虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第47回 おとなになっても(一)

 今日は成人の日である。大雪に見舞われ大変だった地域もあったようだが、晴れやかな若者たちの表情を見ていたら、それだけでこちらの顔もほころぶというものである。
 
 しかし自分の頃を顧みるに、実家は遠く離れたところなのでそうやすやすと帰ることも能わず、かと言って淀川区の式典に出たところで誰も知った人がいない。それにそもそも、大学の学年末試験を目前に控え、単位を大量に落とすかもしれないという恐怖に駆られる状況でそれどころではなく、また当時、塾講師のアルバイトをやっていたから、入試直前の子どもたちを放り出して休みを取るのも憚られる。そんな訳で、厳粛たる成人式というものには行かずじまいで、バイト先のマネージャーが「ささやかなお祝いをしてあげよう」と言って、仕事が終わった後、飲みに連れて行ってくれたのが私の「成人式」であった。
 
 さて、『国民の祝日に関する法律』の第二条によると、この日は、「おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」日であると規定されている。そう、「祝いはげます」の主体は当事者を除く国民であり、当の成人たちがやってよいのは「おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする」ことのみなのであって、「成人式の会場で酒をあおり、舞台に乱入して狂喜乱舞に及ぶ」ことは明文化されていないので注意が必要である。
 
 では、「おとなになつたことを自覚」するとは、具体的には一体何を指すのであろうか。各地の成人式の模様を取材したニュースを見ていても、新成人たちの口からは、その答えをなかなか聞くことができない。
 
 そこで思い出す、1つの物語がある。新見南吉の『かぶと虫』という小品である。
 
 ある日、主人公の「小さい太郎」は、お花畑でかぶと虫を捕まえる。「ああ、かぶと虫だ。かぶと虫とった」と言うが、兄弟のいない「小さい太郎」には、それに答えてくれる人もいない。縁側で居眠りをしていたおばあさんにそれを見せるが、おばあさんは全く興味を示さない。ひとりがつまらない「小さい太郎」は、一緒に遊んでくれる相手を探して、次々と友達の家を駆け巡る。しかし、金平ちゃんはお腹が痛くて寝ており、恭一君は三河の親戚にもらわれていったという。
 
 そこで「小さい太郎」は、車大工の息子、年上の安雄さんの許に行く。 安雄さんは、青年学校に行っている大きい人だったが、いつも「小さい太郎」たちと遊んでくれる、よい友だちであった。けれども、安雄さんは仕事に熱心に向き合っており、そのうち「小さい太郎」は、車大工のおじさんに邪険に扱われてしまう。そして物語はこう続く。

 「うちの安雄はな、もう、きょうから、一人まえのおとなになったでな、子どもとは遊ばんでな、子どもは子どもと遊ぶがええぞや。」
 と、つっぱなすようにいいました。
 すると安雄さんが、小さい太郎の方を見て、しかたがないように、かすかにわらいました。そしてまたすぐ、じぶんの手先に熱心な目をむけました。
 虫がえだから落ちるように、力なく、小さい太郎はこうしからはなれました。
 そして、ぶらぶらと歩いていきました。
 
 小さい太郎の胸に、深い悲しみがわきあがりました。
 安雄さんはもう、小さい太郎のそばに帰ってはこないのです。もういっしょに遊ぶことはないのです。おなかがいたいなら、あしたになればなおるでしょう。三河にもらわれていったって、いつかまた帰ってくることもあるでしょう。しかし、おとなの世界にはいった人が、もう子どもの世界に帰ってくることはないのです。
 安雄さんは、遠くにいきはしません。同じ村の、じき近くにいます。しかし、きょうから、安雄さんと小さい太郎は、べつの世界にいるのです。いっしょに遊ぶことはないのです。
 小さい太郎の胸には、悲しみが空のようにひろく、深く、うつろにひろがりました。
 
 ある悲しみは、なくことができます。ないて消すことができます。
 しかし、ある悲しみはなくことができません。ないたって、どうしたって、消すことはできないのです。いま、小さい太郎の胸にひろがった悲しみは、なくことのできない悲しみでした。
 そこで小さい太郎は、西の山の上にひとつきり、ぽかんとある、ふちの赤い雲を、まぶしいものを見るように、まゆをすこししかめながら、長いあいだ見ているだけでした。かぶと虫がいつか指からすりぬけて、にげてしまったのにも気づかないで――。

 本作の原題は『小さい太郎の悲しみ』で、当然、「おとなの世界」と「子どもの世界」に埋め難い隔絶があることを知った「小さい太郎」の心の動きに鑑賞の主眼が置かれるべきであるが、私には、「安雄さんが、小さい太郎の方を見て、しかたがないように、かすかにわらいました」というこの部分が、何だか象徴的に感じられるのである。「しかたがない」――安雄さんが「おとなになつたことを自覚」したとは、そういうことなのだ。すなわち、自らの都合だけで世の中が回るのではないのだよ、ということを、「小さい太郎」に暗に伝えようとしたのだと、私には解釈されるのである。
 
 かつて、尾崎豊は「自由になれた気がした15の夜」と唄った。「自由になれた気がし」ても、それは真の自由などではなかったことを知るのが「おとな」なのかもしれない。それは、何事かの柵(しがらみ)に捕らわれて没個性的に生きよという厭世的なことではなく、人間は文字通りに「人と人の間」に生きること、換言すれば「利己」から「利他」への姿勢の転換の必要性を認識せねばならぬということなのだ。「おとな」からやいのやいのと言われるのに、一々反抗したくなるのが思春期であるが、それが落ち着き、人の話にも耳を傾けることができてくれば、漸く「おとな」になったと言えるのかもしれない。
 
 「二十歳の主張」も大いに結構。しかしそれは、唯我独尊的なものではなく、あくまで多くの人たちの幸せに寄与するものであらねばならぬであろうと、まもなく“二度目の成人式”を迎えるオッサンは、思うのである。人間たるもの、一人で生きていける訳はないのだから。