虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第60回 愛の鞭(一)

 最近、ニュースを賑わせているのは、USJでの大学生たちの迷惑行為である。ネットって怖いよなあと思うのは、例えば、その大学名を検索するだけで、この狼藉者の名前が候補に表示されるし、それをクリックすれば、当人はおろかその彼女の氏名や経歴や顔写真までもがボロボロとヒットすることである。かつて『ウィークエンダー』という番組で、桂朝丸が「こいつですわー! 悪いやっちゃでぇー!」と絶叫していたそのフリップでさえ、目には黒線が引かれて一応の配慮があったのを回顧するに、身も蓋もないとは正にこのことだ。「人の噂も七十五日」とは言うけれども、こんなに瞬時にその悪名が全世界に拡散することを考えれば、75日なんて懲役20年に匹敵する苦しさだろうし、そうやすやすと悪いことはできぬししてはならぬと、よからぬことを考える者は戒めねばならないと思うのである。
 
 昔、作家の鷺沢萠が、「人間には、男女に加えて『オバハン』という第三の性があると言われるけれど、これに加えて『大学生』という第四の性を提案したい」と綴ったエッセイを読んだ記憶がある。この人とは大学リタイアの経歴が一致するというその一点だけで勝手に親近感を覚え、著作も大概読破したくらいであるから、この提案にも大いに賛同をした。阪急神戸線や千里線といった、学生街を串刺しにするような路線に乗ると、学生どもの傍若無人な大声での談笑に苛まれるのが堪らなく苦痛なのであり、大した内容を喋っている訳でもないのに何がそんなに可笑しいのかと、ぶつける訳にはゆかない憤怒が心の中に沸き起こるのである。ましてやこの「事件」の首謀者たちは、神大同志社大といったところに進学していながら、一体何を思ってそんなアホな所業をやっているのだろうか。
 
 尤も、これは所詮、学歴に傷を持つ者の僻みなのであり、鷺沢氏も件のエッセイで同様のことを記していたから、「同病相哀れむ」といったところであろうか。その氏が自らの命を絶ってから、この4月で早や9年の歳月が過ぎた。大学生のアホな事件を見聞きする度にそのエッセイを思い出していたから、「もう、9年なのか」という驚きにも似た感慨に、今更ながらに耽るばかりである。
 
 さて、例の大学生たちのアホぶりについて、しかし、大学生たちを嫌悪するようなことを言っていながら矛盾するようで恐縮だが、この手の「事件」がある度にどうしても引っ掛かるのが、大学生を一括りにアホ呼ばわりするような論調である。特に今回の場合は、神大なり同志社大なり関西外大なり、個人というより大学そのものが槍玉にあがっているような気がする。例えば神大の学生が全員アホではないのは言うまでもないし、個人の愚行で大学が公式に頭を下げなければならないのもどうかと思うのだが、天下の名門大だからこそ指弾が強まるというのはきっとあるのだろうし、マスコミがそう煽っている部分も多分にあるはずである。また、それが世論という側面だってあるだろう。けれども、である。
 
 数年前まで、勤務先で、新卒の採用や育成を管掌していたことがある。ちょうどその頃、新卒採用活動は売り手市場であったから、まずは企業としてのステイタスを高め、優秀な学生たちに如何に振り向いてもらえるかに腐心したし、複数社の内定を手にした学生が他へ逃げない施策にも力を注いだ。結果、内定者の歩留まり率を倍増させることに成功はしたが、もともと学生たちを「社会を知らぬ未熟者」として見下していた私は、相手が売り手だからと言って育成の手を緩めることはせず、「学生気分からの脱皮」をテーマに、のっけから結構重たいプログラムを組んだ。服装や態度に始まり、言葉遣いやメールの書き方に至るまで、上げ膳据え膳で指導したのも実際のところである。しかし早晩、自分が「大学生に対する色眼鏡」で彼らや彼女たちを見、その色眼鏡を前提に研修をやることは間違いであると気付くに至った。最も感心したのは、ほとんどの学生が、何度志望動機を尋ねても一切ぶれなかったことである。思った以上に、学生さんたちは真面目で、誠実で、実直だったのである。勿論、選考の過程でそういう人材を選んだのだろうから当然と言えば当然なのだろう。また、大学でも、それが本道であるかどうかはさて措き、「学問を究める」ことよりも、いわゆる「実学」の部分であったり、就活対策であったり、そういう教育に力を入れ、またそれは学生たちの切実なニーズに応えるものであるから、学生たちも真剣に取り組むのは宜なる話である。
 
 そう考えれば、かかる狼藉者はあくまでレアケースなのかもしれないし、「大学生総アホ説」も全くナンセンスな暴論ということになるが、だからと言って大人になる覚悟のできていない害悪たる者たちを社会に放逐してよい訳はない。学生だろうが浪人だろうが会社員だろうがプータローだろうが、自分のやったことは自分できちんと落とし前をつけさせる。親も学校も会社も、一切の救いの手を差し伸べてはならない。ネットで個人情報を晒され、世間からフルボッコにされても、歯を食いしばってそれを受け止めるのだ。狼藉を働き、それを武勇伝よろしくSNSで公開して、愉快痛快怪物くんのような気分で安寧に過ごせると思ったら大間違いなのだということを、身を以て知ってもらわねばならない。
 
 そう、落とし前というのは、大人の社会では「社会的制裁」に他ならないのだ。勿論、学校にだって除籍や放校という処分もあるが、大人の世界での有形無形の「制裁」は、得てして一生ついて回るものになるのだ。しかし本来、前途ある若者にそういう傷を負わす訳にはゆかぬから、なればこそ、件の「事件」のような狼藉を働く学生は、社会に出す前に何としても矯正する必要がある。つまり、「教育」というものの重要性に帰結するのである。大学は代わりに世間様に対してごめんなさいと言ってくれてそれでお終いかもしれないけれど、社会ではそうはゆかないし、愚行悪行は自らの首を絞める行為に他ならないことを理解しておかねばならない。そして、この覚悟がなければ、社会に出ることは許されないし、その覚悟は、入社式のその日に突然生まれるものでもないから、それまでの人生の中で、そういうものをしっかりと涵養しておかなくてはなるまい。それは「教育」の場できちんと行われるべきものである。
 
 悪いことをしたら罰を受ける。人に迷惑をかけたら人から制裁を受ける。「愛の鞭」は厳しく痛みを伴うものだけれども、それでも未成年のうちは誰かが守ってくれる。そうであるうちに、社会の正義の何たるかを教え込んでおかねばならぬのだ。ただし、それは体罰や暴言のような、肉体的・精神的暴力であってはならない。これについては次回の(二)で、改めて考えを述べることにしたい。