虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第19回 空気人形

 仕事柄(今度こそは本当に仕事柄)、社外の人に会う機会が多い。弊社は業態の特性上、全国各地に事業所が多店舗展開され、1つの拠点にいる社員は多くてもせいぜい10名程度であって、その全員が一堂に会する機会はそうそうないものであるから、現業にいるときは「人脈」というのは専ら社内で広げるものという認識を持つ者が多い。私も実際そうであったが、本社に異動になったとき、そんなものを「人脈」などと臆面もなく口にしていたことを大層恥じたものである。幸い、それからは社外に文字通りの「人脈」を広げる機会を多く得て、ファイル数冊分に及ぶ名刺のストックを見てみても、教育、出版、人材開発、人材派遣、法務、労務、広告、マーケティング、コンサル、イベント企画、商社、官公庁、住宅メーカー、不動産、医療、製薬などなど、弊社の業種に一体何の関係があるのかというものまで、多種多様な人脈を得ている。
 
 以前、ある会合で、初対面の、それも地位の高い人に、「ご無沙汰しています!」と言われ、いくら私が「?」という顔をしても、「いやぁ、本当にご無沙汰しておりまして……」と言われ続け、そのうち、この方のご尊顔を失念しているのは自分の方ではないかと不安になってきて、次第に後に引けなくなり「そうですよねぇ、あのときはこんなことがありまして……」などと口から出任せを言っているうちに、「ところで今はどちらにいらっしゃるんですか?」と訊かれ、「鶴見区の方でマネジャーをやっております」と言ったが最後、「それはそれは! 新しいお名刺を頂戴してもよろしいですか?」と言われたので差し出して初めて、「……大変申し訳ありません、とんだお人違いをしておりました」というオチに至ったことがある。適当に話を合わせてその場を乗り切ろうとしたヘタレはこの私でした。あのときは舌を噛み切って果てたかったです。
 
 逆に、年に1~2回しかお会いしないけれど、毎年お目にかかるから当然覚えてくださっていると思って愛想良く、あるいは馴れ馴れしく接していたら、急に、「ご挨拶が遅れました。私、○○○の、○○と申します」と名刺を差し出されたときの悲しみと言ったらないのである。しかもこのやり取りは毎年繰り返されるので、いい加減面倒になって、毎年会っている人に「初対面のふり」をするというとんでもなく不毛なことを恒例行事として終生継続せねばならなくなっている。そんなに私は印象の薄い人間でしょうか。
 
 こうして顧みるに、人との付き合いは「広く浅く」を旨としてきた私は、自身の存在感というものをなかなか示せていないことに、改めて気づかされるのである。それが証左に、一度、胃潰瘍を患って会社を1週間ほど休んだことがあるのだが、病が癒えて出社したとき、「ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」と述べたところ、周囲は私の1週間の欠勤を誰も知らなかったということがある。ここまで自分の存在感は薄いものかと、これには大層仰天した。この調子なら恐らく、私が横死するようなことがあっても誰にも気付かれず、あたかも世を儚んでどこかの砂漠に穴を掘ってそこに自身の体を沈め、風で砂が埋まるまでじっと待ち続け、ひっそりと永訣を図る世捨て人の如き犬死になってしまうではないかと気が気でないのである。故に、自身の人生の最終目標は、職場で突然喀血し、紅(くれない)に染まった自身の掌を見て「なんじゃこりゃー!!」と叫んだ上で事切れるという、「殉職」である。
 
 しかるに、自身がその人生を終えなんとするとき、この世に如何ほどの存在価値を残せたのかはやはり気になるところで、「いてもいなくてもよかった」というのであれば、これは全く浮かばれない話である。何としてもそこに自分が存在した証を残したい。これは誰かがそうしてくれる類のものではなく、自らが自らの存在価値を創造するしかないだろう。
 
 では如何にして自らの存在価値を創造するか。Wikipediaによると、存在価値とは「他者に対する自己の相対的優越性」とされている。何ということだ。「優越性」なんてそんな大それたなものを欲しているのではない。「あなたがいてくれてよかった」と、それだけ言ってもらえれば十分なのである。しかし、それを言ってくれるのは他者に他ならないのだから、他者との関わりの中でのみ、自分の存在価値(その言い方が大仰であるならば「存在感」でもよい)が創造されることは明らかである。随分平たい表現しかできないのが情けないが、「他者を大切にすること」、そこにこそ答を見出すべきであろう。
 
 マザー・テレサは、「愛の反対は、憎しみではなく、無関心である」と言ったという。蓋し、これは大いなる名言である。周りには確かに人がいるのに、その誰からも関心を示されず、孤独を覚えねばならぬ状況があるならば、これ以上の残酷さはあるまい。
 
 だからこそ、自身に関わる全ての人たちに関心を持ち、そしてその人たちが存在することそれ自体に感謝の念を持ちながら、自分という人間がこの世にいた意味を見出したいのだ。極めて些細なことではあるが、そんな思いで私は、例えば相手が忙殺を極める人で無視されたとしても、大きな声で挨拶をしたい。例えば人が自分のところに用向きを持ってくれば、必ず立ち上がり、その人の方を向いて対応したい。例えばしんどそうにしている人がいれば、「どうしたの? 大丈夫?」と声を掛けたい。例えば苦しんでいる人がいれば、何もできないかもしれないけれど、せめて話だけでも聞いてあげたい。例えば飲み会の誘いがあれば、なるべく断らないで、人を選ばないで参加したい。例えばメールが来れば、「承知しました」の1文であっても、必ず返信をしたい。例えば面倒くさいとぼやきながらも、毎年の年賀状は欠かさず出したい。
 
 自らが行動を起こすことでしか、自らの存在感は示せないのだ。5月の連休を前に、誰からも相手にされない孤独から身を守るべく、そんなことを考えるのであった。マザー・テレサから一気に卑近な話に落としてしまったのはご寛恕願いたい。ちなみに、家人は連休中も仕事なので、家庭の中にあっても私は孤独である。