虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第13回 北国の春

 昨夏、休暇の一致しない家人を置いて一人、東北地方を旅した。
 
 この春に姿を消す急行「きたぐに」に乗って、日本海岸をその名の通り、北へ向かってひた走る夜行列車の旅情を味わった。富山と新潟の県境を越えた辺りで空が白み始め、親不知の天険断崖、青海川付近の線路にまで迫り来る荒波を寝台から眺めては心を躍らせる。夏場でさえこんな厳しい姿を見せる日本海であるから、真冬となるとどんな荒涼たる風景が広がるのだろうと思いを馳せるばかりである。
 
 新潟で特急「いなほ」に乗り換え、一路秋田を目指す。しかし発車するや、「大雨と強風のため、本日に限りこの電車は、あつみ温泉止まりとさせていただきます」とアナウンス。そんなこと発車前に言ってくれよ、と周章狼狽するも後の祭り、周りの乗客で取り乱す者が一人としていないのを見て、この路線では恐らく日常茶飯事なのだろうと腹を括り、流れに身を任せることにした。
 
 新発田、中条、村上と過ぎるにつれ雨足は次第に強くなり、空には雷の閃光がひっきりなしに駆け巡る。名勝、笹川流れを望む頃にはますます荒れ狂う日本海の姿が車窓に飛び込んでくる。あつみ温泉で電車を降ろされたときには滝のような豪雨。そそくさと代行バスに乗り込み、「とりあえず酒田まで参ります」と言われたその「とりあえず」という言葉に少なからぬ不安を覚えつつ、海岸線の国道を、そろりそろりと北上する。列車以上に、こちらまで打ち付けてくる波飛沫の迫力は凄まじく、ただただ恐怖であった。結局、バスは酒田を越え、約100kmを走り抜けて象潟まで進み、そこからは各駅停車の電車に乗り換えて、予定より3時間近く遅れて秋田に到達した。ハプニングとは言え、羽越線の鈍行など死ぬまで乗る機会はないだろうので、その意味では大変貴重な経験をした。
 
 予定が狂って秋田での滞在時間が殆どなくなり、中途半端な時間潰しの後に、今度は新幹線に乗って仙台へ向かう。大学時代に文字通りの「みちのくひとり旅」で訪れて以来、16年ぶりの仙台である。駅の売店で、牛たん弁当とビールを買い込み、投宿先のホテルで一人静かに舌鼓を打った。
 
 翌日はレンタカーを借りて、仙台近郊をドライブしてみた。今回はB級グルメツアーと決めていたので、事前の下調べで第一の意中としていた、東北道鶴巣PAの「油麩丼」なるご当地グルメを求めて車を走らせるも、そこにあったのは街中でもお馴染みの吉野家と、普通のスナックコーナーのみ。メニューをくまなく見てもそれが見当らず、失意のまま、今度は一般道に下りて松島を目指し、松島さかな市場で、「冷やしマグロ担担麺」と「牡蠣バーガー」の2つを食した。大層美味であったが、食い合わせが悪いのか、それとも単なる食い過ぎか、胃が凭れた上にトイレに駆け込む始末となり、少々難儀した。
 
 東日本大震災の折にはここ松島も津波に襲われ、その復興の様子が写真で展示してあったので、食い入るように見た。松島湾内に点在する島々が緩衝材となり、津波の勢いを弱めたため、他の場所に比べると死者などの被害は軽微だったらしく、地元では「島が町を守ってくれた」と感謝していたそうだ。前日に日本海の猛威を見ていただけに、海の厳しさと優しさとの両面を見た思いに駆られた。そんな中、震度5弱地震が発生し、津波注意報が発令された。静かな松島の町に、けたたましくサイレンが鳴り響き、凍りついてしまったのは申すまでもない。
 
 2日目に乗った新幹線には「がんばろう東北」のステッカーが貼ってあり、行くところにはどこにも「来てくれてありがとう」「応援してくれてありがとう」とメッセージが掲出されていた。被災地を走るのは不謹慎とも思ったし、瓦礫が山高く積まれているのを見るのは辛いとも思った。が、理由は上手く説明できないが、行かずにはおれなかったのだ。ただ行くだけの行為が被災地の支援になるなんてことは毫もあるまい。けれども、そこで受けたことばは「来てくれてありがとう」である。「ありがとう」ということばがこれほど胸に沁みたことはない。
 
 阪神・淡路大震災を経験した者としては、あのときにも大層辛い思いをしたものだし、この探訪でいろんなことがフラッシュバックしたのも事実であるが、都市部の直下型地震と違い、今回の被害を甚大にしているのは津波であり、原発の問題も含め、復興への道程は気の遠くなるレベルの話であろうと思う。そうした不安や苦しみと闘わねばならない心労たるや筆舌に尽くし難いものがあろう。それでも、帰路に就く仙台空港——あの日、どす黒い海水が一時にして押し寄せ、瞬く間に飲み込まれたあの空港——のロビー一面に掲げられた全国各地からの応援メッセージを見て、堪らず落涙してしまったのを忘れない。被災地より遠く離れたところから物見遊山に訪れた者の感傷など実に勝手なものであるが、離陸した飛行機から見下ろす仙台の街に、一日も早い復興を願わずにはおれなかった。
 
 さて、今日はあの日から1年である。「もう1年」なのか「まだ1年」なのか、去来する思いは人様々であろう。しかし、あの日から時が止まったままというところは多く、1年経っても復興への兆しすら見出せない地域もあるに違いない。経験を同じくしていない者には、思いを馳せることはできても、それに寄り添うことはできない。頑張っている人たちに「頑張れ」というのも違うような気がする。「自分にできることは何か」と自らに問うても具体的な答えは見つからず、ただ忸怩たる思いに駆られるばかりである。そうではあるが、いや、だからこそ、東北への思いはただただ募るばかりである。北国にも確かに春の足音は聞こえているはずだ。またいつの日か必ず彼の地を訪れたい。「ありがとう」のことばをもう一度聞きたくて。