虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第82回 子どもは大人の鏡

 いきなり下の話をして誠に恐縮であるが、今日、外回りから戻る途中に腹痛を催し、命からがら会社まで戻ってトイレに駆け込んだ。ところが、事無きを得て安堵したのも束の間、さてと思ったときに、我が身に降りかかった悲劇に気付いたのである。トイレットペーパーがストックを含めて皆無なのだ。こんなときに限って、ポケットティッシュの持ち合わせがない。トイレ内に誰もいないのを入念に確認した上で、隣の個室に瞬間移動を図って何とかなったのであるが、前屈みでいそいそと移動する様は、大の大人の姿として、あまりに情けなかった。
 
 勤務先が入居するビルというのは実に清掃がよく行き届いたところで、テナント入居の社員どもが狼藉の数々を働くにも関わらず、清掃スタッフのおばちゃん(沖縄出身)は、「なんくるないさー」とばかりに文句の一つも言わず……いや、「なんくるあるさー」(?)とばかりによく嘆いておられるのではあるが、それでも毎日ビル内を隈なく綺麗にしてくれるのである。だから、トイレットペーパーが切れてしまうなんてことは断じてあり得ないのだ。これは、何者かが故意に持ち出したに違いない。かかる兇徒をビル館内に易々と立ち入らせてよいものか。明日にでも守衛室に赴いて、館内の警備を厳重に行うように申し入れる所存である。
 
 そんな訳で、トイレに関してとんだ目に遭ったのであったが、日頃から、トイレの使われ方には思うところが多々ある。そもそもの話として、家庭、あるいは会社や店舗がちゃんとしているかの一つの指標に「トイレが申し分なく清潔であるか」があると思う。トイレというのは人間が最も無防備になる場であるがゆえに、素の姿が最も曝け出され、従って、そこを使う人たちの程度が最も知れると考えるからである。
 
 忘れもしないのが小学校のとき、広島県尾道バイパス(自動車専用道路)にあるパーキングエリアのトイレで見た、凄過ぎる絵図である。汲み取り式の和式トイレだったのだが、全然汲み取っていなくて、排泄物が山の如くに高く聳えていたのだ。何せ、用を足そうにも、普通にやっていたら臀部に山の頂が付着してしまうので、相当特殊な姿勢を強いられるのである。今はどうなっているのか知らないが、40年余を生きてきて、あれを上回る衝撃を受けた覚えがない。
 
 この例は管理者の怠慢による放置ゆえの振り切った惨禍と言えようが、一般的には、トイレが汚いのは、清掃状況もさることながら、利用者にこそ原因があると思うのである。使えば汚れていくのは不可避ではあるけれども、それにも限度があるだろうし、一人ひとりのちょっとした注意で、一定程度の清潔さは保てるはずだ。
 
 例えば、学校のトイレが清潔で無臭であるという例をあまり知らない。児童や生徒がいい加減な掃除しかしないこと、街中の施設と違って1日1回しか掃除をしないこともそれぞれ一因であろうとは思うけれども、それ以上に、そこを使っている子どもたちの汚し方が酷いに相違ないのである。特に小学校低学年のそれには凄まじいものがあって、「ぞうさんおおあばれー」などと叫びながら、ぞうさんどころか犬の鼻にも満たぬ未成熟な一物を振り回すとか、「めいちゅうさせるぞー」と言いつつ、遠くから便器に向けて射撃を試みるも、必ず外してしまうとか。子どもたちの無軌道ぶりはここにこそ極まると言えよう。
 
 さらに、男子にとって個室を利用するという行為は、どういう訳かそれだけでいじめの対象になってしまう。裏を返せば、ここに立ち入るときというのは、外分を問うていられない、相当に切迫した局面のはずだから、間に合わなくて所定のゾーンへ出し損ねるという悲劇に見舞われることもあるかもしれない。また、「個室を用いることが恥ずかしい」からと言って、小用の便器に大便を排泄した猛者を見たこともあるが、ここまでくると、本末転倒と言うか、理屈がもう無茶苦茶である。
 
 では、大人ならしっかりしているかと言えばさにあらず、大人がちゃんとしないから子どもだってちゃんとしないのだ。
 
 トイレでよく見かける張り紙に「一歩前進」というのがある。女子トイレに立ち入ったことがないから知らないが、恐らく専ら男子トイレでしか見ないものであろう。しかし、多くの人たちはそんな表示など我関せず、むしろ「一歩後退」して射撃に及ぶものだから、床には零してしまった跡がよく残っている。自身が潔癖症という訳ではないが、それでもそんなところに立って用を足したいとは思わない。
 
 個室の便座もよく汚れている。排泄物の残滓のようなものが付着しているのを見たことがあって、これには思わず阿鼻叫喚の声を上げてしまったが、非常によく見かけるのは、温水洗浄を用いた跡と思われる、水滴の付着である。温水洗浄というのは言うまでもなく、局部をダイレクトに洗浄するものであって、臀部を便座から浮かせるという曲芸のようなことをやらない限り、便座が濡れるなんてことはあり得ないのであって、全くもって不可思議なことである。都度、清掃活動を行っている人間がいることに思いを馳せられないものだろうか。
 
 昨日は、会社のトイレの洗面台の横に、爪楊枝が放置されていた。15cm先、僅か半歩歩けばゴミ箱があるのに、自らの口腔内をシーハーやった汚い楊枝を、何故にわざわざここに捨てるのであろうか。トイレの話ではないが、ゴミの分別もしなければ、あまつさえ、中身の残った缶飲料をそのままゴミ箱に捨てる非道の者もいるらしく、ここまで来るとほとんど“社内テロリスト”の様相である。
 
 冒頭に記した惨劇も含め、会社の中に子どもが立ち入るはずもなく、これらの狼藉の下手人は須らく大人なのである。トイレは“素の自分”が最もよく表出する場であるからこそ、その表出した自分を、洗面台の鏡の前に立って見つめてみなければなるまい。そして、その自分の姿は、きっと子どもたちにだって映っているのである。ドロシー・L・ノルテの『子どもは大人の鏡』には、最後に「あなたの子どもはどんな環境で育っていますか?」という投げかけがある。学校で「ぞうさんおおあばれー」などとやっている子どもの親は、もしかしたら家で同じことをやって見せているのかもしれない。大人たるもの、トイレの神様から罰を与えられぬうちに、自らをしっかりと戒めたいものである。