虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第51回 空気を読む

 地下鉄御堂筋線の中程6号車は、平日の終日、女性専用車両に設定されている。女性専用車両の是非を巡ってはさまざまな議論があるが、ここではそれに触れない。御堂筋線の場合、当該車両にはキユーピー(「キューピー」ではない)とかAIDEMとかパチンコのマルハンとかの目立つラッピング広告が施され、明らかに他の車両と趣が異なるので、一瞥しただけでそれと分かる。ホームの乗車目標にもピンク地の目立つサインが描かれているし、車内の吊り革も全てピンク色である。それに何より、車内の乗客は全員女性である。そこまで徹頭徹尾「女性専用」であることを強調されれば、普通は間違って乗車することはないと思うし、それが解除される土曜・休日でさえ、6号車への乗車は心理的に憚られてしまうほどに異彩を放っているのであるが、不思議なるかな、1編成に最低1人は、必ずと言っていいほど男性の姿が見えるのである。端から淫行目的で堂々と乗車しているのであれば、国家権力に任せておけばよいので敢えて何も言うまいし、「女性専用車両は逆差別であり、何ら合法的な施策ではない」と叫びながら乗車を強行する男性も、勝手にすればよい。しかし、そうでないのなら、この視界の狭さは相当に尋常でないと思うのだ。そこまで徹底して周りの見えていない人間がいて、仁王立ちならぬ「仁王座り」をしているというのが、物凄いことだと思えてならぬのである。
 
 エスカレーターは、大阪や神戸などでは、歩く人のために左を空けておき、止まる人は右に立つのが暗黙のルールである。余談ながら「関西」ではなく「大阪や神戸」と述べたのには理由があって、驚く勿れ、京都では関東同様に左に立つのである。噂ではどうも滋賀でもそうであるらしい。他所から京滋地域の大学に進学してきた者が訳知り顔に「関西では右に立つんやでえ」などとけったいな関西弁で語ったら、とんでもない目に遭うのである。それはさておき、そうした“不文律”を破って1人だけ、左に立つ者が時々いて、それを先頭にして渋滞が発生するのであるが、何故、そういうことを平気でやってのけられるのであろうか。いや、悪意を持ってやっているのではないことは分かっている。ここでも、「郷に入りては郷に従え」などと言いたいのではないし、「社団法人日本エレベータ協会が『エスカレーターの歩行は危ないからやめましょう』と提唱しているのだから右も左もなく、そもそもエスカレーターは立ち止まって乗るものなのだ」ということを声高に叫びたいのでもない。前後は全員、右に立っているのに、1人だけ左にいる自分が大いに浮いているということに、どうして気づかないのか、それが不思議なのだ。
 
 すし詰めの満員電車で、特に疲れた体を引き摺って乗車する帰宅時に、吊り革や手すりに掴まれるかどうかはちょっとした死活問題であるが、どうしたものか、1人で吊り革を2つ占領する者がいる。ある者は万歳スタイルで2つ持ち、またある者は2つの吊り革を重ねY字状にして持っている。当人たちは、「その方がバランスが取れてよいのだ」と説明するのであるが、そんなことは知った話ではない。1人で2つ持つ者がいるから、他の人が掴まるべき吊り革が1つ減ってしまうという至極単純なことに、なぜ思いを致せないのであろうか。優先座席と一緒で、お年寄りや体の不自由な人であるにも関わらず着席が叶わなかったのであれば、進んで「諸手を下ろして」吊り革をお譲りしようというものである。しかし、残業を終え、深夜の電車に疲れて乗っているのはどちらさまも同様のはずで、朝ならカーブ通過時によろけても足を踏ん張って乗り切れるところが、帰宅時ではそうはゆかぬのである。ところが吊り革2本の一人占めをやっているのは大概、酔客である。酔客に周りの冷たい視線を見渡せと要求する方が間違っているのであろうか。
 
 静かな電車の車内で、徐に携帯電話を取り出して「もしもしぃ~?」と大声で喋る者。横に嫌煙者がいるのになりふり構わず煙草を吸う者。行列のできている自動販売機やATMの前に立って初めて財布から現金やカードをあさる者。降り際のバスの料金箱の前で両替を始める者。皆が集中して仕事に取り組んでいるオフィスで、ブツブツ独りごちたり鼻唄を歌ったりしている者。カラオケで最高に盛り上がっているところへ、本気のバラードを高らかに歌い上げる者。飲み会で皆が他愛もない話に花を咲かせている中で、憂国の情を滔々と演説する者。卒業式で皆が号泣しているのに、一人ケロッとして男連中と戯れている高嶺の女子。皆でどこかへ一緒に行こうとなったのに、「私は一人で行きますので」と言って集団行動の輪を乱す者。葬式で参列者が悲しみに暮れている沈痛な空気の中にあって、「アジャパー」とか叫ぶ孤高の輩。こうした者たちを、「空気の読めない奴」と人は言うのである。昔と較べて「空気の読めない奴」が増えてきたのかどうかは分からないし、それが世の中に蔓延する現代社会の重篤な病理だと大仰なことを言うつもりもない。でも、そういう人がここかしこにいるのは、確かなことだろうと思う。
 
 では、「空気を読む」にはどうすればよいのであろうか。私は、「感受性」を磨くことと、「人に関心を持つ」ことであろうと思う。「感受性」というのが分かりにくければ「想像力」と言ってもいいだろう。自分の言動がこの先、どういうふうに展開し、周囲の人たちにどういう影響を及ぼすのかを、頭の中で、ちょっとシミュレーションしてみればよい。かく申す私とて、将棋やオセロなど、「先を読む」能力がなければ勝てない娯楽はまるで苦手なので、そうした想像力は意識して訓練しなければ涵養されないことはよくよく認識している。けれども、10手も先を見据えなければ読めない空気でもあるまい。1手や2手で、十分「人への配慮」は成立するのである。
 
 昨夜、共に残業帰りの家人と、駅前の居酒屋で遅い晩飯を食していたときのことである。酒で薬を飲もうとする家人を見た店員が、「あっ、お冷をお持ちしますね」と厨房へ走り、すぐに戻ってきて、「氷が入っていない方がいいですよね」とさりげなく言ってコップをテーブルに置いた。これをこそプロと呼ぶのだといたく感心したのであるが、空気を読むこと、つまり、感受性や想像力を磨くことについては、サービス業に学ぶことが多いように思う。これとて、「人に関心を持つ」ことに他なるまい。アイスクリームとホットドリンクを同じ袋に入れようとしたり、そうかと思えば逆に、既に荷物をたくさん持っているのに、3つも4つも袋を分けて商品を渡そうとしたりする、その居酒屋の先にある、最近オープンした某コンビニの店員たちには、少しは爪の垢を煎じて飲み給えと言ってやりたいところである。