虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第76回 地方のアイデンティティ

 2015年春に開業予定の、北陸新幹線の長野~金沢間について、6月に途中駅の駅名が、そして先頃10月には列車名が、それぞれ発表された。北陸新幹線の基本計画が決定されたのは1970年のことであるから、星霜ここに45年、漸く名実ともに北陸の地まで新幹線が走ることになる。地元の期待感は如何ばかりかと推察されるのだが、新駅となる「上越妙高」「黒部宇奈月温泉」「新高岡」の決定した駅名を見て、私は嘆息を漏らしてしまった。「新黒部」の仮称が「黒部宇奈月温泉」となったのが、どうにも腑に落ちないのである。長くて言い難いのは勿論であるが、引っ掛かるのはそれだけではない。
 
 「黒部」と言って一般的に想起される「立山黒部アルペンルート」は通常なら富山から向かうものなので、誤って降りる客がいるという憂慮や、宇奈月温泉へ行くならこの駅で降りるのが最も便利であるから、それを駅名に加えた方が分かりやすいという判断があってのことだろう。ただ、観光客というのは、普通は事前に旅行計画を立て、切符や宿の手配を済ませてから出立するものである。「『新黒部』なんて駅名だから降りてみたが黒部ダムへは行けないではないか」とか、逆に「『宇奈月』が新幹線の駅名に入っていないから富山まで乗り過ごしてしまったではないか」などと苦情を申し立てる者がいるとは思えない。
 
 新聞記事などを読んでいると、地元観光業界からは、駅名に「宇奈月温泉」が入ったことを歓迎する声が聞かれる一方で、地元企業の経営者の意見として、「どういう配慮があって決まったかわからないが、駅名としては長い」という指摘もある。大体、ここで接続する富山地方鉄道には「宇奈月温泉」という“本丸”たる駅が既にあるのであり、従って同線の新駅は「新黒部」という名称にせざるを得なかった。そんなことは少し考えれば容易に判断できることであろうし、都市部ではざらに見られる「同じ場所にあるのに駅名が異なる」というのは、それだけで利用者の混乱を招くものであるが、何故その辺に深謀遠慮が及ばなかったのであろうかと小首を傾げてしまう。
 
 新駅の名称が、「観光客誘致」「地域活性化」の名の下にさまざまな思惑が複雑に絡み合って決定するのは世の常であるし、それに理解を示さない訳ではないが、だからと言って、他力本願よろしく安直な駅名をつけるというのもどうかと思うのである。
 
 最近では、地方の空港でも正気の沙汰とは思えぬ奇怪な愛称があちこちでつけられている。釧路空港の「たんちょう釧路空港」、帯広空港の「とかち帯広空港」、花巻空港の「いわて花巻空港」、大館能代空港の「あきた北空港」、富山空港の「富山きときと空港」、松本空港の「信州まつもと空港」、静岡空港の「富士山静岡空港」、神戸空港の「マリンエア」、但馬飛行場の「コウノトリ但馬空港」、出雲空港の「出雲縁結び空港」、石見空港の「萩・石見空港」、美保飛行場米子空港)の「米子鬼太郎空港」、岩国飛行場の「岩国錦帯橋空港」、徳島飛行場徳島空港)の「徳島阿波おどり空港」、高知空港の「高知龍馬空港」、佐賀空港の「有明佐賀空港」、対馬空港の「対馬やまねこ空港」、熊本空港の「阿蘇くまもと空港」、種子島空港の「コスモポート種子島」、徳之島空港の「徳之島子宝空港」、新石垣空港の「南ぬ島石垣空港」とまあ、絶賛急増中で、こうして書き並べてみたのを見るだけで眩暈がしそうなのである。
 
 平仮名でないと読んでもらえぬマイナーな地名なのですかとか、大館や能代では客は集まらないという自己否定ですかとか、富士山はお宅の県の占有物ですかとか、「きときと」って何ですかとか、「縁結び空港」には既婚者は降り立ったらダメなんですかとか、「子宝空港」ってあらぬ誤解を招きませんかとか、それはもう、いろんなツッコミが思いつくし、この風潮に乗っかって、よしや「大阪たこ焼き空港」とか「関西だんじり空港」なんて愛称が付けられるようなことがあったら、終生飛行機を利用するまいという決意さえ沸き起こる。
 
 そんなツッコミを並べ立てながら思い出す一つの出来事がある。2012年に、香川県の「うどん県」キャンペーンに合わせて、県の玄関口である高松駅に「さぬきうどん駅」の愛称をつけることになった。ところが高松市や地元の人たちから、市民への意見聴取のないまま決定されたことや、同市にはうどん以外の特産物もあることなどを理由として、強い反発が起こった。JR四国の社長と県知事による協議がなされた結果、「さぬき高松うどん駅」とすることになった――という一件である。
 
 落ち着いて考えよう。「うどん県」というネーミングもどうかと思うが、「さぬきうどん駅」って、例えば鶴橋駅を「焼肉駅」、伊勢市駅を「赤福駅」、篠山口駅を「黒豆駅」、播州赤穂駅を「塩駅」と言うようなものではないか。さらにここへ強引に「高松」を入れたことでますますおかしなネーミングになってしまい、出張で高松駅には何度か降り立ったことがあるが、あの駅名標をみるだけで毎度げんなりするのだ。
 
 それはさて措くとしても、高松市の意見である、「うどん以外の特産物もある」というくだりに私は深く思いを致したい。「香川県アイデンティティはうどんだけではない」という地元の人たちの主張は、こうしたおかしなネーミングに一石を投じる極めて重要な示唆であろうと思うのだ。昨今では「ゆるキャラ」が大ブームであるが、その筆頭格である「くまモン」は、阿蘇でも天草でも太平燕でも馬刺しでもなく、「熊本」そのもので勝負している。また、『おしい!広島県』キャンペーンも、「広島」の魅力を逆説的に訴求するというその手法が秀逸だ。つまり、いずれも、「熊本」や「広島」それ自体を売ろうとしているのだ。
 
 かつて岡山に住んでいた頃、社会科の授業で先生が、「観光客の多くは、『岡山』は知らなくても『倉敷』なら知っているものである」という話をしたことがあって、県都の価値ってそんなもんかと悲しくなった。しかし確かに、駅前の目抜き通りを「桃太郎大通り」と名付けるセンスに辟易したもので、桃太郎を取り上げたら岡山からは何もなくなるのかと当時は訝った。それから四半世紀を経て、やっと『伝説の岡山市』というキャンペーンを張り出した。観光客はきびだんごに釣られてほいほいとやってくるのではない。桃太郎さんの力を借りずとも、「岡山」という名で勝負してこそ、岡山という街のステイタスが上がるというものではないだろうか。
 
 地方のアイデンティティというのは、一つの著名な観光地や物産品などに収斂されるものではなく、当地そのもののブランド化にこそ、その要諦があると言えよう。それにもう一つ大切なのは、地元の人々が地元を愛していなければ、地元の人々が地元を魅力に感じていなければ、余所から人がやってくるはずもないのである。たかがネーミングであるが、されどネーミング。まずは、それが当地のアイデンティティを的確に表現しているのか、地元の人々に問うてみるところから始めてみてはどうだろう。