虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第107回 親分の背中

 前職に、心の底から慕っていた「親分」がいた。
 
 親分との出会いは22年前。親分38歳、私は25歳。夢破れ、無為な日々を過ごしていた私を拾ってくれたのが親分だった。モラトリアムと言いながらその実、この先の人生を模索することさえできず、しかし生きていかねばならないので、塾講師のアルバイトをしていた。塾なので夜の商売。昼過ぎまで寝ていたら、校舎長だった親分から電話がかかってきて、「お前な、その歳で定職にも就かずこんな時間まで惰眠を貪っとったらアカンやろ。社員登用の手続取っといたから、人事部に電話して面接の日程とか聞いとけ」、と。
 
 3日後に人事課長との1次面接、さらにその3日後に役員面接、そしてその翌日には合格の連絡が来た。親分の「強引な優しさ」で、わずか1週間で私の人生航路は大きく舵を切ることになった。1次面接のとき、課長の手元にあった上長からの推薦書が見えた。そこには親分の字で、「即戦力。すぐにでも校舎長可」と書いてあった。自分の明るい未来が見出せなかった当時の私にとって、人から認められることがこんなにも嬉しいことなのだと、胸が一杯になった。
 
 翌春、晴れて「遅咲きの新入社員」となった私は、幸運にもバイト時代と同じ校舎の配属となり、引き続き親分の下で働くことになった。初日、張り切って始業30分前に出勤すると、親分を始め、先輩社員、パートの事務員と既に全員が揃っていた。親分は鬼の形相で、「一番ペーペーで、一番家の近い奴が、何で一番最後に出勤しとんねん!!」と怒鳴り付けてきた。
 
 翌日からは誰よりも早く出勤するようにしたが、「古い掲示物貼ったままやん。どこ見て仕事しとんねん」「机の上に物を積むな。整理整頓がでけん奴は仕事もでけんのや」「仕事が遅い。強い者が勝つん違うんや、早い者が勝つんや」「一生懸命やるのは当たり前、やり方間違った一生懸命なんて何の意味もない」などと、毎日毎日新しいことで叱られた。ある時、叱られながら唇を噛み締めると、「内リク(=内部リクルート。バイトから登用された者のこと)はそうやってな、バイトと社員のギャップにぶち当たってすぐにケツを割りよるんや。どうせお前もそうなんやろ?」と言われた。心中を見事に言い当てられた私は思わず「辞めへんわ!」と抗弁した。親分は「そうかそうか」と笑った。
 
 親分のモーレツしごき教室のおかげで、7月には体重が5kg減っていたが、その頃には叱られなくなっていた。隣の校舎の校舎長から、「あれは親分流の人の育て方やねん。ちゃんと力をつけてきたら、そのうちぱたっと言われなくなるよ」と慰められていたが、実際その通りだった。
 
 仕事に対する姿勢は本当に厳しかったが、失敗は必ずケツを拭いてくれた。ある時、担任を受け持っていたクラスの保護者からクレームが入ったと報告を受けた。子どもが算数の講師に「こんなんもわからんのか」と言われて萎縮してしまい、塾に行きたくないと言っているという。その講師に事実確認をすると、「これくらいできなアカンで」と言ったのだと釈明したが、保護者は納得するはずもない。1日置けば怒りも鎮まるだろうと思って、翌日お詫びの電話を入れたら、電話に出た父親の怒りはむしろ倍増していて、殺されるかと思うほどに罵られた。親分に報告をしたら、すぐにその保護者に電話を入れてくれ、1時間ほどの通話の後、「大丈夫やで」と言ってくれた。そして、「前に『早い者が勝つ』て言うたん、覚えてるか。事実関係とか後でええねん、相手が怒ってることだけが事実や。だから、クレームがあったらすぐにお詫びの電話を入れる。これが鉄則やで」と諭してくれた。
 
 それからも、何かあれば必ず、「もし自分が校舎長だったら、という視点で物事を考えてみ」ということばを添えて、鍛えてくれた。入社のとき、親分が推薦書に書いてくれた通りに、すぐに校舎長に昇進することが恩返しだと考えるようになった。実際、1年で候補者研修にノミネートされ、その翌年には校舎長の切符を手にした。でも、着任の前日、つまり親分と同じ職場の最後の日、親分は「企業人たるもの、自分の城を持つことはロマンやけど、しかし明日から君がおらんようになるのは、やっぱり困るし淋しいなぁ」と言ってくれた。
 
 校舎長になってからの4年間、親分はエリア長として、引き続き私の親分でいてくれた。「企業人としての自我」が芽生えていた私は、生意気にも親分に噛み付いたことは数知れず、時には返り討ちに遭ってこっ酷く叱られ、時には笑いながらあしらわれ、時には私の我儘な意見を上層部へ掛け合ってくれ、時にはもう辞めたいと捨て鉢になった私を宥めてくれ、手のかかる子分だったと思うが、厳しい愛情を持って育ててくれた。
 
 その後、私は本社へ異動になり、1つのセクションを任されることになった。事業部門も異なって、親分との「人事上の師弟関係」は解消になったが、それでも親分は私の親分に違いなかった。お互い残業で遅くなったとき、他に誰もいないオフィスで、親分はおもむろに語り始めた。「本社の仕事なんてオモロいか? 現場が一番オモロいと思うねん。生徒、学生の講師、そして、生徒の保護者。いろんな世代の人たちと毎日向き合って、話ができて、こんなオモロい仕事ないと思うねん。君だって、現場にいてこそ輝くのになぁ」。既に親分は部長になっていたが、とことん現場主義の人だった。
 
 それから10年ほど経って、私はお世話になったその会社を辞めた。波風立てずに静かに去りたかったので、最終出勤日の最後に、社内メールで一方的に、皆に退職の挨拶を送った。メールを見た親分はすぐに電話をくれた。「どうせ君のことやから、上とやり合って辞めたんやろ」と、何もかも見透かしたようなことを言われた。やり合った訳ではないが、思うところがあったのは確かだ。事業部門が違っても、私のことをずっと見てくれていて、ずっと心中を慮ってくれていたのだ。
 
 それからも年に1度は親分にお目にかかり、杯を交わす機会を持っている。親分は今年の5月に、定年を迎えた。先日の酒席では、還暦と定年のお祝い、そしてこれまでのお礼のつもりで、私が勘定を持たせていただいた。勿論こんなことは親分との22年間では初めてのことで、私も何だか面映ゆかったが、親分は「君に奢ってもらえる日が来るなんてなぁ。○○くん(私の名)にご馳走になったわ、って、帰ったら嫁はんに報告しよっと」と笑ってくれた。私も今年で47歳だが、親分の前ではいつまでも子どもみたいなものである。
 
 奥さまにも公私に亙ってお世話になった(独身時代、頼みもしないのに見合いの斡旋を受けたこともある)し、初めて会ったときにはまだ小2だった娘は昨年、嫁に行ったという。そう考えれば、あっという間だった22年という時間の長さが、しみじみと感じられる。
 
 そして22年間、私は親分の背中をずっと見てきた。今、部長という立場になって、事業部門のマネジメントに悪戦苦闘する日々であるが、行き詰まりそうになったときには、会社が変わった今でも自然と親分の背中が瞼に浮かび上がってくる。何かを誰かに語るとき、無意識に親分の口癖をトレースしている自分に気付くこともある。親分に較べればまだまだ能力も人望も足りていない私であるが、これからも親分の背中を追い掛けながら、人の人生に貢献できる自分でありたいと思う。