虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第39回 スマッホ×スマッホ

 勤務先の喫煙所にいつも屯(たむろ)している社外の人間がいる。最近は、ビル内は完全禁煙で締め出されるとか、御堂筋で喫煙したら罰金を取られるとか、確かに愛煙家には世知辛い世の中であるから、こういう喫煙所を「都会のオアシス」よろしく見つけて一服しようという気持ちは分からなくもないが、社外の人間だから本当は立ち入ってはいけないのである。隣の会社の人間と思われる、中間管理職風情の男性と30歳前後と思しき女性の、一見不倫関係ではないかと思ってしまう2人連れがいつも仲良く入ってくるのであるが、清掃クルーのおばちゃんがそれを見ては、「余所の会社の人なのに許せない!」と怒る。すると、ペアのおっちゃんが「たばこくらい大目に見たってもええがな」と宥める。そんな様子が日常の風景となって久しい。
 
 それより何より、最近気になっているのは、毎日、ウチの喫煙所に入り浸っている、郵便配達のおっさんである。制服着用で堂々とサボっていて大丈夫なんかいな、と余計な心配をしてしまうのだが、一度入ったら何本もたばこを吸い続け、しかもその間、何かに取り憑かれたかのように、ずっとケータイを弄っているのである。その鬼気迫る様子は、一時でもケータイを手放せば発作を起こして事切れてしまうかのようでもあり、大の大人がかかる醜態を晒して情けないことよ、とも思う。
 
 よく観察していると、喫煙所で一人たばこを燻らせている人は、大概、同時にケータイやスマホを弄っている。例えば弊社の社員でも、喫煙中、一心不乱に画面と向き合っている人がいる。何を見ているのかを当人に問うことは何人たりとも能わず、さまざまな憶測のみが流れる。「ケータイで株をやっているのだ」「いや、あれは小説を書いているのだ」「いやいや、ええ歳して意外にロマンスに溺れているのやも知れぬ」等々、一介の社員の行動が最早都市伝説化していて物凄いことだと思うのだが、それほどまでに通信機器と不可分の生き方をする、蓋し、これは現代における重篤な病理ではないかと、背筋が寒くなる。
 
 では自分はどうなのかというと、やっぱり、そうしたものがないと生きていけないのかもしれない。
 
 7月に、ケータイの調子がおかしくなった。充電ランプは点灯しているのに、一向に電池の残量が増えないのである。出先にいて、職場からじゃんじゃん電話が掛かってくるのに、「残量1%」では取ることもできず、それでは困るので慌ててドコモショップに行き、その旨を訴えた。電池パックは4ヶ月前に替えたばかりだし、どのアダプタで充電を試みても同じなのでアダプタにも問題はない。とすれば、電話本体の問題であろうとのこと。修理に出してもよいが10日間ほど掛かる。ということで意を決して、スマホに替えることにした。
 
 たまたま翌日発売の新機種があるそうで、それを予約したのだが、充電の効かないケータイで1日を凌ぐのも大変困るというか、この間に重要なメールが届いたらどうしよう、職場で斃れたら如何にして家人と連絡を取ればよいのだろう、よしや誰かから愛の告白をされていたらどうやってそれを受けよう――さまざまなことが頭を擡(もた)げ、ケータイがないと、もしかしたら自分の生死に関わるのではないかという強迫観念さえ覚えたのである。
 
 そんな次第で私も立派なケータイ依存症なのだが、私がケータイというものを所持したのは人よりも相当に遅くて、確か2000年、20世紀の終わりギリギリのことである。「社会人にもなってケータイ持ってへんとかありえへんわ。大体、仕事にならんがな」と上司から指示命令を受けて、しゃあないなあと、やっと重い腰を上げて買いに行った。当時はほぼ終日内勤であったし、自宅も固定電話があるのだから、「仕事にならん」ことはないと思うのだが。
 
 さらに昔、学生時代には『ポケベルが鳴らなくて』というバブル期の象徴のような歌とドラマもあったが、自分はそんなもの持ってすらいなかったから、鳴るも鳴らぬも、緒形拳裕木奈江の不貞ロマンスを物憂そうに眺めていただけである。駅の公衆電話で女子高生がこの世のものとも思えぬ速度で数字を連打しているのを見たときには、よくもあんな曲芸のようなことができるものよと吃驚したものであるが、とにもかくにも、時代についていけていなかったよなあ、と思う。いや、「ついていけていなかった」のではなく、「ついていかなかった」というのが正しいかもしれない。四六時中、他人から束縛されるのは嫌ではないか。今でも休日に、会社から電話やメールが来るのだが、火急の用件なら致し方ないとしても、明日でも構わない用件で鳴らされたら、折角の現実逃避の時間が台無しというものである。人と交わるのは勿論嫌ではないけれども、一人の時間だって大切にしたいのだ。
 
 そんな私が一度(ひとたび)ケータイなりスマホなりを所持してしまうと、片時も手放せなくなってしまっているのだから、この文明の利器の中毒性は、ちょっとした麻薬などより余程重いのではないかと思う。しかも最近では、大阪の地下鉄でもトンネル内での通信が可能になったものだから、そうした中毒症状には拍車がかかる一方である。我が事ながらこれは一体、どうしたものであろうか。
 
 子どもの頃にも「携帯電話」のようなものはあったが、それは自動車電話などのように、ごく一部の上流階級のみが所持しているものであり、我々一般大衆が普通に手にする日が来るなど夢にも思わなかった。かつて描かれた「21世紀の未来の姿」は、現実のそれとは随分と違うけれども、しかし「未来」は当時より確実に進歩していた。自分がそれに追従するのは常に人より一歩遅れてはいるのだが、それでも使いこなしたいと思う心情の根底には、情報への渇望、そして人とのつながりへの希求があるのだろうと思う。こうしたコミュニケーションに依存してしまうと、本来の対人関係能力が脆弱になるという意見もあるが、しかしこうした利器のおかげで、長らく疎遠だった懐かしい人たちとの再会を果たせたのもまた事実である。
 
 スマホに変えて約3ヶ月、未だに操作法に慣れず、電車の中で画面をぴゃーんぴゃーんとやっている(これを「フリック」と呼ぶことを知ったのはついこの間である)と酔ってしまって吐き気を催すなど、命懸けで握り締めているスマホではあるが、その中毒性に溺れぬように気をつけながら、大切に使っていきたいと思う。