虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第34回 あいまいミーマイン

 堺市で、だんじりの練習を休んだ高校生を監禁し、重傷を負わせて財布を奪ったとして、男5人が逮捕されたという。何でも、この高校生がしばかれて閉じ込められてカツアゲされたのは1年も前の話だとか。今頃になって逮捕されるのもどうかと思うが、よりによってこの時期、すなわち、1年のうちで泉州が一番熱い時期に、こういう事件が明るみに出るということに、恣意的なものを感じてしまうのは考え過ぎであろうか。
 
 しかし、事件が起きたのは堺市だというのに、「だんじり(本当は『だんぢり』と書くのが正しいらしい)」と見たり聞いたりしただけで「岸和田でとんでもない事件が起きた」と早合点する愚か者の何と多いことか。同じ岸和田でも山手の方は10月に入ってからだし、そもそも、大阪の特に南部ではこの季節、そこら中でだんじり祭をやっているのだから、何でもかんでも岸和田の所為にしてやらないでほしい。
 
 いや、それ以上に憤懣やる方ないのは、こういう事件があるとすぐに、やれ「大阪の民度は低い」だの「さすが大阪民國」だの、こぞって大阪叩きの論調がネット上で勃発することであるが、大阪府民886万人の全員が犯罪者とでも言わんばかりの極めて浅薄な暴論である。26年に亙って大阪に住んでいるが、この間酷い目に遭った経験は、地下鉄天六駅の階段ですれ違いざまに見知らぬ男に首を絞められたことと、当時住んでいた天満の自宅前で車上荒らしにあったことと、残業帰りの夜中にひったくりに遭いかけたけれど、たまたま鞄を右手から左手に持ち替えたために犯人はバランスを崩して転倒し、その場でどついてやったことの、3回だけである。全くもって、平穏な日々をこの大阪で過ごしているのだ。
 
 数年前に『大阪がもし日本から独立したら』という本を読み、一流の専門家たちが大真面目に独立のシミュレーションをやっているのに爆笑したことがあるのだが、そこまでこうして大阪が罵られるのならいっそのこと、本当に独立してしまえばよいのではなかろうか。本書によると、「大阪国」には、兵庫県伊丹市および尼崎市南部が併合され、阪神甲子園球場とその周辺施設が飛び地となるそうであるから、今後、新大阪駅や、伊丹・関西の両空港に降り立った者には入国審査を行わねばならず、大阪を扱き下ろす者はここで全員捕縛してやればよい。新幹線で京都より新神戸以遠へ抜ける者からは通行税の徴収が必須である(嫌なら京都から和田山を経て姫路へ迂回すること)。そして、アンチタイガースの者たちは勿論、甲子園への入場は不可である――冗談です、すみません。
 
 話が逸れてしまったが、このように、何か犯罪が起きれば、地域とか時代とか、世の中全体の問題であるかのように語られがちである。冒頭の一件でも、悪いのは犯人その個人なのであって、それをイコール大阪人などと括るのは何という乱暴な物言いよと思うのであるが、このようなおかしな一般化(?)は日常会話でもよく耳にするのであって、その度に何かおかしいよなと引っ掛かっている。とりわけ昔から気になっているのは、「私」の考えとして意見を言わないことの多さである。
 
 例えば、「女の子に嫌われるよ」という“常套句”がある。自分で言うのも何であるが、そしてこういう臆面のないことを言うのも憚られるのだが、女性から生理的嫌悪感を示されることは殆どないという自負はある。ただ、人の好みは様々であるから、見た目なり言動なりがお気に召さないという向きも当然あるだろう。ならば「私はあなたが嫌いです」と言えばよいのに、なぜ「女の子に」とするのであろうか。お前は一体いつから「女の子」の代表になったというのだ。
 
 大人が子どもを叱るときの“常套句”である「子どもなんだから大人の言うことを聞きなさい」というのにも、子ども心に疑問を持っていた。確かに子どもは親に養ってもらっているのだし、年長者のことばに傾聴せよというのも道徳的な理はあるのだろうが、だからといって、子どもは無条件に大人に服従せねばならないというのは、暴君が無辜の民衆を平伏させるのと同じではないだろうか。「お母さんはあなたが間違っていると思うの」と、なぜ言えないのだろうか。金科玉条よろしく「大人」を振り翳さないと子どもを躾けられないというのは、大人の力不足というものではないだろうか。
 
 今となっては些か陳腐な気もするが、コーチングを学ぶときに出てくるものに、「Iメッセージ」というのがある。「よく頑張ったね」というのは相手が主語である「Youメッセージ」であるが、これを「あなたが頑張ってくれて私は嬉しい」のように表現すると、Iメッセージとなる。これが上手いのは小泉元首相で、これまた古い例で恐縮であるが、元横綱貴乃花が、怪我を押して出場し、その場所で優勝したときに発した「痛みに耐えてよく頑張った。感動した!」というメッセージが好例であろう。そこには「承認」という評価が加わり、Youメッセージで語るよりも相手の心に響くとされる。
 
 会社の世界でも政治の世界にしても、部下や次官に資料や答弁内容を用意させているようでは話を通すこともできないというのは周知のことであろう。「自分の言葉」で語るに勝るものはないのだ。しかるに何故、「私」で語ることを避けようとするのだろうか。無論、根拠や説得材料はあった方がよいとは思うし、自説に厚みや深みが出るというのも経験則として分かる。ただ、「虎の威を借る狐」という諺もあるのであって、「○○がこう言っているから」では、「じゃああなたはどう思うのよ」と、どうしてもツッコみたくなるのである。自信がないなら語るべきではないと思うのだ。
 
 何の憚ることやあらん。「私」の思いを込めて、高らかに語ろうではないか。
 
 でも、「嫌い」と言われるよりはやっぱり、「好き」と言ってもらえる方がいいかな。