虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第89回 つばさよつばさ

 先日、購読しているANAメールマガジンから「需要喚起2」と題し、本文には「sample2」とだけ記されたメールが届いて、少々吃驚した。ANAに搭乗したのはこれまでの人生の中で僅か4回、しかも出張など必要に迫られて乗っただけである。マイレージも、出張時のチケット手配が楽だからと総務部に勧められてカードを作っただけでほとんど貯まっていない。もともと飛行機に乗るなら基本的には鶴のマークを選んでいたが、別にANAが嫌という訳ではなく、マイレージカードはJALしか持っていなかったからというだけのことで、JALの搭乗回数だって知れているのである。そもそも飛行機というものが苦手であったから、時間や距離の関係で、それしか選択肢がないという場合にしぶしぶ乗っているといった具合である。
 
 大体、あんなドでかい金属の固まりが宙に浮くなんて、如何なる科学的説明を施されたところでどうしても納得ができない。それに、飛行機というのは乗っている間が狂おしいまでに退屈である。本でも読めばよいではないかという意見もあろうが、私は、乗り物の中で本を読むということができない。読書というのは、自宅の自室に籠り、誰の邪魔や干渉も受けることのない静謐の中で営まれるべき文化的行為だから、パブリックな空間の中で本を開くなど埒外なのである。窓外に目を遣れば、衛星写真を見るような体験ができると言う人もいるが、それは、雲一つない晴天の下、しかも地形の変化を見て取れる場合に限った話である。曇天であれば眼下に広がるのは雲ばかりであるし、例えば太平洋を横断する国際線で、どこまでも続く変哲のない、“海しかない海”を見続けるなど、精神衛生的にもよくないに決まっている。一度、グアムに行ったことがあるが、関西空港から3時間半、ただ海を見ているだけというのは地獄であった。「グアムは近い」などと言う者の気が知れない。ましてや帰路は、ひたすら漆黒の闇の中のクルージングである。機内のモニターに表示される現在位置を表示する地図をずっと凝視していて、いつまでも見えぬ日本列島を思い、頭がどうかなりそうだった。
 
 私の飛行機忌避はそんな次第であるから、「需要喚起」なんて、唐突かつ一方的に言われても困るのである。おそらく相手もそれを見透かし、「そうは言ってもたまには飛行機にも乗ってくれよ」という意思表示なのだろう。しかし、そんなことで私の内なる潜在需要が喚起されることを期待するなんて、甘いのだ。尤もその日中に、誤配信でしたごめんなさいとお詫びメールが来たのではあるが。
 
 さて、私が初めて飛行機というものに乗ったのは大分遅くて、大学3回生の時である。母方の祖父が、一族郎党で北海道旅行をしようと言い出し、総勢12名で徒党を組んでの旅行を行うことになった。皆は広島空港からの出発だったのだが、私はアルバイトのシフトの調整ができず、単身、大阪から出発し、羽田で合流せよとのことであった。飛行機に乗ることに怯える私は、この旅行自体に乗り気ではなかったのだが、自分だけ不参加というのも角が立つと思い、参加はするがせめて羽田までは新幹線とモノレールで向かいたいと申し出た。ところが頑固者の祖父は、「新幹線は時間がかかる」「新幹線は途中で何があるかわからんから、伊丹から飛行機に乗れ」と言う。それに対し私は、「ウチは新大阪駅の近所やねんで。ちんたら空港まで行って飛行機乗って、離陸する頃には、新幹線は既に名古屋を過ぎとる」「大体、飛行機の方がよっぽど何があるかわからんわ」と抗弁したが、頑固者は聞く耳を持たず、「頼むからおじいちゃんの言うことを聞いてくれ」という関係各方面からの懇願哀願に折れる形で、恐怖に慄きながら単身、大阪空港へと向かった。
 
 搭乗便は、8時台発のJAL。機内はビジネス客などで満員である。叔父が手配してくれたチケットに示された席が、窓から離れたど真ん中だったのは、多少なりとも恐怖を和らげようという配慮だったのかもしれないが、そんなことで「金属の固まりが宙に浮く」恐怖など拭えるはずもない。ボーディング・ブリッジが外れ、機体がゆっくりと動き出す。しかし、離陸機が輻輳しているらしく、なかなか滑走路に出ない。15分くらい経った頃、漸く、「皆さま、この飛行機は間もなく離陸いたします。お座席のシートベルトを、もう一度お確かめください」のアナウンスが流れた。滑走路に出て、機体は一旦停止する。Tシャツにジーパンという軽装にも関わらず、私の体からは止め処もなく汗が流れ落ちる。拳を握り締め、目をぎゅっと瞑る。徐々に高まる轟音が聞こえてきた。胸の鼓動が高まり、口から心臓を嘔吐しそうである。それまでの亀の行進が嘘のように、急激に加速を始めた。全身で慣性の法則を体感し、背凭れに自分の体躯が食い込んでしまうのではと震える。そして遂に、機体は地面から離れた。内臓が一気に浮き上がる感覚に、殆ど失神同然となり、そのまま眠りこけて、我に返ったのは、羽田に着陸するときの衝撃によってであった。この間約1時間だが、私には永遠に感ぜられた。ロビーで待ち構える一族郎党どもは、憔悴し切った私の顔を失笑しながら迎えてくれたが、それに反応する余裕もなく、暫くは茫然自失となっていた。
 
 後に、大学の卒業旅行で再び北海道へ行くことになり、留年が決定していたにも関わらず半ば強引に参加した。今度もやはり飛行機である。これまたアルバイトの関係で、私は1日遅れの出発となったが、当時完成したばかりの関西空港から搭乗したJAL便の座席はいわゆる“お見合い席”。離着陸時は美しいCAとの会話に花を咲かせ、「飛行機って最高!」などと平気で掌を返す豹変振りであった。因みに先発隊は、大阪発の便が取れず、大阪発の夜行急行「だいせん」で米子まで行き、そこからANK(エアー・ニッポン、現在はANAが吸収)の始発便で千歳へ向かうというとんでもないルートを大学生協に斡旋された。北の大地へ飛び立つ者が、なぜか真逆を向いて前夜から出発し、頼りないプロペラ機に詰め込まれて遥々向かったのとはあまりに好対照、JAL便を羨んだそのときの参加メンバーから翌年に届いた年賀状には、「打倒ANKを決意した昨年でした」と記してあった。別にANKには何の落ち度もないのに。それより本当のところは、「だいせん」で逆を向いて出立した仲間たちが羨ましかった。やっぱり私は陸上の旅が好きなのだろう。その「だいせん」も廃止になって久しい。
 
 死ぬまでにもう一度、北海道へと旅したい。それも、「トワイライト・エクスプレス」の展望スイートに乗って、列車の中から大地と海と空を一時に眺めつつの豊饒の時間を過ごしながら、“移動そのものを楽しむ旅”をしたいと願っていたのだが、その「トワイライト」も来春、遂に姿を消すことになってしまった。そうでなくてもプラチナチケットと言われる列車であるから、これから先のお別れ乗車は、きっと叶うまい。北海道新幹線が開通したら、東北本線の「北斗星」なども同じ末路を辿るであろうと今から囁かれている。つばさを広げて空を翔ける旅にも馴れてはきたが、それでも陸上派の私は、“移動そのものを楽しむ旅”の機会を奪わないでほしいと思う。