虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第22回 言わぬが花

 世の中には、浮世のありとあらゆるものが気に入らないと見えて、方々でクレームを宣う者がいる。これを一般には「クレーマー」と呼び、学校を始めとする教育機関や教育産業の世界においては「モンスターペアレント」という特別な呼称までもが付与される始末である。長くて煩わしいので「モンペ」と略すが、昨今ではこのモンペ、教育業界のみならず一般企業にも登場するらしく、「何でウチの子を残業させるのですか」「何でウチの子をこんなガラの悪いところに配属させるのですか」などと、親が会社に因縁をつけるような“事件”が増えているのだそうである。世も末である。
 
 地下鉄御堂筋線のなかもず方面の電車に乗って、梅田を出て暫くすると、「電車がカーブを通過します。ご注意ください」というアナウンスが流れる。他にも立ち客がよろけるような急カーブは何箇所かあるのに、このような注意喚起の放送がかかるのはなぜかこの箇所のみである。それはいいとして、このアナウンス、私が高校生の頃くらいまでは長年、「列車が曲がりますから、ご注意ください」という台詞であった。「列車が(カーブを)曲がります」の意であるというのは通常の頭脳を持ち合わせた人間には明白だと思うのだが、「列車の車体が曲がるんかい!」と交通局にクレームがあり、今のようなアナウンスに変わったのだそうである。こんな輩を終日相手にしつつ、「貴重なご意見誠にありがとうございます」と思ってもいないことを言い続けねばならない、そんな業務に従事される方々の懐の深さには深い畏敬の念を覚えずにはおれない。
 
 そもそも日本には古来から「皆まで言わぬ」ことが美徳とされ、「言わぬが花」「以心伝心」など、そうであることを賛美する箴言も多い。因みに「沈黙は金、雄弁は銀」ということわざも同義で使われるものと思っていたら、かつて天然に存在する銀の量は金のそれに比して少なく、またその精錬法も未発達であったことから、金よりも銀の方が価値が高く、従って沈黙よりも雄弁の方が勝るというのが正しい解釈である、というのを見て仰天した。慌てて複数の辞書に当たってしまったではないか。「情けは人の為ならず」の誤解はあまりにも有名であるが、とんだ曲解があったものである。
 
 話が逸れてしまったが、少々言葉が足らなくても、そこは行間を読んで意図を斟酌し、それを以て理解して、一々クレームなどつけるものではない、と思うのだ。
 
 ところで私は見ての通り(誰が見るねん)の小心者であるから、自身が如何なる不当な接遇を受けようとも、クレームに及んだりなど普通はしない。時々、会社では上司の前でへこへこしている人間が、店に行くと突如豹変して店員に横柄な口の利き方をする場面を見かけることがあるが、ああいうのは人間性がどうかしているのではと思うほどである。そのような私が、過去に2度、我慢ならずにクレームに及んだことがあるのだからこれは余程である。いずれもタクシー会社、しかも同一の会社である。かつて、無関係なのに旧財閥系の名を屋号に用いていた格安タクシーの会社である。
 
 1度目は、深酒が祟り、出勤時刻に遅れそうになったときのことである。当時住んでいた天満から、これまた当時の勤務先である放出まで、車をぶっ飛ばせば15分である。徒歩+電車より10分早い。桜ノ宮のラブホ街を抜け、片町→城見→鴫野と抜けるのが一番早いことも知っている。流しのタクシーを止め、この道順で行くように告げて走り出すや1分、いきなり右折すべきを直進した。
 
 「ちょっとちょっと、今の交差点右ですよ」「あわわ」「まあよろしいわ。真っ直ぐ行って、2つ目の信号の1つ先の交差点を右へ行ってください」「は、はい」。そして右へ行くべき交差点をまたしても直進。「あのね、右って言いましたよね」「あわわ」「次の突き当たりは左折しかできないんですよ」「あわわ」「しょうがないから、一旦左折して、その先の信号をUターンしてください」「は、はい」。
 
 そうこうしている内に信号待ち渋滞に引っ掛かる。青信号が極めて短いからで、それを知っているから最初の道順を指示したのにこれではタクシーに乗った意味がない。それを抗議すると、「だってお客さんが真っ直ぐって言いはりましたやん」「は? 私は『右へ』と2度までも言いましたのに真っ直ぐ行ったのはお宅ですよ」「あわわ」。もう諦めた。所定のルートに戻ったことだし、後はおとなしく黙っていよう。
 
 結局電車+徒歩より10分余計に掛かって放出到着。いざ支払いとなって運転手曰く、「あ、あのぅ、メーター回してなかったんですが」「そんなこと私の知ったこっちゃありませんよ」「で、でも、タコメーターが付いてるんでお金もらわないと会社に叱られるんです」「じゃあおいくら払えばいいんですか」「こないだ天満から深江橋まで行ったときは3,000円くらいでしたから、3,000円ください」「いや、深江橋より放出は手前やのに、何で同じ3,000円なんですか。660円のタクシーでも大体2,300円くらいですよ」「でも、距離はかかってますから」「距離かかったって、大回りしたのはお宅ですやん」「お願いですから3,000円くださいよぅ」。いい大人が半泣きなので「わかりました、3,000円お支払いしますよ」と言って漱石さんを3枚渡し、降り際にタクシーカードを取ろうとしたら、「お、お客さん、何でカード取りはるんですか?」「ここに『必ずお取りください』て書いてますがな」「え、会社に苦情言いはるんでしょ」「勿論ですがな」「ううっ、勘弁してくださいよぅ」「勘弁ならん」。
 
 かかる顛末の末、結局遅刻して上司に叱られた。タクシー会社にクレームを入れたのは言うまでもない。
 
 2回目は、やはり深酒が祟って遅刻しそうになったときのことである(社会人失格ですね)。今度はオバハン運転手である。今回は所定のルートをきちんと走行してくれたのだが、ラブホ街を通過中、唐突に「私、死んだ主人と初めて結ばれたのがここなの♡」と語り始めたのだ。いきなり物凄い展開になった。以降、おばちゃんは、夫との馴れ初めから若い頃の夜の営みに至るまで、訊きもしないことを一方的に喋り続ける。前夜の酒が少々残るというのに、こんな話を出勤前に聞かされては吐き気が再燃するではないか。
 
 そして放出に到着し、今度は定時に間に合ったと胸を撫ぜ下ろしながら支払おうとすると、出し抜けに「お兄さん、あなた結婚はしてるの?」訊いてきた。当時はまだ独身であったので、「いや、まだですけど」と答える。するとおばちゃん、「だめじゃない!!!!!」と激昂を始める。何事かと思って茫然とする私に、「私の知ってる先生がいい人を紹介してくれるから、名刺を出しなさい」と命令に及んできたのだ。これには流石に我慢ならず、「あのな、急いでるからタクシー乗ってんねんから、早いこと降ろしてくれよ。それに結婚相手くらい自前でどないかするから放っといてくれ。大体客に向かって『しなさい』とは何やねんゴルァ!」と、文字にしてみるとイマイチ迫力に欠けるが、壮絶な勢いでキレてみたのだ。するとこのオバハン運転手、この世のものとは思えぬ高笑いをして、ドアを開けたのである。あのときのオバハン運転手の顔は、今でも鮮明に記憶するトラウマである。
 
 という訳で今回も遅刻。上司には「次はないと思え」と最後通牒を受ける始末。勿論タクシー会社にはクレームを入れたが、あれは何かの魔物に憑りつかれたのだ、そう思うしかない。
 
 言葉が足らなくてもクレーム、言葉が過ぎてもクレーム。対人関係というのは実に難しいものである。