虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第88回 私の頭の中の消しゴム

 先日、来春入社予定の新卒内定者たちを前に、30分ほど話をする機会があった。弊社の魅力とか、新卒に期待することとか、そういうことを話せばよかったのだろうし、もとよりその予定だったのだが、“まくら”のつもりの、入社からこれまでの自分の歩みを語るだけで時間が来てしまい、本題にまで行き着けなかった。人事部のメンバーが苦笑しているように見えたけれども、喋っている当人こそが最も情けなく思っている。
 
 ただ、こういうことは、私にとっては極めて日常茶飯事である。あること(A)を話していているうちに、付随する話題(B)が思い浮かび、そっちへ話が及ぶ。そのうち、今度はBから派生する別の話題(C)を喋ってしまう。かくして話はD、E、F、G……とどんどん脱線し、終いにはZまで飛んでしまって、畢竟、最初のAが何であったか思い出せなくなる。喩えて言うならば、「りんご、ゴリラ、ラッパ、パンツ、ツーショット、床上手、図々しい、犬畜生、姥捨山マゾヒズム村八分、無骨者、伸るか反るか、海難審判」……あっ、終わってしまった。そう、つまらないしりとりをやってみたのだが、最初の「りんご」と、最後の「海難審判」だけをつないでみても、脈絡など見出せるはずもなく、ここまで来ると最早脱線どころではなく転覆である。私の話の脱線転覆ぶりは、まあこんな感じなのである。
 
 ここまで度を超した自分の話の無軌道ぶりに、これは一種の病気なのではあるまいかと思って、あれこれ医学関係の記事を漁ってみるも、当てはまる症状が見つからない。かかる拙文をご覧いただいた全国の医療関係者の皆さま、症例と治療法がございましたら何卒ご教示くださいませ。
 
 喋りに関する悩みはもう一つある。一度語ったことのある内容を、初めて喋るかのように再び話してしまうことである。「かのように」と記したが、当人は無論初めてのつもりである。家人などは都度、「前も聞いたし」「何回言うねん」「ヤバいんちゃうか」「ええ加減にしてくれ」とキレ気味に指摘してくれるのでそれと気付くのであるが、大概の心優しき人たちは、腹の中では家人同様のことを思っているにも関わらず、ニコニコしながら他愛もない繰り言を聴いてくれているのだ。それを思うと喋っている本人が居た堪れなくなる。
 
 昔々のことだが、大学の友人に誘われて、合コンに行ったときの話である。大学の近くで呑んでいた折、彼が、少し前に『ナースとのコンパ』に参加して大変よかったと言うものだから、「再度設定の上、今回はオイラも呼べ」とオファーして、実現に至った。当日、気合いを入れて行ってみると、ところがどうも様子が違う。よくよく聞いてみると、『ナースとそのお友達とのコンパ』だったのだ。しかも、どちらさまも年上のお姉さまばかりで萎縮してしまったのだが、それでも何とか場を盛り上げようと、トークに精を出す。
 
 そうこうしているうちに、一人のお姉さまがぽそっと言葉を発せられた。曰く、「○○さん(=私の名前)って、喋りは確かに上手いけど、中身がないですよね」。
 
 ……。
 
 打ち拉がれる本人をよそに、メンバーの男子が「じゃ、一人4,000円で!」と高らかに発声し、あっけなく閉宴となった。その後、野郎だけで、ラーメン屋にて口直し兼反省会を行ったのだが、そこで彼は「割り勘にせずにはおれぬほど酷いコンパであった」といきり立った。しかし私の頭の中では、「喋りは確かに上手いけど、中身がない」のフレーズが、祇園精舎の鐘の声の如くにいつまでも鳴り響いていたのであった。
 
 さて、四十路を超えた自分は、健忘症の度を深めているのではないか、はたまた若年性認知症を発しているのではないかと、不安と焦燥に駆られる日々であるが、若き日の合コンの一件を思い出すにつけ、きっと、大したことを喋っていないから自分自身の印象にすら残らず、話が脱線転覆したり、あるいは同じ話を何度もしたりするのだろうなあという納得と諦念が、我が心中に広がるのである。
 
 明日は会社の研修で、80分一本勝負の喋りを行う。喋ること自体は全く苦ではないし、それが仕事なのだけれども、怖いのは、“毎年やっている”研修であることだ。パワーポイントは昨年の焼き直しに甘んじることなく新作したが、喋りの方も、きちんと新しいことが話せるか、些か心配である。「去年と同じことをまた言うてる」とならないよう、そして、「中身のある話」ができるように努めたい。またどうせ、脱線転覆するのだろうけれども。