虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第77回 「ゆとり」の矜持

 『リーガル・ハイ2』が先日フィナーレを迎えた。最終回の視聴率は18.9%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)で、同じ堺雅人が主演の『半沢直樹』のそれが40%を超えたことを思うと敗北感がなくもないのだが、個人的な面白さは本作の方が明らかに、「倍返し」ならぬ「倍以上」であった。堺雅人の長尺の台詞回しには毎回舌を巻いたが、とりわけ最終回における、岡田将生演じる羽生晴樹と対峙する法廷での弁舌は、演者が役柄に入り込んだというより、「古美門研介」という役柄が演者に憑依したと言って差し支えのないものであり、これにはもう、圧倒される他なかった。ただ、それ以上に度肝を抜かれたというか椅子から落ちそうになったのは、羽生晴樹のあの“衝撃の結末”である。
 
 その羽生晴樹は、「ウィンウィンでいこう」、「つながってるよね」を口癖とし、「天性の人たらしで、誰とでもボーダーレスに付き合うことのできる“最強のゆとり世代”」(公式サイトより)として描かれた。今シリーズで、彼の言動の一々にいらっとしてしまった私は、製作サイドの術中、あるいは岡田将生の演技力にまんまと陥落されたということだろうが、この“最強のゆとり”というキャラクター付けは、巷間で揶揄的に言われる「ゆとり世代」というラベリングに一石を投じたと解釈するのは些か付会が過ぎようか。
 
 そういえば最近、興味深い記事を目にした。「大学生意識調査プロジェクト FUTURE2013」(公益社団法人東京広告協会主催)が発表した、「大学生のゆとり教育」に関する意識調査である。駒沢・上智・専修・東洋・日本の各大学3年の有志からなるこのプロジェクトが、それぞれの大学で160名ずつ、計800名の学生を対象に行った調査結果は、『「ゆとり」の現実 「さとり」の真実』と題した報告書にまとめられた。これによると、「ゆとり世代」は、「ゆとり」の自覚と、そう呼ばれることへの抵抗感の有無とでマトリックス化することで、4つのタイプに分類されるとしている。詳細はこちらをご覧いただければと思うが、自らを「ゆとり」と認めて抵抗も覚えない『真性ゆとり層』が全体の3分の1を超える285人に上った一方で、自覚しつつも抵抗感がある『あせり層』、「ゆとり」呼ばわりを気にかけない『つっぱしり層』、自分がそうだとは思わないが言われると抵抗を感じる『きっちり層』もいるのだとし、「ゆとり世代」の多様性を示した。そして、そうした結論を踏まえて「ゆとり、ひとくくり、もううんざり」というフレーズでまとめ上げたのには、なるほどと唸らされた。
 
 第59回でも記したように、勤務先の、私が所属する部門には、この春から3名の新卒を迎えている。数年前には「すわ、いよいよ平成生まれの新卒が入ってくる」と慄いたものであるが、昨今では「どうやら、とうとうゆとり世代が入ってくる」という構えへとシフトしている。この3名は正にその「ゆとり世代」である。入社して早や9カ月を経ようとしているが、夏頃、面白いことに(と言っては彼らには気の毒なのだが)、3人が3人、全く同じ壁にぶち当たったのである。ところがもっと面白かった(?)のは、壁にぶち当たったときの処し方が、それぞれに全く異なったことである。
 
 1人目は、旧帝大出のイケメン男子。流石に頭の回転は速く、原因分析とその対処法を、極めて冷静に考え、自分の考えを述べた。およそ「ゆとり世代」とは思えぬ明晰さである。ただ、理論と実践はまた違うのであって、そうやすやすと青写真どおりには解決しない。2人目は、私大出の女子。毎晩米3合を炊いてはぺろりと平らげるバリバリの体育会系だけあって、壁は「乗り越えるもの」というよりは「ぶち破るもの」と思っているらしく、ぶつかり稽古を何度も試みる。しかしそこはやはり女の子。厚い壁に当たって砕けて満身創痍、最後にはよよと泣いてしまった。3人目は、地元の公立大を出た男子。飄々として危機感もなく、「それの何が問題なのか」といった風である。つまり、壁にぶち当たるどころか、壁の10メートル手前で座り込んでいるような感じなのである。
 
 おそらく、『真性ゆとり層』に当たるのは3番目で、1人目は『きっちり層』、2人目は『つっぱしり層』なのだろう。先の報告書を読みながら、この3人の姿がまざまざと想起されて、思わずほくそ笑んでしまった。たった3名の新卒ではあるが、それでも三者三様、「ゆとり世代」の多様性を実感した次第だ。
 
 そもそも、「ゆとり教育」を推進したのは大人たちで、彼らや彼女たちは好きこのんでその時代を生きた訳ではない。その意味では、「ゆとり世代」である彼らや彼女たちは“被害者”である、という考え方もできる。もとよりこれを提唱した人たちは、まさか10年後、「ゆとり」という言葉が揶揄的に用いられ、その世代が社会に出てひとくくりの嘲りの対象になろうとは夢にも思っていなかっただろうが、なればこそ、彼らや彼女たちから「ゆとり」のレッテルを剥がしてやるのは、大人というか年長者の務めであろうと思えてくるのだ。
 
 そこで私は、件(くだん)の3人には、一律ではなく、それぞれに合った育成を施した。1人目の『きっちり層』にはPDCAサイクルに基づく実践を促し、2人目の『つっぱしり層』には冷静に物事の本質を見極めることの必要性を説く。そして3人目の『真性ゆとり層』には、とりあえず立ち上がって、壁のあるところまで走っていけと尻を叩いた。いずれにしても、古びた徒弟制度よろしく、「俺の背中を見て学べ」なんて居丈高なことを言っても何の進歩にもつながらないことだけは確かであるから、各々のタイプにフィットした、「構ってあげる育成」を心掛けている。
 
 「ゆとり世代」を作ったのは我々より一回りかもっと上の世代であるが、20代を「失われた10年」の中で過ごし、それに何の楔を打ち込むこともできないまま壮年期を迎えた結果、もしかしたら「失われた30年」にしてしまうかもしれない我々にだって負うべき責任はあるだろう。そんなことを考えながら『リーガル・ハイ』を見ていると、羽生が言うところの「ウィンウィンな関係」って、もしかしたらこういうことを言うのかもしれないと思えてくる。私は自身の職責を全うしながら、しかし一方でこの「ゆとりちゃん」たちに、「『ゆとり』の矜持」というものを、いつか抱かせてやりたいと思うのだ。