虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第49回 おとなになっても(二)

 前々回、おとなになったら、いつまでも思春期よろしく我儘な自己主張ばかりやっていないで、少しは人との関わりというものを意識して物を言ったらどうだという、つまらない繰り言を述べてしまったが、そうは言いながらその実、「小さい太郎」の気持ちとて分からぬではないのだ。初めてこの作品を読んだとき、ああ、こういう穢れのない“子どもの心”を私はいつから失ってしまったのだろうと、暫く物思いに耽ってしまったものである。
 
 一時、往年の名作アニメの「○年後」の実写版CMが話題になったことがある。2008年からの、江崎グリコの『OTONA GLICO ~25年後の磯野家~』を初めて見たときの感慨は忘れない。何をしているのか分からないが相変わらずのカツオ(36歳)が浅野忠信、百貨店のエレベーターガールをしているワカメ(34歳)が宮沢りえ、屋台でたこ焼きを売っているタラオ(28歳)が瑛太、そしてベンチャー企業のCEOになったイクラ(26歳)が小栗旬である。それまでにも同様の着想で製作された広告は散見していると思うのだが、ピアノの調べで「サザエさんのテーマ」が静かに流れる中、大人になった彼らや彼女たちの姿を見たら訳もなく泣けてきたのである。彼らや彼女たちが「大人になった」ことへの感慨よりも、大人になった彼らや彼女たちの中に残る“子ども時代の姿”が琴線に触れたのかもしれない。
 
 1年と少し前には、TOYOTAの『Re BORN』で、20年後のドラえもんたちが描かれた。30歳になったのび太妻夫木聡、しずかちゃんが水川あさみジャイアン小川直也スネ夫山下智久、そしてドラえもんジャン・レノである。シリーズが進むにつれて、ジャイアンの妹・ジャイ子役で前田敦子が出たときにも仰け反ったが、出木杉内村航平が登場したときには、それは正に「やりすぎ」とツッコんだものである。ここでものび太はやっぱりダメ人間である。原作では既にしずかちゃんと結婚しているはずで、挙式前夜に、しずかの父が彼女に語る「のび太君を選んだ君の判断は正しかったと思うよ。あの青年は人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことの出来る人だ。それが人間にとって大事なことなんだからね。彼なら間違いなく君を幸せにしてくれると僕は信じているよ」という言葉は珠玉の名台詞であるが、そんなことは全くの度外視で、ジャイアンの不条理やスネ夫の嫌味など、“子ども時代”そのままである。けれどもやはり、その「そのまま」がよいのである。
 
 いずれのCM作品も、続編が期待されたが、飽きられてしまったのか、完結編のようなものもなく、フェードアウト的に終わってしまったのは残念である。
 
 登場人物が決して年を取らない作品としては他に、『ちびまる子ちゃん』などが有名であるが、大阪の人間としては『じゃりん子チエ』を忘れてはなるまい。同じように「チエちゃんの○年後」を描いてみたらどんな話になるのだろうかと考えたことがある。そうしているうちに去年、「これぞ正に『おとな版じゃりん子チエ』ではないか」と思える作品に出くわしたのだ。坂井希久子の『泣いたらアカンで通天閣』(祥伝社)である。
 
 この方、文藝春秋社の第88回オール讀物新人賞受賞作家であるが、恥ずかしながらお名前を存じ上げず、まずはWikipediaで検索してみた。すると上部に、「この項目には性的な表現や記述が含まれます。免責事項もお読みください」と表示されているではないか。「?」と思い、よく読み進めると、「受賞時に現役SM嬢であることが記事になった。SMクラブ『MARS』所属」と記されている。まあ、作家の来歴というのは様々であるから、殊更驚くことでもないが、森村誠一が名誉塾長を務めるプロ作家養成講座「山村教室」で学び、年間最優秀賞も受賞したというのだから本気で作家を志して努力を重ね、また誰しも芽が出るというものでもあるまいから天賦の才をも有する一廉(ひとかど)の人なのだろう。むしろそちらの方に感嘆した。余談だが、知り合いの知り合いの知り合いくらいで、裏切られた元夫への復讐として、文芸学校に通い、その夫の異常な性癖を小説に認(したた)め、読む人が読めばこれは紛れもないノンフィクションだと判るという渾身の力作を完成し、何かの新人賞を取ったけれど、それで所期の目的を達成し、その1冊を世に送り出して早々に文壇から去って行った、という人を知っている。疾風のように現れて、疾風のように去ってゆく、月光仮面のような在り方もなくはないであろうが、やはり作品を出し続けてこそ、作家の矜持が保たれ、その名も残るというものであろう。坂井氏も精力的に文筆活動を続けておられるようである。
 
 話は元に戻るが表題作、『おとな版じゃりん子チエ』などと評しては作者に失礼だろうが、ここに描かれる主人公の「千子」(「ちね」と読むが、皆「センコ」と呼んでいる)と、どうしようもない父親「賢悟」(皆は「ゲンコ」と呼ぶ)の関係には、『じゃりん子チエ』におけるチエとテツのそれがどうしても重ねられてしまう。舞台も表題通りに通天閣の下、大阪のディープタウンである。どうしようもない父親に辟易する日々であるが、しかしどこか憎めない。センコが小5のときに書いた「わたしのお父さん」という作文が冒頭にあるが、お父さんのこんなところが嫌、あんなところが嫌と言いつつ、「わたしは『ゲンコ』の娘やから『センコ』でええんかなと思うようになりました」と、父への愛情を綴るこの作文を読んだだけで、のっけから涙腺を決壊させてしまった。
 
 長じて26歳になったセンコは昼間のOL勤めの傍ら、父親が経営するラーメン屋を事実上切り盛りしている。祖父の代から続く店であるが、秘伝の味を受け継いでいたのは放蕩息子のゲンコではなく、センコの母であった。その母はセンコが小3の時に他界し、レシピを知る由もないゲンコは、とんでもなく不味いラーメンを供して不興を買い、客足は激減している。だから何とか店を守るために、センコは必死に店を手伝うのであった。そんなセンコに、東京から単身赴任で大阪にやってきた上司との不倫関係に端を発する修羅場が降り掛かるのであるが、それもセンコの持ち前の強さや、周囲の人々の人情愛情で乗り越える。
 
 そして、いろいろあって胎内に新しい命を宿したセンコは、母の遺影の前でこう呟く。「おおきに、ありがとう。産んでくれて。愛してくれて。わたしにも、できるかな」と。冒頭の作文がここへ来てぴたっと重なり、「おとな」になったセンコの中に確かに残る“子どもの心”に触れて、再び涙腺決壊、涙の洪水となったのである。「九八パーセントくらいがうさんくささ」、「残りの二パーセント程度がたぶん、温かさや懐かしさといった」もので構成されているこの街と、そこに暮らす人々。街の情景が思い浮かび、そこに住まう人たちの心の機微が伝わってくる本作は紛う方なく、私の中での2012年の最高傑作である。
 
 清濁併せ呑める「おとな」になってこそ人間としての成熟と言えるのであるが、しかし一方で、どこかに変わらぬ“子どもの心”も持っていたいと思うのである。「子ども」のときの自分が、「おとな」になった今の生き様を見たら、何と思うであろうか。