虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第74回 「あまロス」を乗り越えて

 朝の起床のモチベーションであった、連続テレビ小説あまちゃん』が終わって、間もなく1か月が経つ。この喪失感を「あまちゃんロス症候群」、略して「あまロス」というのだそうだが、正に私は、重度のあまロスである。
 
 抱腹絶倒、クドカンワールド満開の作品であったが、クライマックスであった9月以降は、ほぼ毎朝涙しながら視聴していた。特に9月2日(月)の第133話は、涙腺が完全に決壊した。本作が避けては通れなかった、東日本大震災の発生当日が、とうとう描かれたのである。少々の落涙を大仰に「号泣」と表現することがあるのだが、今回ばかりは本当に号泣であった。
 
 中でも私が駄目だったのは次のシーンである。――トンネル内で緊急停止した北三陸鉄道(北鉄)の列車に添乗していた駅長の大吉(杉本哲太)が、安全確認のために線路に降り、トンネルの出口に向かって歩いてゆく。そしてその先に広がっていた光景に愕然とする。大吉の後を、アキ(能年玲奈)とGMT5のジョイントコンサートに行くために上京すべく列車に乗っていたユイ(橋本愛)が追ってきた。大吉は言う。「見るな……ユイちゃん、見てはだめだ」と。しかしユイは、「ごめん、もう遅い……」と、力なく呟くのだった。あまりの惨状を目の当たりにし、呆然と立ち尽くすユイと、その前で項垂れる大吉の様子をトンネル越しに映すカットがあり、そして、涙が止めどなく頬を伝う大吉の表情のアップになったとき、声を上げて泣いてしまった。震災をできるだけ生々しく描かず、観光協会ジオラマで表現したことに、各方面からさまざまな賛辞が上がっているが、私はこの、ほとんど台詞がなく表情だけで表現した杉本哲太の芝居も、本作中屈指の名演だと思うのである。
 
 ところが、この大吉の芝居が、一部でちょっとした物議を醸したのである。大吉は暗いトンネルの中を歩くとき、十八番の『ゴーストバスターズ』を口ずさむのであるが、ここに物言いがついたのだ。あの状況下で歌など歌っていられるのか、と。外野の勝手な批評なら流せるのだが、被災地の人の意見として、そういう声が上がったのだから、これはちょっと立ち止まって考えなければならないと思った。自分が落涙したのは、被災地や、そこに生きる人々に思いを馳せたからというより、表現が不適切かもしれないが、「震災という劇場」への感情移入だったのだと思い知らされたのである。
 
 18年前の、阪神・淡路大震災でも、同じような思いに苛まれたことを思い出した。関西に住む人間として、直接向き合った震災であり、以前にも綴ったように、当時のバイト先が西宮北口にあって、震災後の日々は辛い記憶が残っているばかりだが、それを乗り越えた体験を語ることが、自らの美談のように映ってはいないかと、自己撞着に陥っていた。今でもそうである。山陽新幹線が復旧した日、1番列車を見送る新神戸駅の駅長が男泣きしていた。復興支援に派遣された自衛隊の人々が引き上げる日、泣きじゃくりながら謝辞を述べる少年を、1人の自衛官が抱きしめた。震災の年に生まれた子どもたちの15年後を描いた関西電力のCM『15歳の君へ』では、「君たちがいたから、15年でここまで来られた」というメッセージが語られた。いずれもテレビの前でよよと涙しながら見たのであるが、これとて所詮、手前勝手な感傷に浸っているだけではないかと、冷静に客観視するもう一人の自分がいる。
 
 「震災を描くこと。それを見て、何事かを思うこと」についての据わりの悪い感情が、心の中で渦巻いてしまった。そんな中、10月10日(木)の読売新聞朝刊に、「『あまちゃん』を終えて」と題する小泉今日子の寄稿が載っているのが目に留まった。

 「あまちゃん」は海女ちゃんだけど、甘ちゃんでもある。ヒロインのアキは「海女になりてぇ」「東京さ行ってアイドルになりてぇ」と夢をころころ変えては大人達を振り回す。そんな時にあの震災が起こる。誰の胸にもまだあの痛みは残っている。出来上がった台本を読んで私は泣いてしまった。誰も死なせないというのが宮藤さんの選択だった。夢の箱の中にいる私達に出来ることは希望を与えることなのだと強い気持ちが湧き上がった。ヒロインは地元に帰り、一番好きな場所で自分らしく生きると決めた。

 これを読んで、沢村貞子以来の“役者の書く名文”に嘆息を漏らすとともに、何だか救われたような気持ちになって、再び落涙したのである。劇中歌『潮騒のメモリー』に、「三途の川のマーメイド」という歌詞がある。最初は何のこっちゃと思ったフレーズだが、そのうち、この「マーメイド」は、これを歌う小泉今日子、つまり主人公の母である天野春子のことであり、「三途の川」の4文字から、春子はきっと3.11で命を落とすのだろうという深読みがネット上で起こった。8月も下旬となり、“その日”が近づくにつれ、本作に感情移入してしまっている視聴者は皆、胸の苦しさが増していった。でも、「誰も死なせないというのが宮藤さんの選択だった」のである。
 
 この「選択」は、グランドフィナーレの迫る9月25日(水)の第153話で、鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)が歌った「三代前からマーメイド 親譲りのマーメイド」の歌詞へとつながってゆく。夏(宮本信子)、春子、アキの母娘三代が、そしてそれを取り巻く多くの個性的な人々が、ちゃんと最終回まで光を放っていたのである。寄稿はこう続く。

 若者達が夢を持ちにくい時代なのだと何かで読んだ。ひとりの大人として申し訳なく思う。だから最終回で、アキとユイちゃんがトンネルの向こうに見える光に向かって走り出した時、やっぱり私は泣いてしまった。夢なんかなくても、夢に破れても、何者にもなれなかったとしても、若者はのびのびと元気でいて欲しい。それだけで私達大人にとっては希望なのだから。明るい光を目指して走り出す二人は美しくて、たくましくて、眩しかった。

 脚本の宮藤官九郎は自身のサイトで、「あまちゃん133話。非常に重要な回なので煮詰まってしまった(原文ママ)」と語っている。宮藤氏自身の中でも、震災をどう描くか、あるいは描くことそのものの是非についての大きな葛藤があって、“逡巡に次ぐ逡巡”の結果、描かれたのが、この「光」であったのだろう。外様の人間は、震災の辛さや悲しみにばかり目を向けては勝手な感傷に浸るのだが、「震災後を前向きに生きる」ことに思いを致せば、心持ちも少しは変わるかもしれない。それでもやっぱり、泣きながら見ているのではあるが。
 
 奇しくも、キョンキョンの寄稿に涙した日の夕方からは、同志社大学寒梅館ハーディホールで『大友良英×あまちゃんスペシャルビッグバンド』のライブが開かれ、それに行った。大友氏のトークや劇伴制作の裏話に笑いながら、半年間聞き馴染んだ曲が次々に演奏されるのは楽しかったし、何より生演奏の迫力は圧倒的だった。パーカッションのお姉さんのあまりのカッコよさにすっかり見とれてしまい、ライブ後、地下鉄のホームで子どもが『暦の上ではディセンバー』を熱唱するのには笑ってしまった。ことばの力、音楽の力に触れたこの日は、私にとって、「あまロス」を乗り越えるための、大切な1日となった。まだ乗り越えられてはいないけれど。