虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第64回 我ら団塊ジュニアの世代

 我々が学生の頃は――と言っても腐った学生であったからロクな勉強はしていないが――論文を書くというのはそれはもう大変なことで、図書館に籠城してはさまざまな文献を読み、それを論拠として自説を組み立てねばならなかった。その文献も、それ自体の権威や、担当教官の好み(?)といったことで、「論拠」としては認められないこともしばしばで、あれこれ不条理なことを口喧しく言われたものである。また、筆を進めるうちに、また新たな文献に当たる必要に迫られることもままあったのだが、提出期限を翌日に控え、徹夜で追い込みをかけるつもりが当然図書館は開いている訳もなく、失意や諦念のうちに、妥協の作を仕上げて提出したものである。
 
 そういう時代を過ごした者からすれば、インターネットの普及というのは物凄いことである。調べたいことを検索窓に打ち込み、エンターキーを押せば、有益無益は混じるけれども、数多のページが表示されるのだ。中でも『Wikipedia』というものはかなり重宝している。ところが当世の高等教育の場では、このWikipediaから安易に引用した論文や課題を提出して、受理されないことが少なからずあるのだという。確かに、苟も最高学府で何事かを学ぼうとする者が、ネットから丸写ししたものを臆面もなく提出するという安直さは如何なものかとは思うが、受理しない方の石頭も問題で、多くのユーザーによって加筆修正が重ねられ、いい加減なことを書けば「要出典」「雑多な記事」などとツッコミを受けながら育ってきた記事の信憑性には一目は置くべきだとも考える。
 
 とは言え、まだまだ発展途上というか未成熟な記事も少なからずあるようで、これは錯誤であろうとか、こんなこと言い切っていいのかねと思うこともあるし、嵩じれば「編集合戦」なるものが繰り広げられるケースもある。普遍的な真理や客観的な事実は記述される内容も揺るがないのだろうが、そうもゆかぬ項目があるのだ。中でも私がずっと気になっているのは、「団塊ジュニア」の項目なのである。
 
 私は1973年(昭和48年)の生まれであるから、紛れもなくこの「団塊ジュニア」の世代だと思っていたのだが、記事をよく読むと、「真性団塊ジュニア」なる用語があるのだそうだ。しかもこの造語、版によって微妙に説明が変化しているのだが、最新の版によると、1975年(昭和50年)から1979年(昭和54年)までに生まれた、「両親ともに団塊世代か、お母さんはもっと若いという子供が、出生総数に占める割合が高い世代こそが、真の団塊ジュニア世代」なのだそうである。そして、1971年(昭和46年)から1974年(昭和49年)までに生まれた世代は、あろうことか、「仮性団塊ジュニア」「偽団塊ジュニア」と呼ぶのだそうだ。私はここのど真ん中に該当するのだが、自分の生年を選り好んでこの世に出てきた訳ではないのに、「仮性」だの「偽」だのと、とんだ言われようである。
 
 5~6年くらい前までの版には、こんな記述もあった。「団塊ジュニア世代は人口の多さから、子供の頃より入学試験などの競争を強いられ、特に大学入試に至っては『入りたい大学より入れる大学』、『一浪は常識、二浪は普通』、『国易私難』という言葉が飛び交う程の激戦であったが、大学卒業間近には就職氷河期が到来し、不況による厳しい就職活動を強いられたことによって『不運の世代』とも呼ばれている」「現在正社員となっている団塊ジュニアは、就職氷河期と不景気下の実力主義を耐え忍んできた結果、忍耐力と粘り強さが上の世代の正社員より高いのが特徴であろう」「不景気下に『実力主義』を強いられたため、同期に対する横並び意識が薄く、仕事に対するクオリティ、スピードに対する要求が高い傾向も見られる」のだという。これには相当思うところがあって、当時、自分のmixiの日記にはこんなことを綴っている。

 ふーん。
 第二次ベビーブーム頂点の世代である私の場合。
●「一浪は常識、二浪は普通」
 一浪しかさせてもらえなかった。高校卒業半年後の同窓会で、車で乗り付けてくる男子や、派手な出で立ちの女子を見て、一浪で十分と思った。
●「国易私難」
 結局国立落ちましたが何か? 当時、塾講師のバイトに応募しようと数社に当たったけれど、「国立でない」というだけで悉く落とされましたが何か?
●「大学卒業間近には就職氷河期が到来し」
 はい、確かに教員採用試験の競争率は167倍でした。それ以前に留年で大学に6年も籍を置く羽目になりましたけれどねぇ……。ま、これは自分個人の問題ですが(苦笑)。
●「忍耐力と粘り強さが上の世代の正社員より高い」
 いやいや、ウチの会社の上司の方々の戦いぶりを見ていたら、自分が如何にヘタレかと思い知らされるばかりですわ。もっとしっかりせんとね。
●「同期に対する横並び意識が薄く」
 能力と実績が伴ってこその出世だと思っているし、自分にはそれに見合ったスキルもアビリティもまだまだ備わっていないので、別の意味で「横並び意識」は薄いかなぁ。
●「仕事に対するクオリティ、スピードに対する要求が高い傾向」
 納期に追われ、今日も半泣きで夜なべ仕事をやっている私は、生まれる時代を違えたのかしら??
 いや、そういう問題でもありますまい。もっとかしこくなりたいわ。

 とまあ、何と厭世的なことを書き散らしているものよと我ながら呆然とする。けれども、こうした世代論というのは大概が眉唾物なのであって、こんなことを一般化して論ずることに一体何の意味があるというのだろう。現役で大学へ行った者だって、就職氷河期をものともせず憧れの企業へ入社した者だって、同級生を顧みてもいくらでもいる。忍耐力だの粘り強さだのなんて、それこそ人それぞれではないのか。それとも私は、同世代の奔流から外れた異端児なのだろうか。
 
 流石に、それらの記述の一部は「検証可能性を満たさない」のだろう、現在は削除されているが、何をどう書き換えたところで、「そうではない人間なんていくらでもいる」ことに変わりはあるまい。自分個人に関して言えば、なかなか思うような人生は歩めていないけれども、少なくともそれを時代とか世代の所為にしたことは一度もないし、そういう発想に至ったことすらない。画一的な管理教育を受けてきたとされる我々の世代でさえ、各々の人生は十人十色。その時々の局面で、自分が正しいと思って選んだ道である。そこには「選んだ責任」が伴う。「自分が選んだ」ことを棚に上げて、時代や環境や人間関係といったことで恨み節を語るのは卑怯ではあるまいか。
 
 所詮私は、「仮性」の団塊ジュニアなのだ。訳の分からぬ世代論に振り回されず、自分だけの道を、これからも歩ませてもらおうと思う。