虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第48回 忘れじこの日

 あの日。私は大学2回生だった。
 
 2年前まであんなに必死に勉強というものをしていたのは幻だったのかと思えるくらい「学生の本分」を放棄していた私は、しかし学年末を控えて流石に尻に火が点き、ワープロに向かって課題と格闘していた。「国語科教育法」という科目の、授業指導案を作成せよというお題で、高校の古典で『大和物語』の〈生田川伝説〉を扱った。2人の男に誠実でありたいと思った女が、それ故に2人の男を巻き込んで悲劇の結末を迎える。これに、「誠実でありたい。そんなねがいを どこから手にいれた。/それは すでに 欺くことでしかないのに。」と詠う、吉野弘の『雪の日に』という詩を重ね合わせ、作品の主題を考えるという授業展開である。我ながら会心の出来で、夜を徹してそれを仕上げ、満悦しながらゆっくり煙草を燻らせていた。このとき、5時40分である。
 
 テレビは6チャンネル、朝日放送をつけていた。フィラーが終わり、放送開始のアナウンスが流れる。5時45分。最初の番組である『Oh!天気』が始まる。司会のアナウンサーの挨拶があり、出演者の紹介が続く。中途半端な時間に課題が完成してしまい、2時間だけでも眠るべきか、起きられなくなるから耐えるべきか、そんなことを逡巡しながらテレビの画面を見るともなく見ていた。そのうち、地鳴りの如き異様な音が聞こえてくる。「?」と思った瞬間、激しく揺さぶられ、棚から次々に物が落ちてきた。テレビからは出演者の悲鳴が響き、と同時に停電して、闇に包まれた。
 
 実際にはどれくらいの時間だったのか分からないが、とんでもなく長い時間に感じられた。このままいつまでも揺れ続け、この世のものが全て崩壊して、自分も死んでしまうんやろなあ、とぼんやり考えることができるくらい、長い時間だった。
 
 揺れが収まって外に飛び出す。ガス漏れの臭いを感じた。大家さんが血相を変えて出てきて、取り敢えず元栓を締めるようにと指示した。しかし暗くて何も見えない。そうでなくても汚い一人暮らしの部屋が、地震でカオスと化し、必要なものを探すにも難儀したが、何とか財布を見つけ、懐中電灯を買いに、コンビニに走った。店は既に、同じことを考えた人たちでごった返していた。店長が「停電でレジが使えないので、お釣りの要らない方だけお願いします!」と叫んでいる。4軒をハシゴして、やっと1本の懐中電灯を手にした。ようやく帰宅したら、停電は復旧していた。留守番電話には、実家から「電話出なさい!」と喚く母親の声が何件も録音されていた。
 
 徹夜で仕上げた課題だったが、結局この日、大学は全学部休講となったので、自宅に居ることにした。夜が明けて、テレビで神戸の街が映し出されるのを見て、怖くて外に出ることができなくなったというのが正しい。熱を出しても、嘔吐で苦しんでも、結石で悶絶してもそうは思わなかったのだが、この日初めて、一人暮らしであることを心底不安に感じた。そのうち、アルバイト先のマネージャーから電話がかかってきて、「ウチのスタッフで君が唯一の大阪府民で、一番電話がつながりやすいから、ごめんやけど家に居てもらって、諸々の連絡の窓口になってくれへんかな」と言われた。わかりました、と答えた。当時、私は西宮北口にあった、大手進学塾の講師のアルバイトをやっていた。マネージャーを含めた他のスタッフは全員、兵庫県民だったが、本社は大阪市内にあるから、私なら本社との連絡がつきやすいだろうとのことだった。
 
 阪急電車西宮北口までは復旧した翌日、本社からの指示で、校舎に向かった。塚口を過ぎた辺りから建物の崩壊が見え始め、西宮北口駅は壁のタイルが軒並み剥がれ落ちていたが、駅を出て、“塾銀座”である北口を出ると、目に飛び込んできた光景は地獄絵図そのもので、絶句するしかなかった。私の勤務先のビルは崩壊を免れたが、鍵を開けて中に入ると、机や椅子は方々へ飛んでいき、教材や書類のファイルはそこら中に散乱している。コピー機のガラス面にテレビが突き刺さっているのを見たときは気を失いそうになってしまった。
 
 バイト仲間に、Hさんという女性の講師がいた。同じ国語の担当だったが、この人のことが大好きだった。お付き合いをしてもらえなかったのはほろ苦い思い出だけれども、一緒に映画を見に行ったり、携帯電話もない時代に夜な夜な電話で喋ったりするだけでも十分幸せだった。当時在阪のFM局で“DJの卵”をやっていたお姉さんにも可愛がってもらっていた。彼女の家は西宮市内で、なかなか連絡がつかなくて心配でならなかった。2日後に、留守電に「私は大丈夫です」と吹き込まれているのを聞いたときには、安堵のあまり立てなくなってしまった。
 
 数日後、集まれるスタッフだけが集まり、本社からは統括部長も来られて、今後の対応や対策について指示を受けた。「ここに関わる人が生きているかどうか」から始まった。電話はほぼつながらないから、ゴーストタウンの中、手分けして約120人の生徒の自宅一軒一軒を訪ね、家がなくなっていたら避難所まで巡った。幸い、命を落とした生徒はウチにはいなかったが、行く先々で生徒たちに泣きじゃくられたのは本当に辛かった。毎日、川まで行って水汲みもやった。食料や飲み物の調達は大阪市内でもままならないから、JR京都線を1駅ずつ降りては店に飛び込み、やっと必要なものを確保できたのは京都の西大路だった。
 
 昼間に特別な時間割を組んで出勤できる講師だけで授業を回し、受験学年を最優先で指導を行った。中学受験は断念せざるを得なかった子が殆どで、高校受験も志望校の変更を余儀なくされた子がいたのは哀れだったが、何とか入試まで指導を続け、皆から合格の報せを受けたときには本気で喜んだ。バイト風情がここまで本気になれるのかと自分でも不思議に思った。震災前に復することは難しいとの判断で閉校になったが、その最後の日、教室の前で、正社員の先生が、人目も憚らず男泣きした。
 
 それらのことは当時輪の広がったボランティアなどではなく、「仕事だから」やったのだ。確かに使命感を持って取り組んだが、自分の行動を美談として語ろうなどとはつゆも思わないし、そういう発想すらない。あるのは「大変だった」という記憶である。ここでのバイト仲間は互いを「戦友」と呼び合っていた。その全員が、今どこでどうしているのかさえも知らない。でも、そうしたいろんな思い出が今、まざまざと蘇ってくる。
 
 今年も、5時半に起床して、46分には黙祷を捧げた。私如きの祈りが誰の御霊を鎮める訳でもないし、18年もの間には、それを怠ってしまった年もある。テレビだって、扱いは随分軽いものになってきた。「あの日の記憶は風化させてはならない」と人々は言う。でも、忘れてしまいたい記憶を持つ人だっているだろう。被災の当事者でもない人の感傷ほど勝手で無責任なものはないと思うし、こうして当時の思い出を綴ること自体がどうかとも思うが、自分の中の心の整理として、またいろんなことの原点回帰として、今後も静かに、「1月17日の内省」を続けていきたいと思う。