虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第86回 引越顛末記(一)

 昨日、大阪港への引っ越しと相成った。相変わらず「天保山」と言わないと通じない人が多いが、住所は港区築港1丁目、何と言われようと「大阪港」である。引っ越しの理由も前回記したが、我が家の財政状況を鑑みて、「今より3万5千円以上、家賃を抑えよう」というところから、物件選びが始まった。
 
 第27回でも綴ったが、私の人生は正にジプシーであって、今度で8つ目の住まいである。平均すれば5年に一度転居している計算になるが、なかなか根を下ろして「その土地の人」になれない。出身は枚方であるが、ここで暮らしていたのもわずか4年ばかり、“生まれ故郷”のことを時々抒情的に語ってはみるのだが、私のどこを叩いても、北河内の匂いなどしない。かと言って、一番長く暮らした天満は、今もJR環状線でしばしば通るのだが、車窓を眺めても、あまり懐かしいという気持ちにならない。最もしっくり来るのは淀川区で、居住歴は通算8年ではあるけれども、なぜか北摂の地にはそこはかとない愛着と郷愁を覚える。だから、結婚して最初の住まいは再び淀川区を選んだのだし、今回の引っ越しに際しても、何とか遠く離れぬところで見つけたかった。しかも、勤務先では「北摂会」なる会合を主宰しているくらいだから、会長の私が淀川より南下することは何としても許されないのだ。
 
 築年数が少々古くてもよいから、「淀川を越えない」ことを念頭に、賃料を始めとする諸々の条件を設定して、方々の住宅情報サイトを検索する。しかし已んぬるかな、梅田まで10分少々などというところに好物件などあるはずもなく、あっても他のネックとなる要件が重なり、検索範囲はどんどん郊外へと広がってゆく。ところがここで一つ、立ちはだかる壁がある。郊外物件の半数以上について回る、「駅からバス」という条件が飲めないのだ。私の帰宅が遅いため、最終バスに間に合わない可能性が多分にある、換言すれば、毎日タクシーで帰宅などしていたら引っ越し自体の意味がなくなるのも理由のひとつだが、それ以上に問題なのは家人である。他に類を見ない三半規管の弱さと血圧の低さを誇る女で、車に3分乗るだけでもみるみるうちに顔から血の気が引くのだ。従って、毎日バスで通勤するなどとんでもない話なのである。ならば電車ならよいかと言えばそういう訳でもなく、満員電車で10分以上揉まれていると必ず貧血を起こし、駅長室に運ばれる。
 
 全く面倒な話であるが、故に、郊外なら「始発電車のある駅」が必須の要件となる。大阪府内の北摂地域でこの要件を満たすのは、JRの高槻、阪急の高槻市北千里、それに北大阪急行千里中央のみである。これに「駅から徒歩圏内」という条件を加えれば、間取りを狭くしたところで賃料予算内の物件など見つかる訳もなく、必然的に兵庫県まで検索範囲を広げることになる。「須磨浦公園までは摂津国」と自身に言い聞かせつつ血眼で探し、やっと見つけた好物件は、山陽電鉄の板宿から徒歩3分の場所であった。板宿には始発電車はないが、新開地まで辛抱すれば、阪急・阪神の始発が待っている。帰りも阪神梅田から乗車すれば、姫路行きの直通特急で50分弱、乗り換えなしで帰宅が可能だ。これにしようと決め、不動産屋にアポを取ろうとしたのだが、ここで夫婦揃ってはたと、また一つ、重要なことに思いを致す。二人とも「朝が弱い」のだ。特に、低血圧の重篤患者である家人が今より1時間近くも早起きせねばならぬなどあってはならぬことで、「これはあかんわ」ということで、居住地選びは白紙に戻る。
 
 北摂会会長としては断腸の思いであったが、「大和川までは決して越えまい」という妥協の下、苦渋の決断で淀川を渡る。不動産屋に駆け込み、弁天町、森ノ宮、緑橋、文の里、出戸、長原、西田辺、長居等々、あれこれ候補を出してもらっては、ああでもないこうでもないと踏ん切りがつかない。そうしている中で行き着いたのが、大阪港なのであった。地下鉄は始発の次の駅だから何とか着席通勤はできるだろうし、私の勤務先である本町までは5駅で、今と変わらない。家人の勤務先は梅田であるから、本町での乗り換えに少々不服を唱えたが、四つ橋線なら比較的空いているだろうよと宥めて、漸く新居の決定に至ったのである。
 
 あれこれと物件を見繕ってくれた不動産屋さんだったが、今回の紆余曲折の中で、そこの店長代理のIさんの、親切で親身な対応には、心から感謝したいと思っている。大阪港なんて考えもしなかったところだが、Iさんがこの物件を出してくれなかったら、今頃路頭に迷っていたことだろう。本当に有り難かった。
 
 正直に言うと、「不動産屋」という職業には、ちょっとした偏見を持っていた。前にもどこかで書いたかもしれないが、大学進学で一人暮らしを始めるときに飛び込んだ不動産屋の印象が、今もなお焼き付いているのだ。
 
 ネットもまだない時代、物件探しの第一歩は住宅情報誌である。浪人の禁欲生活からやっと解放された私は、春から始まる一人暮らしに胸を膨らませつつ、真田広之が表紙を飾る某誌を購入した。当時の真田広之と言えば、野島伸司脚本の伝説のドラマ、『高校教師』で一躍名を上げた頃だったが、「あの真田広之が広告塔である不動産会社に間違いはない」という、今にして思えば頓珍漢の極みのような発想を以て、西中島南方の不動産屋に飛び込んだ。ところが、出てきた店員の、リーゼントに剃り込みを入れ、紫のダブルスーツに身を包んだその姿は、どう見てもヤクザなのである。まだバブル景気の余韻が残る時代だったから、時が時なれば、といったところであろうが、「この物件を見せてほしいのですが」と言ったら、巻き舌で「ああ、それなら3分前に決まりましたわ」とにべもない。随行してくれた父は、仕事柄、常日頃そういう手合いと対峙しているから、凄ませたらこちらの方が二枚も三枚も上手であり、おかげで変な物件を掴まされることはなかったけれども、「結婚したら、不動産屋の仲介がない、公団のマンションとかがええよなあ」などと呆けたことを、その時は考えてしまったのである。
 
 不動産業の業界全体が変わったのか、それとも、あの西中島南方の不動産屋だけが特殊だったのかはわからないが、今回、飛び込みでやってきた客を邪険に扱うこともなく、あれこれしょうもない質問を畳み掛ける私に懇切丁寧に説明してくれ、契約の段になって書類の不備があったにも関わらず柔軟に対応してもらったおかげで、こうして昨日から新しい生活を始めることができた。
 
 短い期間の限られた休みでちょっとずつ進めた引っ越し準備。追い込みであるこの1週間は、仕事が忙しいのもあってなかなかに大変だったが、まだ目に馴染まぬ地下鉄中央線の車窓をぼんやり眺めながら、これから始まるここでの暮らしに、ゆっくりと思いを馳せてゆきたい。部屋にはまだダンボールが山積みであるが。