虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第23回 夢十夜(一)

 手元に、1975年3月の時刻表がある。当然、JRではなく国鉄の時代であり、山陽新幹線の岡山~博多間が開業したときの号である。読み物としてこれほど面白いものはない。時刻表や地図を「読む」という変わった趣味を持つ私であるが、時刻表を開いて「旅の空想」に浸り、地図を横に置いて、そこから見える風景を思い浮かべてみる。ネクラと言われようがヲタクと罵られようが、時間と金のない者にとっては、何より至福のひとときである。ましてこれが古いものになると、時空を超えた旅に出ることができるのだから、なお愉しい。
 
 現在のJR京都線神戸線を走る「新快速」は、当時は草津~姫路間の運行で、停車駅は石山・大津・京都・大阪・三ノ宮・明石・加古川である。現在止まっている南草津・山科・高槻・新大阪・尼崎・芦屋・神戸・西明石は通過であるが、特に新幹線の拠点であり、在来線の特急も停車する新大阪を新快速が通過するのは、今ではおよそ考えられないことであろう。しかしこれは当時でも同じことで、父親が出張で新幹線に乗るとき、よもや新大阪を通過する電車などあろうはずもないと思って新快速に乗ったら京都まで連れて行かれてとんでもない目に遭ったと憤っていたことがある。けれどもよく考えれば今が止まり過ぎなのであって、国鉄・阪急・京阪とも、京阪間がノンストップであった頃が実に懐かしい。通勤電車に旅情を求めるのもおかしな話であろうが、途中駅での忙しない乗降がないのはゆったりできてよいのである。当時の新快速には喫煙車があったし、車内販売まであったらしいのである。
 
 旅情という点で言えば、当時、国鉄には全国各地に「急行」が走っていた。スローな長旅には打ってつけであるのだが、今のJRからは昼間の急行が全廃され、夜行も北海道に辛うじて1本残るのみだそうである。この時刻表を読み解くと、大阪駅発着だけでも、山陽・九州方面は、宇野行き「鷲羽」、熊本行き「阿蘇」、長崎行き「雲仙」、佐世保行き「西海」、大分行き「くにさき」。山陰方面は、福知山線経由が城崎行き「丹波」、鳥取行き「いでゆ」、出雲市行き「だいせん」姫新線経由は鳥取行き「みささ」と中国勝山行き「みまさか」。播但線経由は鳥取行き「但馬」。東に向けば、名古屋行き「比叡」、高山行き「たかやま」、長野行き「ちくま」、東京行き「銀河」。そして北へと向かうのは、金沢行き「ゆのくに」、富山行き「アルペン」、新潟行き「越後」、青森行き「きたぐに」と、これだけのラインナップがあった。旅好きにとっては、こうして行先と列車名を並べるだけでも胸が躍るものであるが、大阪発着の夜行がほぼ全廃となった今、特急の「サンダーバード」「しなの」「ひだ」を除けば、新快速が敦賀播州赤穂まで行くのが最遠で、大阪駅のホームに立っても、遠く彼方の地に思いを馳せることはできなくなってしまった。
 
 ならばせめてと、古い時刻表と地図を広げ、空想(妄想?)の旅に出かけてみようと思う。
 
 さあ、ここは1975年6月4日、18時過ぎの大阪駅。今は「4番線」になった2番線で、長崎行き急行「雲仙」を待つことにしよう。36年後、ここの天空に大屋根ができるなどと、誰が想像しただろうか。18時19分。機関車に曳かれて、ブルーの車体の客車列車がホームに滑り込む。荷物車1両を含む前の7両が長崎行き、後の6両が佐世保行きの「西海」である。長崎行きと佐世保行きというのは兄妹みたいなところがあって、あらゆる列車が、この先、佐賀県肥前山口まで併結運転し、そこで二手に分かれる。私は兄であるから長崎行きを選んだ。夜行ではあるが、全車座席車、しかもボックスシートである。15時間の長旅で臀部が耐え得るか少々心配であるが、これもまた、金のない者にとっての旅の醍醐味であろう。
 
 食堂車も何もないのだから、食糧確保を万全にし、18時40分、ラッシュの喧騒をよそに、列車は大阪の街を離れた。三ノ宮・神戸と止まり、須磨の浦が車窓に映る頃には日も沈み、明石海峡大橋もない時代の空は広く、群青の深い色に吸い込まれそうである。19時58分、姫路着。現代の新快速なら1時間で走破するが、急行列車ののんびりした旅は、既にここで1時間20分弱を費やしている。
 
 姫路から岡山にかけては淋しい山間部を走る。特に上郡と三石の間、つまり兵庫と岡山の県境にある船坂峠を超えるときは、旅愁を通り越して寂寥さえ覚えるものである。ここが県境、そして地方境であるのにはやはり必然があるのであろう。20時55分の和気を過ぎると、右手には吉井川の流れが望めるはずだが、既に漆黒の闇夜で、それを認めることはできない。21時18分、岡山着。街の明かりが見えてほっとする。つい3か月前までは、ここが新幹線の終点で、九州方面に向かう特急や急行が、昼夜を問わず頻発していたのだが、博多まで全通した今、その賑わいはちょっと落ち着いている。それでも山陰や四国に向かう重要な拠点の駅であり、政令指定都市以外で唯一「ひかり」が止まる駅としての矜持を持つことに変わりはない(後に岡山市政令指定都市の仲間入りをするのだが)。
 
 岡山から広島にかけては、中小の市町が連なり、倉敷・新倉敷・金光・笠岡・福山・尾道・糸崎・三原・西条と、割とマメに停車する。その中で糸崎は、駅前にこれといった商店も見当たらず、何故こんなところに停車するのかと訝ってしまうが、運転上は重要な駅らしく、10分以上の長時間停車であり、運転手も交替している。大阪から5時間弱、ホームに降り立って背伸びをしてみる。
 
 広島に到着したときには日付変更線を跨いでいて、0時38分。この先、昼間なら宮島、大畠、柳井と、美しい瀬戸内の海が望めるところであるが、窓に顔を張り付けても真っ暗なだけであるから、眠ろうと思う。しかしここはボックスシートの辛さ。閑散期だからボックスは一人占めできるのだが、足を向こうの席に伸ばしても、中間が浮いているのだからどうも落ち着かない。さりとて横になろうにも、通路側の手摺りが邪魔をして、長身にとっては窮屈である。結局、普通に座って腕組みをし、俯いて目を閉じることにした。ところが客車は到着・発車の際に、衝撃のような独特の揺れ方をする。山口県内も岩国・柳井・光・下松・徳山・防府・小郡・宇部・小野田・厚狭と小刻みに停車するものだからその度に目が覚め、浅い眠りのまま、4時36分、空が白んだ下関に到着。機関車を付け替え、いざ関門海峡に挑む。といってもトンネルを潜って10分も経たぬうちに門司に着くのだから、大した感慨もないのだが、それでもここからいよいよ九州、気分は高揚するばかりである。
 
※長いので(二)に続きます。そのうち気が向けば書きます。