虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第16回 それは先生

 前回、「先生への憧れ」について述べたが、現実はそう甘いものではないらしく、私が現業でマネージャーをやっていたときに働いてくれていた当時の学生バイト君たちのうち、結構な数がその後教職に就いたのだが、その約半数が既に退職した。「君たちに俺のかつての夢を託すよ」と餞を述べたのは一体何だったのかと思うが(しかし述べられた方は大変な迷惑であろうが)、聞けば理由は例外なく、モンスターペアレントの存在である。
 
 また、先頃の報道によれば、大阪府の教員採用試験の合格者の13.4%が辞退したという。府の「教育条例」の影響とも言われているが、他府県の教員に採用が決まったという53%を差し引いても、残りの47%はそれ以外の道を選んだ訳で、夢を持つことに対して否定的に映るようなことを述べながら矛盾したことを言うようで憚られるが、「夢」ってそんなものかね、と、夢破れた者は思う。
 
 そもそも、教職を志す者たちはそれぞれに「先生のあるべき姿」についての自己像を持っているのであろうか。
 
 試みに、「先生」ということばの意味を、手元の辞書を引いて調べてみた。

せんせい【先生】〔もと、相手より先に勉学した人の意〕指導者として自分が教えを受ける人。〔狭義では教育家・医師を指し、広義では芸術家や芸道の師匠なども含む〕 [運用](1)「先生と言われるほどのばかでなし」という成句があるように、必ずしも先生と呼ばれるのにふさわしくない人に対して、その自尊心をくすぐるために、また、軽い侮蔑・からかいの気持を込めて用いられることがある。例、「先生、先生とおだてられて至極ご満悦の体であった」 (2)教師が生徒に対して、一人称の代名詞として用いることもある。例、「先生のあとについて来てください」

  上記はこの世で最も語義の詳しい(と思っている)、三省堂の『新明解国語辞典』からの引用であるが、ここに「政治家」についての言及がないのが実に興味深い。同じ三省堂の『大辞林』には「師匠・教師・医師・弁護士・国会議員などを敬って呼ぶ語」との説明があるので、『新明解』の主幹の並々ならぬ意思が伝わってくる。
 
 いずれにせよ、一種の敬称であることは明らかであるので、「先生」と呼ばれる人はそれなりの人格や品格を兼ね備えなければならぬというのは論を俟たない話であろう。
 
 さて、「敬称」に関して引っかかることがある。上記の『新明解』の[運用]の(2)がそれである。こういうことまで説明が及ぶのが新明解の新明解たる所以ではあるのだが、「先生」を一人称として用いることに、私は大いなる抵抗があるのである。なぜなら、くどいが「先生」は敬称なのであり、自らが自らに敬意を持って呼ぶというのはとんでもなく尊大なことだと思うからだ。国語の歴史においても、自らに敬語を用いることが許されるのは、人間宣言以前の天皇のみである。
 
 「子どもたちに対してイニシアティブを取るためにも必要不可欠な手法」とその必要性を説く人もいる。しかし、そうしなければイニシアティブが取れないというのもおかしな話で、あるべき姿は繰り返すが人格や品格を兼ね備えることである。
 
 されど聖人でも仙人でもない人の子に全人格性を求めるのも無体な話で、所詮、「不完全な人間が不完全な人間を教え導く」ことが教育の実際である。別に頽廃的なアイロニーを述べているのではなく、だからこそ、人の気持ちに思いを致せるとか、謙虚な心と感謝の思いを持って人に接することができるとか、そういう「人間らしさ」にこそ人は魅力を感じるのであろう。少なくとも私は、完全無欠の近寄り難きサイボーグより、ちょっと間抜けなところがあるような、そんな人が好きである。
 
 森昌子の往年の名曲では、たをやめぶりの七五調の美しき調べで、こう唄われている。

 淡い初恋 消えた日は
 雨がしとしと 降っていた
 傘にかくれて 桟橋で
 ひとり見つめて 泣いていた
 幼い私が 胸こがし
 慕いつづけた ひとの名は
 先生 先生 それは先生

 そうそう、「先生」は、人に慕われてナンボなのだ。
 
 そして自身を顧みれば、若い子にちやほやされなくなって既に久しい。歳は取りたくないものだ。