虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第70回 鬼の目にも涙

 「怖い人」と言われる人がいる。何を以て怖いとするかは様々であって、近寄り難いオーラや威厳を放つ人も怖ければ、癇癪持ちでしょっちゅうキレている人も怖いし、暴れたり大声を上げたりする狂気染みた人も、常に策略を巡らせていて何を考えているか分からない人も怖いが、「怖い人」と言われて第一義的に想起されるのは、「怒ったら怖い人」ではないかと思う。少なくとも、子どもたちの9割以上はそう言うだろう。
 
 特に小学校のとき、「怖い人」の筆頭は、学校の先生であり、それだけ「先生」というのは絶対的な存在であった。私が通ったのは、1学年に2クラスしかない、岡山の田舎の小さな小学校だったが、それでもやんちゃな子はいて、それを抑えるために、「怖い先生」の存在は不可欠だった。この小学校の3年生以上では、2クラスの片方は男の先生、もう片方は女の先生が担任となるのが通例だったのに対して、私が入学した当時の6年生には、いわゆる「ヤンキー」とはまた違う、およそ小学生とは思えぬやくざ者のような児童がいたものだから、例外的に2クラスとも、核弾頭のような男の先生たちが担任に当たっていた。
 
 始業式や終業式、運動会など、学年の枠を超えて全員が集まる場では、その6年の担任の先生の上げる怪気炎は1年のちびっ子たちにも否応なく見せつけられることになり、その剣幕の凄さに、ちびっ子たちは「6年生になりたくなーい!」と泣き喚くのであった。
 
 あるとき、件の「やくざ者のような児童」が、校内で喫煙しているところを摘発された。小学生が校内で悠々と煙草を燻らせるのも物凄いことだが、核弾頭の先生はあろうことか、その児童をなぜか家庭科室に連行し、灰皿を置いて、「ワシの前で吸うてみい!」と一喝して吸わせた。そして、「煙草っちゅうのは、こうして吸うんじゃ!」と、先生も喫煙を始める。そう、教師と児童が、家庭科室で2人してもくもくと紫煙を上げているのだ。たまたまその前を通りかかった我々1年生たちは、核弾頭の先生の凄味と迫力、そしてその2人の絵図に恐れ戦き、ある者は火災報知機の如くに阿鼻叫喚し、またある者はその場で無意識のうちに失禁するのであった。
 
 こうして私は、大阪から引っ越してきて僅か1年あまりで、当地の凄まじさにすっかり圧倒されてしまったのであるが、そうこうしているうちに1年が過ぎ、卒業式の日を迎えることとなった。記憶が不正確であるが、小さな小学校だったから、在校生も皆出席することになっていたように思う。卒業証書の授与が終わり、校長の式辞、来賓の祝辞、在校生の送辞、卒業生の答辞、『蛍の光』と『仰げば尊し』の斉唱、保護者代表挨拶と続いて、いよいよフィナーレの校歌斉唱となるや、核弾頭の先生たちが、号泣を始めたのだ。その泣き方たるや、声を上げての男泣きも男泣きで、これはこれで物凄い迫力で圧倒されてしまったのだが、「鬼の目にも涙」とはこのことを言うのかと、『泣いた赤鬼』の童話よりもずっと真に迫り(尤もこの赤鬼は、もともと心優しい鬼であるから比類に値しないのだが)、5年後の自分の卒業式よりも遥かに印象に残っている。
 
 「あの先生たちは、ずっと怒ってばっかりだったから、卒業するとき、それを恨みに思う何人かが束になって、先生を襲撃に行くらしい。これを『御礼参り』と言うんだ」というようなことが都市伝説のように囁かれていたが、実際にそういうことを耳目にしなかったのは、卒業生たちも、あの男泣きに感ずるところがあったのだろう。
 
 私も、20代から30代前半にかけては、「瞬間湯沸器」だの「剃刀」だのと異名を取るというか揶揄されるというか、そういうふうに呼ばれていたことがある。特に、現業のマネージャーを任された当初は気負いもあって、部下の社員やアルバイト、パートの人たちには相当苛烈なことを言っていたと思う。その時の会議資料を読み返してみても、書いた本人が戦慄を覚えるくらいに恐ろしい文言(中でも「命を張る」ということばは数十回に亙って出てきていた)が並べられたのを見るにつけ、今更ながらに大変恥ずかしくなる。
 
 あるとき、他の店舗のベテランマネージャーが、「そんな調子で下の人に接してたら、誰も付いて来えへんようになるで」と私を諌めてきた。確かに、バイトくんたちの退職は後を絶たなかったし、「今日からもう出勤しませんので」と一方的にメールを送り付けてきた学生もいたほどだから反論の余地はないのだが、「不徹底や無責任を咎めて、何が悪いんですか」と抗弁した。するとその方は、「まあ、言うてる私も、あなたの歳の頃は同じように尖ってたもんですわ。『不惑』とはよく言ったもので、40歳を超えたら急に、腹が立たんようになりましてん。あなたもあと10年の間は、そうやってぷりぷり怒ってるのは抑えられへんやろなあ」と達観したように仰った。
 
 私は、その言葉になぜか頭を打たれ、考えを改めることにした。仕事に厳しい姿勢は変えなかったけれども、彼らや彼女たちの話にも耳を傾けるようにしたし、飲み会だのカラオケだのと、無礼講で遊ぶこともした。虚飾を捨て、時には隙も見せて、人間らしく振る舞うようにした。意識的にそう振る舞ったというより、自然な自分を出したという方が正しいかもしれない。そうすることが楽だということも覚えた。彼らや彼女たちからの人望がそれで高まったとは思わないが、異動になったときに「私も連れて行ってください」と言ってくれた子がいたのは心底嬉しかったし、自分の誕生日に、「一緒にお祝いしましょう」と、好物だったセブンイレブン白くまアイスを買ってきてくれた子には本当に癒された。
 
 最初に任された新規出店が軌道に乗り、また新たな立ち上げを仰せつかったのだが、「二匹目の泥鰌」のことばの通り、2年後、その店舗が統廃合されることになった。心を冷たく閉ざして粛々と“敗戦処理”を進め、バイトくんたちを全員集めて、努めて明るく打ち上げをやった。最後の日、片付けの終わった事務室で一人ぽつねんと座っていたら、冷たく閉ざしていたはずの心が壊れて、涙が出てきた。クローズしてしまう辛さよりも、ここでバイトくんたちとべちゃべちゃ喋っていた時間が二度とやってこないことを思い、胸が潰れそうになったのだ。一人静かに、「鬼の目にも涙」をやっていたのである。
 
 それから8年。昔よりは心も体も丸くなったと思うのだが、それでも激昂してしまうことは今でもしばしばあって、その度に人間関係にひびを入れては失敗している。反省が活かせない相変わらずの未熟者だが、その度に思い出すのは、あのとき諌めてくださった先輩マネージャーのことばである。いよいよ来月、その「40歳」を迎える。その方は既に退職されてしまったが、お会いする機会があれば、「名実ともに四十路となりましたね」と言われる自分でありたいと、切に思う。