虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第50回 それぞれの場所

 そろそろそのシーズンだと思っていたら、どうも最近の小学校では「学芸会」というものをやらないところが多いらしい。私の通った小学校では「学習発表会」という名前であったが、文字通りに、1年間の学習成果を保護者の前で発表する晴れ舞台であり、相当な時間をかけて準備をしていたように記憶している。ただ、現実問題、初等教育の現場において、児童の自主性を重んじた企画や運営というのは難しいのも事実であろう。
 
 現に、自身の記憶を顧みても、劇や合唱・合奏の演目は教師が決めていたし、4年のときだったか、当初は教科書に載っているものを合奏でやる予定だったのが、隣のクラスがより高度な楽曲に挑むと聞くや、担任は血相を変えてそれと同じ曲に変更すると激昂し、練習の8割はそれに割かれるというモーレツしごき教室のような様相を呈した苦い思い出もある。それでも6年のときには、「グループ毎に、何を発表するかは自分たちで決めなさい」と言われ、私たちのグループは、地元を走るローカル線の沿線風景や各駅の街並み、地域の産業などを調べ、模造紙にまとめてプレゼンするというそれらしいことをやったのだが、他は手品や漫才をやってみたり、聴くに堪えぬ流行歌を披露したりと収拾がつかず、担任をして「小学校6年間の学習の総決算がそれですか!」と嘆かしむという顚末もあった。そんなことを鑑みれば、学芸会自体が行われなくなるというのも当然と言えば当然の帰結かもしれない。
 
 しかるに昨今耳目にするのはもっと他の原因であって、その元凶は、他ならぬ「モンスターペアレント」の存在であるという。クラス全員で何かをやるとき、どうしても脚光を浴びる人とそうでない人というのが出てくる。合唱をやろうと思えば、誰がピアノの伴奏を担当するかで揉め、合奏をやるなら、なぜウチの子はトライアングルをチンチンと鳴らしているだけなのかとクレームを言われる。全く面倒な世の中である。
 
 そして最も難儀をするのが、劇らしい。劇には必ず主役が存在する。そしてその主役を巡って子どもたちの中で熾烈な争奪戦が繰り広げられ、果ては親同士のドンパチにまで発展するのだという。例えば、『赤ずきん』の劇をやるのに、我が子に赤ずきんをやらせたいという親が続出して、教師が徹夜で脚本を書き換え、結果、赤ずきんが何人も登場するという奇天烈な芝居に仕上がったというエピソードを聞いたことがある。こういう無体なことを平気で宣う親も親なら、一々馬鹿親の要求に取り合ってそれに屈する教師も教師であるが、それより何より、「赤ずきんが何人も登場する」芝居とは一体どういうものなのか、何人もの赤ずきんを食べた狼の腹は一体どういうことになっていたのか。教師たちの苦悩に思いを致すべく、また、それで当の子どもや親は如何様に満悦の表情を浮かべているのか、後学のために一度拝見したいものである。
 
 芝居を成立させるには、「一人芝居」は例外としても、主役とともに脇役だって必要なのであり、逆に言えば、脇役あってこその芝居なのである。私のような芝居ヲタクにとっては、脇役の存在こそが芝居の魅力とさえ感じられるのであり、例えば映画や大河ドラマのような作品で、一瞬しか出演しない脇役も脇役に大物俳優が当てられるのを見るのは、それ自体が豪華絢爛な、大いなる醍醐味というものであるのだ。
 
 それで思い出す話が一つある。2001年に亡くなった、劇作家の秋元松代が、エッセイ集『それぞれの場所』(早川書房)に収められた「芝居の群衆」という小品で、次のような、実に示唆に富むことを述べている。
 
 ――芝居には一言もセリフを与えられていない登場者、すなわち「群衆」と呼ばれる人たちがいる。ある芝居の稽古始めの日、約100人の出演者全員が集まった。この100人のうち、主演と重要な脇役を演じるのはほぼ10人前後で、他の90人は群衆である。その中には一言も台詞を言わない登場者もいる。その無言の登場者たちに、演出を担当する蜷川幸雄はこう言った。「自分は君たちを群衆だとは考えていない。君たちのどの一人にでも、スポットライトを当ててよく見れば、この芝居の主役たちの背負ったドラマと同じ重さのドラマを、めいめいが持っているのだ。一人ひとりの生い立ち、今までどう生きてきたか、何を喜びとし悲しみとし、明日はどうなって行くか、主役と同じ重さの生活と運命を持った人間なのだ。だから自分を群衆だなどとは考えてはいけない」と。作者である自分は、短い台詞を二つ三つ言うだけの役を書くとき、この人物はどうしても必要か、この短い台詞は是非とも言わねばならないかどうか、何回となく考える。いわんや無言の登場者をどうしても出さなければならない時は、何日も何週間も、決めかねて堂々巡りをする。本心では、群衆の一人ひとりに長いセリフを書きたいと思う。その思いを突き詰めていったものが、主役という人物に結晶するのだ。2か月の公演が終わり、千秋楽の打ち上げの場で、蜷川氏は「一言もセリフのなかった人々に拍手をしよう」と言い、盛んな拍手がしばらく鳴りやまなかった。そして、それが当然なほど、彼らは立派な群衆を演じていた。
 
 一般にスパルタ演出家として知られる蜷川氏の別の一面を知ることができる貴重な話だと思うが、それ以上に、劇作家や演出家たちの持つ、出演者一人ひとりへの想いや眼差しというものに触れることができて感動したし、人間たるもの誰しも、どんな役回りであっても、そこにいる意味や価値があるのだということを知ることのできる、良いエピソードだと思った。この話を聞いて、件(くだん)のモンペたちは、何を思うであろうか。
 
 世の中でトップに立つ人たちは、天賦の才に恵まれ、それでいて並々ならぬ努力を重ねてその地位を手にした一廉(ひとかど)の人である。そうした人たちが脚光を浴びるのに吝かな気持ちはないが、真の意味で「一廉の人」と呼ばれる人たちは、自分を思い、支えてくれる人たちの存在を決して忘れない。2011年のFIFA女子ワールドカップにおいて、アジア勢の代表チームとして初優勝した「なでしこジャパン」のメンバーたちが、東日本大震災の被災者たちに復興へ向けての夢と希望を与えたいという想いで戦い、優勝を勝ち取った話はあまりに有名である。自分もまた、自らを取り巻く一人ひとりの人たちの存在に思いを致せる人間でありたいし、自分は後世に残る何事かを成し遂げられるような大層な人間でないけれども、それでも、自分の存在意義や価値というものを自ら見出して、自分なりの輝きを静かに放ちながら生きていきたいと思うのである。