虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第102回 吉本新喜劇の「不易流行」

 吉本新喜劇が大好きである。土曜の半ドン授業を終えて小学校から帰宅し、昼飯を食べながらテレビで放映される新喜劇を見ていたから、幼いときからずっと親しんできた。時間に余裕のできた最近は、なんばグランド花月NGK)やよしもと祇園花月の舞台をしばしば堪能している。ライブの迫力はまた格別で、四十路を迎えて、ますますその魅力にハマっている。
 
 ところで、ある週の毎日放送の放映で、辻本茂雄座長の公演回を見た人たちによる、毎回同じでつまらないというネット上の書き込みを目にした。確かに「毎回同じ」である部分は多いが、「毎回同じ」ところでちゃんと笑いは起きる。私は、この回の公演をライブで観ているから、その笑いがサクラではないことも知っている。むしろ、“壮大なマンネリズム”こそが吉本新喜劇アイデンティティなのであって、花紀京岡八郎(後の八朗)、原哲男船場太郎木村進間寛平、室谷信雄といった人たちが看板であった当時と、本質的なテイストは何ら変わっていないと思う。それに、ベテラン座員の浅香あき恵が、辻本座長の公演について「こちらは定番のお馴染みギャグが満載なので、お客様の、テレビで見たものを見たい!のニーズに応えてくれる週なのです(笑)」と、自身のブログ(6月6日)で綴っている。客もまた、“壮大なマンネリズム”を求めているはずなのだ。
 
 かつて、凋落傾向にあった吉本新喜劇を立て直すため、『新喜劇やめよッカナ!?キャンペーン』を展開し、大胆な改革を図ったことは夙に知られる。人気をV字回復した新喜劇が、全国展開へと踏み出してゆくのは当然の流れであった。そして、その流れの中で1997年から、平日のゴールデンタイムに全国ネットでの放送が開始されたが、これまでの新喜劇とは「何かが違う」という感が拭えず、そのうち見るのをやめてしまった。「土曜の昼」という放送時間が習慣として染み付いていたからかもしれない。吉本とは無関係なゲストが出てきて空気や間を壊したり、取って付けたトークコーナーがあったりしたからかもしれない。関西のローカルものを全国に売るのだから、アレンジが必要なのは分かる。でも、“壮大なマンネリズム”が吉本新喜劇の美学であると理解する者にとっては、やはり「何かが違」ったのだ。そんな違和感は当の役者たちが最も痛切に感じていて、中でも、読売新聞に掲載された「当時、大阪に帰って来るたび、『何してんや、何で普段の新喜劇せえへんの?』って言われて、辛かった」という内場勝則のコメントは胸に迫った。そんな歴史を経て今の吉本新喜劇があることを知れば、「毎回同じ」と批判をする気には、少なくとも私はなれない。
 
 さて、“壮大なマンネリズム”が貫く吉本新喜劇ではあるが、その本質は、あくまで「芝居」にあると思う。それぞれの役者の持ちネタやギャグがあって、観客はそれを期待し、それが出たら大いに沸くのであるが、それは脈絡なく出ている訳ではなく、ストーリーの中でそれが挿入される必然性があるのだ。例えば、心斎橋筋2丁目劇場出身の島田珠代が新喜劇に入った当時、一人コントのノリで荒唐無稽なことをやっていたら、浅香あき恵に「珠ちゃん、NGKは基本お芝居。役柄設定もあるし、1人でやってるんじゃない。かわいくまとめてから、ヘンテコな方にする方向に、変えたほうがいいんじゃない?」(毎日放送よしもと新喜劇』公式サイトの座員インタビューより。以下、※印は同様)と指摘を受け、今のスタイルに達したという。また、座長の一人である川畑泰史は、「一の介さんの『おじゃまします』、桑原師匠の『ごめんください』も、自分の家に帰ってきた時に言うのは、僕の中ではちょっと気持ち悪いんですよね。極力、他所から来る人というシチュエーションにしたい。……ドリルのネタも、すっちーが吉田君を殴る必然性をつけて欲しいんですよ。そりゃ、棒で殴るわな、という。やることは一緒なんですが、その連続の中に大事なものがあるんじゃないかなと思います」(※)と、一家言を述べている。“壮大なマンネリズム”も、こうした「芝居」へのこだわりの上に成立しているものなのだ。
 
 一方で、昔ながらの新喜劇を金科玉条よろしく固守しているだけでは決してない。先述の『新喜劇やめよッカナ!?キャンペーン』を転機とし、若手の台頭によって、“新しい新喜劇”が生まれている。新体制以後の座長経験を有する吉田ヒロは、「(新しいことをするのは)しんどいですよ。しんどいのが楽しいんです。まわりに同じことをしてると思われたくない。どういうか……常に新鮮でいたいんですね」(※)と、自身のポリシーを語っている。その後、「金の卵オーディション」で加入したメンバーがさらに新しい風を吹き込んでいて、若手座員のみで舞台を作る『しんきげき10』など、意欲的な取り組みも増えている。「いいーよぉ~」のギャグで人気のアキは、「新喜劇にダンスを融合する」という新境地を開いた。自身が脚本・演出・主演を務める『JOY! JOY! エンタメ新喜劇』も、この9月で3回目を数える。小籔千豊座長は、「伝統が8割、斬新が2割です。ただ先人たちが編み出した奥義の巻物ばかり使っていても、セコイ。座長になったんで、借りるばかりじゃなくて、新しいワザを巻物に記して、長くして次の人たちに渡さなアカンと思う」(※)と考えを述べていて、“壮大なマンネリズム”の中に進取の精神が貫く、吉本新喜劇の「不易流行」をよく表している。
 
 そして何より、吉本新喜劇の最大の魅力は、“全員野球”という点にあると思う。これについては第78回でも述べたが、松竹新喜劇は、藤山寛美という一枚看板が全てであったのに対し、吉本新喜劇は、誰かのボケに対して舞台上の一同でコケるという“全員野球”であり、その違いがそのまま人気の差になったという、『やめよッカナ!?キャンペーン』の仕掛け人でもある、元吉本興業常務の木村政雄の説明が最もしっくりくる。今の“新しい新喜劇”に、桑原和男池乃めだか末成由美島田一の介といった古参メンバーが今なお精力的に出演し、若手と共に活躍していることも、私には大きな魅力に映る。
 
 その桑原和男が語る、「気持ちは扇の要やないけど、僕とめだか君で、お芝居の雰囲気は残して、いらんところは淘汰しながら若い人に教えていったらいいのと違うかなと、そう思いながらやってました。だから、人気を取り戻した時は嬉しかったというか、安堵しましたね。……大阪というか、『なにわ』は笑いの土壌がしっかりしてるでしょ、必ず笑いを求めてる。だから絶対、廃れませんよ。何があっても。お客さんと芸人と会社が三位一体で生きている限り、吉本新喜劇は永久に残ると思います」(※)という言は、新喜劇の歴史と未来を、実に端的に表していると思う。
 
 長きに亙って吉本新喜劇を支えてきた古参メンバーである、井上竜夫島木譲二中山美保が、この1年の間に続いて鬼籍に入った。その喪失感は今も大きいが、「金の卵」世代である酒井藍が、7月26日の舞台から座長に就任する、明るいニュースも入ってきている。初の正式な女座長、そして新体制以降では最年少となる新座長であり、吉本新喜劇の歴史に、大きなエポックが刻まれる。60年近い歴史の重みを背負いながら更なる高みを目指す、「不易流行の吉本新喜劇」を、“全員野球”で作っていくことだろう。