印税は全て会社に納めなければならない。つまり、「印税生活の第一歩」などではないのだ。まだ半分くらいしか筆が進んでいないこの原稿、何とかこの休暇中に仕上げてしまいたいものである。
 
 ――と、ここまでは休暇初日に記したのであるが、この駄文を記すことすら途中で心が折れ、出版社の編集者が夢にまで出てくるという強迫観念と闘いつつも、結局無為に日々を送ってしまって、気が付けば明日は社会復帰の日である。しかるに山積する課題は全く決着が付かない。8月31日、学校の夏休みの宿題が全く片付いておらず、家族総動員で泣きながら取り組んでいる子どもの気持ちを、四十路を迎えてなお味わわねばならぬのかと思うと陰鬱で仕方がないが、追い詰められれば現実逃避に向かわんとするのも、凡人の心持ちというものであろう。という訳で、こうして駄文の続きを認(したた)めんとしているのである。
 
 さて、夏休みの宿題と言えば、小学校時代のそれ――全国共通の呼称であったのかは知らないが、私の通った学校では『夏休みの友』という甚だアイロニカルな名前が付けられていた――を思い出す。漢字や計算といったドリル的なものは機械的作業であるから、少々溜めてしまったとしても、根を詰めてやれば何とか済ませられるものであるが、私を苦しめた『三大夏休みの友』、すなわち、国語の読書感想文、図画工作の絵画、そして理科の自由研究はなかなかに手強く、難攻不落であり、どうにかして楽に乗り切ろうと、ない頭なりに悪知恵を働かせてみた。
 
 まず、読書感想文。これには、教育現場と出版業界が結託して(?)毎年指定される「課題図書」なるものが付いて回るのだが、この「課題図書」というのがどうもいただけない。読書感想文コンクールにおいてこれを読むことは必須ではないが、膨大な量の図書を前に、読むべき本を決めることにさえ苦しむ子どもたちは、須らくこれを選ぶのであって、そうした子どもたちの心理に付け込んだ大人のあくどさが見え隠れするような気がしてならない。それに、作家の浅田次郎氏の至言を借りれば、「読書は娯楽であり、道楽」(第17回東京国際ブックフェアの「読書推進セミナー」での発言)なのである。「課題」だなんて言われた時点で興が醒めるというものだ。そんな訳で、「課題」なのだからドライに片付けてしまおうと思った私は、図書館で適当な詩集を手にし、その中の一篇を選んで、そこに描かれた情景と作者の思いを想像し、それに対する所感を膨らませ、原稿用紙3枚ほどの“読書感想文”を仕上げて提出した。手にした担任教師は苦虫を潰したような顔で読んでいたが、娯楽、道楽たる読書を、「感想文を書かせるという課題」に貶めている教育現場に一石を投じることができたのなら望外の喜びだ。たぶん違うだろうが。
 
 次に、絵画。これは画才が皆無の者にとっては拷問以外の何物でもない。かてて加えて、提出した全員の絵を教室の後ろに張り出すというのは、京都三条河原の晒し首と同じ辱めではないかと今でも思う。というのは、絵の巧拙を論評されることもさることながら、殆どの児童が「夏休みの思い出」と称した旅行先の様子を絵にするものだから、さながら“我が家の旅行先自慢”の様相を呈するという、本来の趣旨などぶっ飛んだことになるからだ。海外旅行が専らブルジョワの営みであった時代、「ハワイの思い出」なんてものが掲示されると、それだけで皆の羨望の的になるのだが、一方で、近所の山で捕まえたかぶと虫の絵など描こうものなら、「夏休みというのにどこにも連れていってもらえなかった可哀相な子」のレッテルが張られるのだ。これは大いなる不条理である。私はささやかな反骨心から、夏休みとは何の関係もない、自分の掌をスケッチして提出した。
 
 最後は自由研究。この頃はまだ理科は好きであったから、取り組むこと自体に苦はなく、割と早い段階から構想を始めた。しかしあれこれ試行錯誤を重ねるのであるが、どうも上手くいかない。勝手に硬貨ごとに仕分けをしてくれる貯金箱は、当時出回り始めたばかりの500円玉が引っ掛かって失敗。手動のレコードプレーヤーは、縫い針で代用したためにレコードを傷物にして終わり。電池の要らない懐中電灯は、コンセントから電源を取ったために通電するや豆電球が爆発し火傷を負う。我が身の頭脳の足らなさを呪うばかりで、これだけは浅知恵を以てしてもごまかすことはできず、ありきたりのものを提出する外はなかった。
 
 2学期になって、読書感想文や絵画は誰の作品を見ても何とも思わなかったのだが、自由研究については、一人の女の子の発表に衝撃を受けた。たまたま氷を白いタオルに包んで持ち帰ったところ、あまり溶けていないことに気付き、そこから着想を得て、「白いものには保冷効果がある」という仮説を立て、諸条件下における氷の溶け方の違いを実験し、その結果をまとめたものである。黒い布は熱を吸収するので溶けやすく、白い布は逆に反射するので溶けにくいとか、食塩をまぶすと一層溶けにくくなるとか、いずれも目から鱗、鱗が落ち過ぎて失明するのではないかというような発見ばかりであった。担任教師は激賞の後、俄然躍起になり、何かのコンクールに出すと宣言した。おとなしい子であった彼女は、ある日突然脚光を浴びることになったことにうろたえ、恥じらい、頬を赤らめていたのだが、その様がまたしおらしく、忽ちにその虜となった。それから毎日、放課後は出展に向けた彼女のアシスタントを行った。『夏休みの友』への不貞腐れた反撥はどこへやら、彼女のシンデレラストーリーに関わることに、大袈裟かもしれないが自分の生き甲斐を見出した。確か、県大会を通過し、全国大会にまで出場したと記憶する。
 
 彼女が今どこでどうしているのか知る由もないが、「あなたも腐っていないで頑張りなさいよ」とその少女が耳元で囁いてくれている幻想を抱きながら、目の前の課題に明日からまた向き合っていかねばと腹を括る、夏休み最後の1日であった。