虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第87回 引越顛末記(二)

 大阪港(やはり「天保山」と言わねば通じないが、めげずに第一声は「大阪港」で通している)での新生活も、驚くほどあっという間に1週間が経った。漸く諸々が落ち着いたところであるが、引っ越しって、肉体にも精神にも財布にも、こんなにきついものやったんかいなと、大概疲れ果てている。
 
 引っ越し代を少しでも安く上げようと、レンタカーを借りて、細かい物品は自分たちで運んだのだが、三国と大阪港の間を3往復もするのに、淀川左岸線が開通して画期的に速くなったからと阪神高速を使ったものだからその料金が嵩み、あまり意味がなかった。北浜にある営業所に車を戻せたのが23時。それから地下鉄で新居に帰り、何とか寝床だけでも確保しようと最低限の片付けをして、眠りにつけたのは、夜も明けなんとする4時半であった。家人共々、辛うじて確保した休日1日で全部をやってのけようとしたのがそもそも無体な話だったのかもしれないが、翌朝は2人とも通常出勤であり、日中の睡魔との闘いはこの上ない苦行であった。
 
 以降、仕事から帰ってきて少しずつ荷解きをしたので、段ボールの全てが片付いたのは4日目。それまでの間、家での食事は全部立ち食いである。最後は流石に、外へ食べに行こうと出かけたのだが、周囲はどこを見ても海遊館等のレジャー客ばかり。引っ越し疲れの負のオーラを放つ者など当然おらず、明らかに浮いている。最近はマンションも増えてきたらしいが、まだまだ生活臭の漂わぬ街である。
 
 前の住まいでの生活を始めるときに買い揃えた家電の多くを手放さねばならなかったのも堪(こた)えた。新居はエアコン備え付けの物件なので、自前の3台は全てが不要になった。冷蔵庫はサイズが大きくて入らず、買い替えを要する。オール電化マンションなので、ガスコンロも不要。結局、そのまま持っていけた大型家電は洗濯機のみである。いずれも購入からまだ4年くらいなので、多少なりとも売れればよいと思ってリサイクル業者を呼んだら、「買取の値が付くのは3年まで」とのこと。“減価償却”もできていないのに、売れるどころか、処分の費用に11万円取られたのには卒倒しそうになった。もしやこれはぼったくりではないかという怪訝は今も拭えていないが、他を当たる時間的余裕は既になく、泣く泣く大枚を叩くことになったのは痛恨の極み、当面引っ越しなどすまいと固く決意した次第である。
 
 そんな感じでぼやいてばかりの1週間であったが、何にも増して辛かったのが、慣れ親しんだ街との別れである。この数日は、早くも前の住まいである三国を思い、夫婦ともにホームシックに罹っている。改めて、あの街はお気に入りだったのだと実感する。
 
 最後の3日間ほどは、「お別れ行脚」と銘打って、いろんな店を回っていた。常連を目指した居酒屋、皆まで言わずともツボを外さない整骨院、アイコンタクトだけで電子マネー決済してくれるドラッグストア、食べ物の好みを完全に覚えられたコンビニ等々。一軒ずつ巡って、「引っ越すんで、今日で最後なんですよ」と挨拶したかったのだが、勝手に感傷に浸って胸が一杯になり、どの店でも、何も言わず普段どおりに辞去してしまった。
 
 私が勝手に「三国三大小町」と呼んでいた人たちとのお別れも叶わなかった。某整骨院の受付のFさん、某スーパーのレジのYさん、某薬局の薬剤師のSさんの3人である。絶世の美女という訳でもない……と言っては失礼なのだが、笑顔に何とも言えぬ愛嬌があって、癒され続けた4年間であった。特に、Yさんが、釣り銭とレシートを返す時に上目遣いでこちらを凝視してくるのは、仕事帰りの疲れ果てた男には堪らなかったのである。でも、Fさんは、こちらが引っ越すより前に退職していたようだし、YさんやSさんは勤務のシフトが合わなかったようで、ご尊顔を拝することなく、彼の地を離れることになってしまった。
 
 いずれにしても、三国というところは、余所者を排他することをせず、付かず離れずの距離感で包み込んでくれる、何ともゆるく、そして懐の広い街なのだった。暮らしたのはたった4年だけれども、10年も20年も住み続けたかのような錯誤を覚える、そんな街なのである。だから、今回ほど引っ越しを辛く、淋しいと思ったことがないのだ。
 
 明確な故郷を持たない私は、一度も暮らしたことのない岡山県の山奥に長年置いていた本籍地を、結婚を機に、大阪市淀川区に移したのだが、今、これをどうしようかと考えあぐねている。いっそのこと、「大阪府大阪市中央区大阪城1番1号」、つまり大阪城天守閣にでも置こうかとも思ったが、本籍なんて今や運転免許証にも表示されず、形骸化の最たるものであるから、ならば三国の地にいつまでも思いを馳せ、叶うことならいつかまた戻ってきたいという願いを込めて、そのまま置いておこうという結論に達した。
 
 そういうふうに考えれば、新しい街でも安心して暮らせそうである。「有史より大阪という街は、港から生まれ、港に育まれ、港から糧を得た」とは、いわゆる“大大阪時代”の発展を支えた当時の大阪市長・關一の言葉であるが、我々もまた、港に育んでもらいながら、これからこの地で、分相応の生活を営んでゆきたいと思う。