虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第97回 「ございます」の美学

 先日、料理研究家岸朝子氏が、91歳で死去した。氏の名を広く知らしめたのは、申すまでもなく、テレビ番組『料理の鉄人』であった。番組が終了して既に16年が経過するので、そんな番組があったことを知らないという若い人も多いだろうが、それでも逝去に際しての報道で、初代の鉄人3人からのコメントが寄せられるあたりに、今でも、この番組での姿こそが氏の印象として人々の記憶に刻まれていることが伺える。中でも、「おいしゅうございました」は、氏の人となりを表す決め台詞として夙に知られる。
 
 そんなことを考えながら、「ございます」とは何と美しい表現であろうかと、今更ながらに思うのである。英語では何であってもbe動詞で済まされるのだが、日本語は「だ」「です」「でございます」と、丁重さの段階に応じて助動詞にさえ使い分けがなされる。これが、外国人が日本語を学習するときに難儀する点の一つであるという話も聞いたことがあるが、「言霊」という語を引き合いに出すまでもなく、日本語は、語感の微妙なニュアンスや、話者の心の機微が相手にどう伝わるかを大切にする、優れた言語だと思うのだ。
 
 飛行機の機内アナウンスは「~ございます」調が基本である。あれを聴くだけで、普通席に乗っていてもラグジュアリーな気持ちに浸れるのだから、言霊のパワーは大したものだと実感する。ところが過日、沖縄に行ったときのこと。伊丹から搭乗したJALのCAは、事もあろうに「この飛行機は、日本航空2081便、沖縄・那覇空港行きです」「この便の機長は△△、私は客室を担当いたします○○です」と、2度までも「~です」とアナウンスしたのである。他の乗客の誰も、そんなことには反応しないが、私は酷く落胆し、そして狼狽した。あるべきものが突然失われたときの不安や動揺にも似た感情に苛まれながら、2時間のフライトを耐え忍んだのだが、帰路のCAは「~ございます」と言ってくれたので胸を撫ぜ下ろした。
 
 ここまで来ると、私にとって「ございます」は、最早発作時の頓服のようなものであるが、「こういうシチュエーションなら『ございます』と言うだろう」とか、「この人なら当然『ございます』と言ってくれるはずだ」といった期待があって、それが期待どおりであれば安心するし、そうでなければ座りの悪い心持ちに駆られるのである。そして昨今、この「期待」を裏切るシーンが、静かに増えつつあるような気がする。
 
 例えば、かつてはどの百貨店にもいたエレベーターガール。「上へ参ります」と言いながら腕を直角に挙げる所作は実に美しく、「3階、婦人服のフロアでございます」など案内するそのエレガントな姿に、憧憬を覚え、「エレベーターガールごっこ」に興じた子どもは少なくあるまい。美しい所作に、「ございます」の上品な発声。それは百貨店の華であり、ステータスでもあったはずである。しかし、いつしかほとんどの百貨店からその姿を消し、機械的な自動音声が「3階です」と無機質に語るのみである。
 
 電話応対も、昔は、一般家庭でさえ「ございます」が主流だったように記憶する。小学校の頃、友達の家に電話を掛けたら、出たのが男の子であっても「はい、○○でございます」と言う家庭が多かった。そのように躾けられていたのだろうし、そのように電話を出るような家庭の子は、どんなにやんちゃくれであっても、やっぱり“ええとこの子”と映ったものである。携帯電話の普及に伴って、固定電話を持たない家庭が増えつつあることが背景にあるのか、はたまたセールス電話への防御であるのか、「○○でございます」が消えるどころか、自らを名乗ることすらなく、「はい」や「もしもし」が跋扈している。
 
 なぜ「ございます」がこうして廃れていったのだろうか。慇懃が過ぎるという意見もあるだろうし、回りくどいとかまどろっこしいという考え方もあるだろう。前述したように、「上品さ」ということと不可分の表現であるから、逆にそれが鼻持ちならぬと感じる向きがあるのかもしれない。一般家庭はさて措き、企業人としての物言いとなるとブランドイメージに関わる部分もあるから、意図して「ございます」から「です」への転換を図っていることも考えられる。しかし、そうであるなら、「ございます」にも、「上品さを醸し出す」ということ以上の意図があると考えても、おかしくないのではないだろうか。
 
 関東はどうなのか知らないが、かつての関西の私鉄のアナウンスの文末は、軒並み「~でございます」だった。大阪市営地下鉄でも同様で、「毎度ご乗車ありがとうございます。この列車は、なんば・天王寺方面、あびこ行きでございます。次は、淀屋橋淀屋橋、市役所前。京阪線は、お乗り換えでございます」とか、「中津、中津、この列車は、ここまででございます。新大阪・千里中央方面へお越しの方は、次の列車をお待ち願います」といったアナウンスは、今でも諳んじて覚えている。しかし、1992年に英語のアナウンスが追加された際に、「~です」に変更され、その後、私鉄各社も追従するかのように、「~です」に転換してゆく。
 
 天下の台所たる大阪では古来、商売人は、いわゆる大阪弁とは一線を画す「船場言葉」を用いてきた。Wikipediaにはその説明に、「できる限り丁寧な表現を用いるように努め、一般の大阪市民が多用した『おます』や『だす』よりも、『ござります』や『ごわす・ごあす』を多用した」とある。船場言葉自体は廃れてしまったけれども、「~ございます」のアナウンスは、お客を大切にし、懇篤にもてなさんとする商売人の精神が、今なお息づいていることの表れなのかもしれない――何の根拠もない想像ではあるが、そう思う。
 
 聞けばやはり、「語尾が不明瞭である」「放送がくどくて煩い」などの乗客の声に応えての変更だったそうである。時代の流れと言えばそれまでであろうが、「ございます」に込められた商売人の精神がお客に受け入れられなくなったというのは、何とも皮肉な話ではあるまいか。
 
 勤務先には明確な電話応対のマニュアルがある訳ではなく、社員によって「です」派と「ございます」派に分かれているが、私は船場の商売人の精神を勝手に受け継ぎ、今日も「ございます」を墨守するのである。