虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第78回 続・それぞれの場所

 「来年の話をすると鬼が笑う」と言うが、去年の話をいつまでもやっていたら鬼は怒るのだろうか、それとも深く悲しむのであろうか。何にせよ今になって昨年末の話をして申し訳ないのだが、第65回紅白歌合戦における『あまちゃん』特別編があまりに素晴らしくて再び「あまロス」を発症し、年が明けて2ヶ月あまりが経とうというのに、未だに寛解の兆しすらないのである。
 
 私は大晦日まで仕事だったので録画をしていたのだが、末代まで残さんとする部分だけをトリミングして編集し、繰り返して見た回数はおそらく既に100回を超えている。そして、同じ箇所で笑い、同じ箇所で涙を流す。
 
 アメ横の奈落で臥薪嘗胆を重ねてきたGMTたちが、NHKホールのステージで晴れやかに歌っていることに感涙。15歳未満ということで出場が叶わなかった小野寺ちゃんたちの無念を思って感涙。ユイちゃんがアキに向かって「すぐ行くからね、待っててね」と言って飛び出し、北三陸の人たちが「じぇじぇじぇ!」と呆気にとられる中、お馴染みのオープニングが始まり、「第157回 おら、紅白に出るど」のタイトルが出たのを見て感涙。あれだけ上京してアイドルになることを夢見続けてきたユイちゃんが、ようやくその願いを叶えたことに感涙。「2番は、おらの大好きなママが歌います!」とアキの紹介を受け、鈴鹿ひろ美の影武者だった春子が四半世紀近くの時を経て、やっと自分の名前で人前に立てたことに感涙。その鈴鹿がセリから上がって着物姿で登場し、“移ろいやすい歌声”ではない美声で「三代前からマーメイド」を歌い上げ、宮本信子のアップとなったところで感涙。そして、全員が登場しての『地元に帰ろう』の大合唱に感涙。でもそこには、美寿々さんと磯野先生(いっそん)と種市先輩(ずぶん先輩)と足立夫妻と栗原ちゃんがいなくて落胆。それなら太巻や水口だって出ていないではないかという意見もあろうが、いや、二人は舞台の袖で万感の思いを抱きながら見ているのだという解釈を聞いて感涙。
 
 という訳で一々涙腺が決壊し、それは何度繰り返して視聴しても同じなので、後作『ごちそうさん』は残り1か月を切ったというのに、「あまロス」はますます重篤の様相を深めるばかりなのだが、ここまで引き摺る『あまちゃん』の魅力って、一体何なのだろうか。
 
 随分前だが、横山やすし・西川きよしのマネージャーを務めたことで知られる、元吉本興業常務の木村正雄が現職当時に著した、『笑いの経済学』(集英社新書)という本を読んだことがある。うろ覚えなので正確でないかもしれないが、関西の二大新喜劇である、吉本新喜劇松竹新喜劇を比較するくだりが印象に残っている。松竹新喜劇は、藤山寛美という一枚看板が全てであったのに対し、吉本新喜劇は、誰かのボケに対して舞台上の一同でコケるという「全員野球」であり、その違いがそのまま人気の差になった、というものである。
 
 両者には、純然たる人情喜劇(松竹)と、ギャグを基軸にしたドタバタ喜劇(吉本)という、そもそものテイストの違いがあるので一概に比較はできまいが、それでも子どもの頃から馴染んできた私には、なるほどと思える内容であった。しかし、その吉本新喜劇も、1980年代の漫才ブームと反比例するかのように、人気が下火になってゆく。重鎮を中心とする旧態依然の芝居は次第にマンネリ化し、客足が減っていった。そこで、当時制作部次長だった木村は、一定の期間内に目標の観客数に達しなかった場合は、吉本新喜劇をやめるという、「新喜劇やめよっカナ!?キャンペーン」なる大胆な改革に着手する。同時に、座員全員に解雇を宣告し、一人ひとりと面談を行って、新旧の世代交代の方針を告げ、それでも残留したいという者のみが再入団するシステムを採った。花紀京岡八郎といった、それまでの「新喜劇の顔」はこれを機に勇退し、新生・吉本新喜劇は、若手を中心としたキャスティングに転換する。そして桑原和男池乃めだかといった重鎮は、今もなお存在感を示しつつ、後進たちを支え続け、全体を盛り上げている。
 
 これを読んだ当時、私は現業のマネージャーを任されたばかりで、部下のまとめ方に苦慮していたところだったのだが、組織をマネジメントしていくヒントを得た思いで、ちょっとした開眼となったのを覚えている。
 
 翻って『あまちゃん』を顧みたとき、やはりその魅力は、吉本新喜劇のような「全員野球」にあったのだと思う。春子を演じた小泉今日子も、読売新聞の寄稿で「宮藤さんの脚本には愛と尊敬の念があると思う。一人一人の役者さんに与える台詞は他の誰が言ってもきっと面白くならない。その人にしか絶対に言えない言葉だ。だから割り当てられた台詞を役者が発した時、いるいる、そういう人!と愛すべきキャラクターが出来上がってしまう」と述べていた。キャストの一人ひとりに立った個性があって、それが喧嘩することなくむしろ相乗効果を生んで、ドラマを盛り上げたのだと思う。
 
 チームにヒーローやヒロインは確かに必要だ。だが、その人がいなくなるとたちまちに精彩を欠いてしまうチームはあまりに脆弱である。メンバーの誰もがその時々のリーダーとなり、その人でなくてはならない役割とパワーを持ち、それが一つとなって、最大のパフォーマンス性を発揮する。そこには「俺が、私が」という唯我独尊もなければ、日蔭の花なんて慎ましさも不要である。会社でも何でもよいのだが、私はそういうチームに身を置きたい。そして、「あなたがいてくれて、ありがとう」と言ってもらえるような光を放ちたいのである。