虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第18回 故郷は遠きにありて思ふもの

 室生犀星に『小景異情』という作品がある。故郷に対する愛憎相半ばする想いを詠った抒情詩であるが、「ひとり都のゆふぐれに/ふるさとおもひ涙ぐむ/そのこころもて遠きみやこにかへらばや/遠きみやこにかへらばや」に表される静かな激情は胸に迫るものがあり、高校の現国の教科書で初めて目にしてから既に20年余が経つが、今尚諳んじて言える詩の1つである。
 
 私は齢38歳であるが、引っ越しは7回経験していて、平均すれば5年半弱で住居を変えていることになる。また、出身地は「大阪府枚方市」ということにしているが、これは出生届を提出し、最初に暮らした場所ということでそうしているのであって、母親の胎内から出てきた場所は広島市、結婚するまで置いていた本籍地は住んだこともない岡山県川上郡(現・高梁市)である。ジプシーの如き生活を送ってきた私には、自分の故郷と呼べる場所がこれといってないのだ。
 
 これはよく考えれば大変に悲しいことであって、例えば、間違って私が何らかの偉業を成し遂げ、「故郷に錦を飾った」ということで顕彰を受けなんとする場合、一体どこの自治体が名乗りを上げてくれるのであろうか。
 
 帰属意識の必要に迫られないことは、それはそれで気楽でよいのだが、いざというときに拠り所がないというのはやはり淋しいものである。私の場合は「大阪人でありたい」というアイデンティティがどこかにあるのであって、しかるに土着民ではない自分を大阪人たらしめるものは何であるかというと、「大阪弁を操ること」以外に答えが見出せない。つまり、流浪の民が異郷の地にあっても最後に拠り所とできるものは「方言」しかないと思うのだ。
 
 ところが、ネイティブでないのにご当地の方言を喋ろうとする者の何と多いことか。
 
 自らがそうであることに強いアイデンティティを持つ大阪人、あるいは関西人(本来、「大阪」と「関西」は厳然と区別しなければならないのだが、面倒くさいので以下同義語として混用する)は、殊に東京に対する対抗意識が強いと言われ、自ら望んで東京進出を果たすことですら嫌われるのに、「……だよねー」とか「……じゃん」とか喋ろうものなら、「東京に魂を売った」などと苛烈な糾弾を受けることは必定である。事ほど左様に大阪弁に対する思い入れが強いのが大阪人であるが、これが方言というものに対する本来のあり方であろう。
 
 しかし、関西の大学にいると、地方出身者の多くは次第に関西弁を喋り始めるようになる。そのうち「俺はボケ担当」と相方もいないのに言い出して(しかも不思議なことに大概の者は「ボケ担当」を選ぶ)、実に下らぬことを高歌放吟に及ぶ者まで出てくる(駄洒落をびっしり書き連ねた「ネタ帳」なるものを持ち歩いている猛者さえ見たことがある)。これは一体何としたものであろう。彼らや彼女たちは、盆や正月に地元へ帰ってもやはり関西弁を喋るのだろうか。そして「ふとんがふっとんだ」などと口走った上に、「これが大阪の笑いやねん」などと訳知り顔に言うのだろうか。そんなことをして地元で「関西に魂を売った」と詰られたりはしないのだろうか。
 
 それに関西弁のイントネーションはそのほとんどが共通語と逆であるという、相当特殊なものであるから、そうやすやすと習得できるものでもないはずだ。「アカン」「ナンデヤネン」などと言葉の上はそれらしくても、聞く者が聞けばネイティブではないと一発で峻別できるし、おかしな歌を聞かされているが如き奇妙な抑揚は耳に障るというのが正直なところである。毎年10月から始まるNHKの朝ドラを見ていればよく分かろう。一線級の大物俳優を以てしても、ベテランの方言指導を付けても、ダメなものはダメなのである。
 
 こんなことを言うと、大阪人は何て排他的だとお叱りを受けるかもしれない。懸命に「大阪人」になろうとしている者の健気な思いを踏み躙る鬼の所業だと指弾されるかもしれない。しかし、よく聞いてほしいのだ。あくまで「おかしな大阪弁に対して排他的」なのであって、“母国語”を大切に固守する人たちを排他になど決して及ばない。少なくとも私はそうである。大学時代の同級生だった、中国地方出身のK君は今も関西に暮らし、嫁も関西の人間をもらっていて、この間かれこれ20年が経とうとしているが、相変わらずお国の言葉を全く自然に用いている。そしてK君の渾名は「ジャロ君」である。また、九州出身で大学も九州、社会人になって初めて大阪に出てきて教師をやっているSさんという女子は、生徒を褒めるときに「そうたい!そうたい!」と満面の笑みを浮かべながら高らかに地元の言葉を口にするが、子どもたちに慕われて止まない名先生である。
 
 と、批判めいたことをひとしきり書き連ねているうちに心苦しくなり、はたと冒頭の室生犀星の詩に戻るのである。私生児として生まれ、不幸な星の下に育った若き日の犀星は、血の繋がらぬ母との反駁の末に故郷を飛び出す。それは1つの決意であり不退転の覚悟でもある。しかし「異土」は決して自分を受け入れてくれようとはしない。孤独はますます深まるばかりで、さりとて「遠きみやこ」に自らの帰る場所もない。「都」と「みやこ」の間で彷徨う彼は、「よしや/うらぶれて異土の乞食(かたゐ)になるとても/帰るところにあるまじや」と壮絶な叫びを上げる。これはもう、「故郷との訣別」である。訣別した上で、「遠きみやこにかへらばや」と痛切なる望郷の思いを詠うのだ。
 
 1990年代の初頭だったと思うが、JR東海のCMに、「ファイト!エクスプレス」というシリーズがあった。「シンデレラ」の方があまりに有名でその陰に隠れている感があるが、これはこれで一種の抒情詩と言える秀作であった。そのシリーズの中に、「父の手紙」という作品があって、尾崎豊の『I love you』をBGMに、進学で故郷を離れ上京する3人の若者を描くのだが、その1人に宛てた父の手紙の内容が鮮明に思い出される。ナレーションは、室田日出男である。
 
 「お前は、新しい街で生きていくことを選んだ。その街でお前は、お前が捨てていくもの、置いていく人たちに、恥ずかしくない何かを掴め。それができるまでは帰ってくるな。自信が持てるまでは帰ってくるな」
 
 そう、故郷を飛び出した者は、「何かを掴む」までは、帰ってはいけないのだ。強い心を持って、故郷と訣別せねばならぬのだ。「方言は故郷を離れた者にとっての拠り所」と述べたが、それをこそ捨てての、故郷との訣別なのである。だから、発音がおかしいだの、イントネーションが狂っているだの言われても、それでも必死に“異国語”を喋ろうとするのだ。そこには実は、哀しいまでの望郷の思いが秘められていて、人知れず「遠きみやこにかへらばや」と落涙するのであろう。
 
 故郷を持たぬジプシーには、所詮その程度の想像力しか働かないのが、何だかとても申し訳なくなってきた。