虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第90回 夏の忘れ物(二)

 怒涛の如き忙殺の日々を経て、漸く夏期休暇に入っている。夏休みだけはしっかり7日間もらえるので、旅行に出る社員も多いようだが、私は休みになると体調を崩す、というより、それまで抑圧してきた病原が休みに入った途端、一気に顕在化して体を蝕むのが常であるから、よくできた身体と言うべきか、とにかく夏風邪でダウンである。サービス業従事の家人は盆休みなど関係ないので、誰もいない静かな部屋で、普段では考えられぬ怠惰な時間を過ごしている。
 
 しかし、悠長に休んでいる場合でもなく、溜まる一方である目前の課題を思うと、全く落ち着かない。その中の一つに、来年の6月に某大手出版社から刊行される実用書の執筆があって、休み中というのにその後の執筆状況はどうなっているのかという督促メールが来るものだから、精神的な逃げ場がなくて誠によろしくない。印税生活は確かに夢ではあるけれども、本当に書きたいのは実用書などではないし、そもそも仕事の一環としてやっていることだから、入ってくる印税は全て会社に納めなければならない。つまり、「印税生活の第一歩」などではないのだ。まだ半分くらいしか筆が進んでいないこの原稿、何とかこの休暇中に仕上げてしまいたいものである。
 
 ――と、ここまでは休暇初日に記したのであるが、この駄文を記すことすら途中で心が折れ、出版社の編集者が夢にまで出てくるという強迫観念と闘いつつも、結局無為に日々を送ってしまって、気が付けば明日は社会復帰の日である。しかるに山積する課題は全く決着が付かない。8月31日、学校の夏休みの宿題が全く片付いておらず、家族総動員で泣きながら取り組んでいる子どもの気持ちを、四十路を迎えてなお味わわねばならぬのかと思うと陰鬱で仕方がないが、追い詰められれば現実逃避に向かわんとするのも、凡人の心持ちというものであろう。という訳で、こうして駄文の続きを認(したた)めんとしているのである。
 
 さて、夏休みの宿題と言えば、小学校時代のそれ――全国共通の呼称であったのかは知らないが、私の通った学校では『夏休みの友』という甚だアイロニカルな名前が付けられていた――を思い出す。漢字や計算といったドリル的なものは機械的作業であるから、少々溜めてしまったとしても、根を詰めてやれば何とか済ませられるものであるが、私を苦しめた『三大夏休みの友』、すなわち、国語の読書感想文、図画工作の絵画、そして理科の自由研究はなかなかに手強く、難攻不落であり、どうにかして楽に乗り切ろうと、ない頭なりに悪知恵を働かせてみた。
 
 まず、読書感想文。これには、教育現場と出版業界が結託して(?)毎年指定される「課題図書」なるものが付いて回るのだが、この「課題図書」というのがどうもいただけない。読書感想文コンクールにおいてこれを読むことは必須ではないが、膨大な量の図書を前に、読むべき本を決めることにさえ苦しむ子どもたちは、須らくこれを選ぶのであって、そうした子どもたちの心理に付け込んだ大人のあくどさが見え隠れするような気がしてならない。それに、作家の浅田次郎氏の至言を借りれば、「読書は娯楽であり、道楽」(第17回東京国際ブックフェアの「読書推進セミナー」での発言)なのである。「課題」だなんて言われた時点で興が醒めるというものだ。そんな訳で、「課題」なのだからドライに片付けてしまおうと思った私は、図書館で適当な詩集を手にし、その中の一篇を選んで、そこに描かれた情景と作者の思いを想像し、それに対する所感を膨らませ、原稿用紙3枚ほどの“読書感想文”を仕上げて提出した。手にした担任教師は苦虫を潰したような顔で読んでいたが、娯楽、道楽たる読書を、「感想文を書かせるという課題」に貶めている教育現場に一石を投じることができたのなら望外の喜びだ。たぶん違うだろうが。
 
 次に、絵画。これは画才が皆無の者にとっては拷問以外の何物でもない。かてて加えて、提出した全員の絵を教室の後ろに張り出すというのは、京都三条河原の晒し首と同じ辱めではないかと今でも思う。というのは、絵の巧拙を論評されることもさることながら、殆どの児童が「夏休みの思い出」と称した旅行先の様子を絵にするものだから、さながら“我が家の旅行先自慢”の様相を呈するという、本来の趣旨などぶっ飛んだことになるからだ。海外旅行が専らブルジョワの営みであった時代、「ハワイの思い出」なんてものが掲示されると、それだけで皆の羨望の的になるのだが、一方で、近所の山で捕まえたかぶと虫の絵など描こうものなら、「夏休みというのにどこにも連れていってもらえなかった可哀相な子」のレッテルが張られるのだ。これは大いなる不条理である。私はささやかな反骨心から、夏休みとは何の関係もない、自分の掌をスケッチして提出した。
 
 最後は自由研究。この頃はまだ理科は好きであったから、取り組むこと自体に苦はなく、割と早い段階から構想を始めた。しかしあれこれ試行錯誤を重ねるのであるが、どうも上手くいかない。勝手に硬貨ごとに仕分けをしてくれる貯金箱は、当時出回り始めたばかりの500円玉が引っ掛かって失敗。手動のレコードプレーヤーは、縫い針で代用したためにレコードを傷物にして終わり。電池の要らない懐中電灯は、コンセントから電源を取ったために通電するや豆電球が爆発し火傷を負う。我が身の頭脳の足らなさを呪うばかりで、これだけは浅知恵を以てしてもごまかすことはできず、ありきたりのものを提出する外はなかった。
 
 2学期になって、読書感想文や絵画は誰の作品を見ても何とも思わなかったのだが、自由研究については、一人の女の子の発表に衝撃を受けた。たまたま氷を白いタオルに包んで持ち帰ったところ、あまり溶けていないことに気付き、そこから着想を得て、「白いものには保冷効果がある」という仮説を立て、諸条件下における氷の溶け方の違いを実験し、その結果をまとめたものである。黒い布は熱を吸収するので溶けやすく、白い布は逆に反射するので溶けにくいとか、食塩をまぶすと一層溶けにくくなるとか、いずれも目から鱗、鱗が落ち過ぎて失明するのではないかというような発見ばかりであった。担任教師は激賞の後、俄然躍起になり、何かのコンクールに出すと宣言した。おとなしい子であった彼女は、ある日突然脚光を浴びることになったことにうろたえ、恥じらい、頬を赤らめていたのだが、その様がまたしおらしく、忽ちにその虜となった。それから毎日、放課後は出展に向けた彼女のアシスタントを行った。『夏休みの友』への不貞腐れた反撥はどこへやら、彼女のシンデレラストーリーに関わることに、大袈裟かもしれないが自分の生き甲斐を見出した。確か、県大会を通過し、全国大会にまで出場したと記憶する。
 
 彼女が今どこでどうしているのか知る由もないが、「あなたも腐っていないで頑張りなさいよ」とその少女が耳元で囁いてくれている幻想を抱きながら、目の前の課題に明日からまた向き合っていかねばと腹を括る、夏休み最後の1日であった。