虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第58回 だれにもいわない

 今日は4月1日、エイプリルフールである。例えば「長嶋・松井両氏に国民栄誉賞」という記事を見ても、これもまた嘘ではないかと訝ってしまうのだから、どうもよろしくない。
 
 昔、ある友人のもとに元カノがやってきて、抱いている子どもを指して「あなたの子どもなの」「認知して」「養育費を払って」と迫られる事件があった。彼は当然周章狼狽したのであるが、落ち着いて考えれば諸々の計算が合わないのであり、直ちにそれが嘘と理解するに至った。この件が悪質なのは、元カノがやってきたのが4月1日でなかった、つまり本当に彼から金を騙し取ろうとしたということだ。
 
 さて、mixiFacebookTwitterといったSNSでは今日1日、実にさまざまなネタが開陳されていて一々感心する。また、『虚構新聞』という、年中エイプリルフールをやっているサイトも存在する。「社主」を名乗る滋賀県の塾講師の方が「ありそうで、実はない」ネタを新聞記事風に掲載しているのだが、時々、それを真に受けた者たちから拡散されて大騒ぎになったり、「虚構」だったはずが後に現実化してしまって社主が「謝罪」したりと、何かと話題になっている。それだけ「リアルっぽさ」のレベルが高いということだろうし、そういうネタを枯渇させずに配信し続けられるのは厭味でも何でもなく、凄い才能だと思う。
 
 翻って私は、以前にも記したように創作の能力が皆無なのでこんな駄文を垂れ流しているのだが、その根底にあるのは「嘘を上手につけない」という、性分と言ってよいのか、はたまたスキルの問題であるのかよく分からないが、とにかく嘘をつくことがびっくりするほどに下手なのである。何を言っても見え透いていたり、すぐに裏を取られたりするような安直な嘘しかつけないし、自分でも笑ってしまうくらい、話しているうちにいとも容易く表情に出てしまうものだから、基本は、何でも正直に言うか、隠し通すかのどちらかである。なのでエイプリルフールだからといって、大したネタが思い浮かぶはずもない。
 
 おかげで、それを以て「表裏のない人間」と人様からは見られるようで、それがために、「ここだけの話」を方々から聞かされる。ただ、そのことさえも周知の事実であるから、皆は私がマル秘情報をいろいろと持っていると思い込み、根掘り葉掘り“特ダネ”を詮索してくる。「知らんもんは知らん」と、それが本当であれば言えるのだが、「(知っているけれど)知らん」と返すのはなかなかに至難の業である。これは何とかならぬものであろうか。
 
 その唯一の解決策は、「ここだけの話」を私にしないでいただくことに尽きる。聞きたくない話、聞かなければよかったという話も少なからずある。ただ、期せずしてとは言え、秘密の共有を強いられてしまったからには、こちらは何としてもそれを黙っておく必要、いや、義務がある。「言うな」と言われたことは誰にも言わないのが理の当然だと思うのだが、しかし現実には、必ずしもそうではないものである。
 
 趣味の悪いこととは承知しつつ、口の軽い奴、いわゆる「しゃべり」を懲らしめる意味で、ある実験を試みたことがある。私の知人のAさんが、仕事帰りに駅前のコンビニに立ち寄り、成人向け雑誌を立ち読みしていた。それはもう、食い入るように読んでいたのであるが、その最中に、背後から肩をポンポンと叩いてくる奴がいる。「何やねん」と思いながら振り返ってみると、そこには塾から帰宅中の中学生の息子が立っていた。慌てふためいたAさんは、咄嗟に財布から漱石1枚を取り出し、「お母さんには黙っとけよ」と言ってそれを握らせた――この話を、口の軽さでは右に出る者がいないと呼び声の高いBさんに聞かせ、1週間後にどれくらい拡散しているかを試してみたのである。1週間経って調査してみると、本当に「皆が皆」知っていたのだ。この流布力には心底感服し、懲らしめるはずの目的などどこかへ吹っ飛んでしまった。
 
 これはまあ、他愛もないネタで、Aさん自身も加担しての実験であるから笑い話で済むのだが、本当に言われては困るのっぴきならぬ秘匿情報が喋られることもある。ならば最初から言わねばよいのだが、そうもゆかぬ場合だってあるのだ。私も実際、「本件はくれぐれも他言無用に願います」と念を押したのに、1時間も経たぬうちに「○○さんには言ってもいいですか?」とメールが来て、椅子から転げ落ちそうになった経験があるのだが、大の大人に「他言無用」の意味を教えてやるというのも野暮な話というものであろう。
 
 このように、「誰にも言うたらあかんで」「絶対言わんといてな」と懇願の上、人に語った秘め事が、気がつけばそこら中に広まっているというのは、一体、どうしたものであろうか。
 
 この命題を長きに亙って考え続けてきたが、最近、漸く一つの考察がまとまってきた。すなわち、「この人には言うてもええやろ」と思って誰かに「誰にも言うたらあかんで」と言って伝えてしまう。そしてその人も同様にしてまた誰かに伝えてしまう。こうして秘め事は瞬く間に隅々にまで伝播され、畢竟、秘め事でなくなる訳である。「誰にも言うたらあかん」と言っているにも関わらず、その人によって限定解除がなされるこの不条理は、しかし裏を返せばどうやら「信頼」という名の下に「誰にも」の例外が作られるのであって、そこには悪気などあろうはずもなく、口外したことを糾弾に及んだところで、「彼(彼女)なら大丈夫と思った」という、当人にとっては詭弁でも何でもない立派な釈明が極めて正当性を以て為されるのである。そら負けるわ。
 
 今では「ネット」という恐るべき拡散兵器が普及しているものだから、最早地球上のどこにも秘密だのプライバシーだのといったものは存在しないと考えるのが妥当なのかもしれない。学校でのいじめとか会社での不正だとか、そんなものは名前も顔も知らぬ何者かによって、忽ちに全世界に広められるのである。転校や転職でほとぼりを冷まそうなどと無駄なことはゆめゆめ考えてはならない。いつまでもどこまでもその汚名はついて回るのである。と考えるならば、かかる短慮はあまりにもハイリスクノーリターンなのであって、例えば「ネット社会において、いじめなどというのは、相手を傷つける犯罪行為であるとともに、自分の首を一生かけて自分で絞め続けるリスキーな所業である」と、その恐ろしさを十二分に教育せねばなるまい。
 
 話が逸れてしまったが、しかしこれは本質であって、「誰にも言うな」と言われたことを軽々しく口走ってしまうことのリスクは、こうした「ネットという拡散兵器の恐ろしさ」から容易に類推できよう。そのリスクとは、他ならぬ「信頼の失墜」である。「信頼」という大義を以て口外したことで、自らの「信頼」を貶める、蓋しこれは大いなる自家撞着ではあるまいか。私とてどこのSNSで批判やお叱り、あるいは罵詈讒謗の類を受けているとも分からない。「口は災いのもと」とはよく言ったもの、この箴言を深く肝銘して、自分の名誉は自分で守ってゆきたいものである。