虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第59回 フレッシャーズ賛歌

 4月になり、学校や企業では新年度がスタートした。昨日の朝も出勤時に、自宅近くの中学校で入学式の準備が行われているのを見て、全く無関係の部外者であるこちらの心まで晴れやかになった。
 
 勤務先でも、新卒入社のフレッシャーズを迎え、私の管掌する部門にも3名が配属されている。今日、現業のある店舗を訪問したのだが、ここに配属されている1人の女子の明るく、溌溂とした動きぶりを見て、ああ新人というのはかくあるべしよと思った。スキルやアビリティもこれからしっかり身につけていってもらわねばならないのだけれども、昔から「先ず槐より始めよ」と言われるではないか。この「槐」に当たるものは、そういう快活さであらねばなるまい。一方の男子たちは、能力もあるしそつなく仕事はこなすのだが、その辺の元気さというかパワーというか動きの俊敏さというか、それが女子に及ばないのである。
 
 男だからとか女だからとか、そういう下らない一般化をしようとしているのではない。あくまで個人の問題である。聞けば女子の方は、学生時代、柔道部だったのだとか。私の上司である部長が出ていくときに外まで行って深々とお辞儀をしてお見送りをしているものだから、「こんな子、久しく見てないわ」と感心しきりであったのだが、なるほど、「礼に始まり礼に終わる」については、人一倍仕込まれているはずなのだ。
 
 思うに、一つの「道」を究める者は、基礎基本が磐石であるからこそ、技にも磨きがかかるのであろう。柔道や剣道などの武道然り、華道や茶道などの芸道もまた然りであって、その基礎基本が礼儀作法なのである。私もかつて剣道をやっていて、礼節というものはこれでもかというほど叩き込まれたつもりなのだが、何を隠そう、厳しい稽古に堪えかねて小学4年で辞めてしまって水泳に転向し、段位はおろか、所持しているのは「4級」である。その意味において私は、その程度の蛮族ということである。
 
 「躾」という字は見ての如く、「自身を美しく磨く」という意味であり、決して他人から折檻を受けることを表すものではない。そしてこの「躾」は、マニュアルやノウハウ本から仕入れる知識などではなく、文字通りに「自身を内面から磨く」ことによってのみ自身に備わるものなのである。諸々の「道」において、その型であったり所作であったりが美しいのは、その人の内面、つまり心が美しいことの表れなのだろう。
 
 逆に言えば、心の乱れがすぐに表出してしまうのも「道」の厳しさなのである。テレビドラマなどで、芸術家が「あーーーっっっ!!」と絶叫して、納得がいかない描き掛けの絵画や作り掛けの彫刻を破壊する狂気染みたシーンをよく目にするが、心の乱れを自覚しながらそれを制御できない苦悶が爆発すると、ああいうことになるのだろう。やはり、心が乱れていてはよい仕事はできないのだ。私には書道の心得はないのだが、それでも、自分の筆跡が乱れていると気付くときがあって、そういうときは決まって、苛立ちや焦燥など、何らかの情緒の不安定を自覚するのである。
 
 小学4年のとき、図工の時間に紫陽花の花を水彩画で描く課題が出たことがある。私は吃驚するレベルで絵心がなく、図工や美術の時間というのは大概な苦行であったから、見た物をスケッチするのは何とかなっても、それに彩色を施すのがなかなかに大変だった。あの得も言われぬ透明感を、どうしても表現できぬのである。絵の具をどんどん水で薄めて塗りたぐり、それがために画用紙がぶよぶよになるばかりで、全く上手くいかない。そうこうしているうちに、担任が、一人の女の子の絵を取り上げた。それは本当に淡く美しい色で表現された、何とも優しい紫陽花の絵だった。そして担任はこう言った。「絵の具を混ぜるとか、水で薄めるとか、そんなことで美しい絵が描けるものではないのよ。彼女のきれいで優しい心が、この色には表れているのよ」と。そんなことを言われてしまっては、きれいな絵が描けない自分の心はどれだけ醜く汚れているのかと、陰鬱な気持ちになった。と同時に、どちらかと言えばおとなしい子だった彼女が、ただ俯いて頬を赤らめるのを見て、勉強やスポーツなどの「才能」より、内面にある「心のありよう」を褒められる方がよっぽど嬉しいし励みになると、そのときの私は嫉妬にも似た気持ちに駆られたのを憶えている。
 
 内面を磨く。心を磨く。言うは易いが行うは難い。喜怒哀楽あってこその人間だし、人生をやっていれば須らく悲喜も交々である。フレッシャーズの人たちにとっては、この先さまざまな苦悩や葛藤と向き合わねばならぬ局面だってあるかもしれない。よく新人に向かって「若いうちは積極的に失敗をしなさい」などと叱咤激励する台詞を耳目にするが、事象自体にはプラスもマイナスもなく、あくまで人の受け止め方次第と考えてみたらどうだろう。失敗を失敗と捉えるか、そうではなく成功の母と考えるか、要はその違いである。そうして何とか自分の心をプラスにコントロールできるように鍛えること、それが「心を磨く」ということなのかもしれない。
 
 たまたま今日、電車で見掛けたKIRINの『FIRE』の車内広告に、「新入社員の君へ」と題した、こんなメッセージが綴られていた。
 
  早咲きの桜がある。
  遅咲きの桜がある。
  でも、どんな桜にも、地面に根を張り、
  幹を太くしている時期がある。
  今は分からないかもしれないが、
  目の前にある仕事には、
  大きな意味がある。
 
 今日も新人くんに、「しょうもないと思える仕事、例えばコピー1枚取るにも、その仕事の意味を考えてごらん。そしてそれを受け取る人の気持ちを考えてごらん。そういう感受性が、自分を成長させるエネルギーになるはず」という話をした。そこに自分の存在意義や価値を見出すのだ。
 
 そして、折角周りの人たちがあなたの存在を認めてくれているのだから、まずはしっかり心を磨いて、周りの人たちに愛される自分を作ってみたらどうだろうか。万物は太陽の下で生き、太陽に向かって咲き続ける。だから、周りの人たちがあなたの方を向いてくれるよう、あなたが太陽になって、倦まず腐らず、あなたの内面から周りを明るく照らし続けていってほしい。それが、フレッシャーズを預かり、育てる責任を負う者の、最初の願いである。