虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第37回 仰げば尊し

 10月から、土曜の深夜に、長澤まさみ主演の『高校入試』というドラマをやっているが、これが実に面白い。3話が終わったところでまだ佳境にも何にも入っていないが、それでも面白い。「高校入試なんて、ぶっつぶしてやる」のキャッチコピーで、県下随一の名門進学校の入試を巡る狂気を描いたミステリーである。これは今後起きる何かの伏線なのだろう、と思えるような描写が随所に散りばめられるのだが、しかし誰が犯人なのかは皆目見当が付かず、あるいは誰もが犯人にも見える訳で、それだけ登場人物の一人ひとりにスポットが当たって、その辺も含めて、さすがは湊かなえ脚本と感心しきりである。因みに小説家である湊かなえは、脚本初挑戦なのだとか。
 
 舞台となる県立橘第一高等学校。この地域では東大に進学するよりもこの高校に合格することが高いステイタスであり、卒業した後も、一流大学を卒業した者より高学歴と見做される。同窓会長やOBの教師たちの偏愛とも言える母校愛。そうした中、入試の前日に「入試をぶっつぶす!」と大書された紙が各教室の黒板に張られ、ネットの掲示板では「名無しの権兵衛」を名乗る人物が宣戦布告を行い、見えない敵から脅迫を受ける……。
 
 そんな本作の描写を見ていて、自身の高校時代を思い出した。かかる脅迫事件こそないものの、そうした卒業生たちの「母校愛」は大同小異で、親子二代、あるいは孫まで含んだ三代で学ぶことを鼻にかける者も少なくなく、教師たちからは事あるごとに「ここをどこだと思っているんだ!」と、我々のような落第生は罵られるのである。高校の名に「朝日」が含まれることへのアンチテーゼとして、自らを「夕暮れ族」と呼んで自嘲していたものであるが、それでも楽しかった高校生活の3年間であったというのは、以前にも記したとおりである。
 
 そんな母校に今、一大事が起きているのである。毎年この時期に送られてくる同窓会報16ページのうち5ページまでもが割かれて大騒ぎになっているその大事とは、「大講堂使用中止問題」である。昭和29(1954)年に、当時の金額で1,265万円、今の値段にすれば2億円超とも言われる巨費を投じて建築された大講堂は、耐震診断の結果により、昨秋より使用が停止されているのだそうだ。同窓会長のコメントをそのまま引用すると、「高校の歴史と共に歩んできて多くの卒業生の心に残っている大講堂を出来ることならば維持・保存・使用出来るように切望しています。もしそれが不可能であるならば講堂機能の建物を新たに整備していただきたいと願っております(原文のママ)」とのことで、然るべき立場の人が公式にこのような発言をするのだから、関係機関には相当なレベルでの陳情なり要望がなされていくのであろう。
 
 現に、県教委から、大講堂の取り壊しと、体育館へのステージ設置が提案されたものの、同窓会は到底承服できないようで、学校側も「長年にわたる知育と徳育の拠点であり、厳粛な式典や講演、発表の場としてかけがえのない財産」と意見書を提出したそうであるが、同窓生の端くれであるこの私は、少しく疑義を唱えたいのである。なるほど、「高校の歴史と共に歩んできて多くの卒業生の心に残っている大講堂を出来ることならば維持・保存・使用出来るように切望」するのは誤った意見ではなかろう。文化的建造物としての存続の意義もよく理解できるし、その保存を訴えようとする動きに何らの異論もない。しかし、「もしそれが不可能であるならば講堂機能の建物を新たに整備していただきたい」とは一体どういう料簡でこういう発言ができるのであろうか。県教委の言及にもあるとおり、この高校には「体育館」というものが別にあるのである。体育館と講堂が分かれている公立学校というのもそうそう見るものではないのであって、それだけでも大層な特別扱いだと思うのだが、同窓会やPTAからの拠出はあるだろうにしても、巨額の県費を投じて新たな講堂を建設せよという意見に、他の高校出身者は黙っていられるのであろうか。「我が母校は別格である」と言わんばかりのこういう唯我独尊的な考えに、異を唱える者は誰もいないのであろうか。
 
 一方で、青森県弘前実業高等学校藤崎校舎には、全国で唯一の「りんご科」という学科があり、全国一のりんごの生産高を誇る同県で、後継者を輩出してきた実績があるが、県が発表した県立高校再編計画の中で、同校の廃止が盛り込まれた。当然ながら地元やOBたちからは、「リンゴの特産地なのに理解に苦しむ」「津軽一円から生徒を集め、定員割れもしていないのに、歴史や精神を見ていない」などと猛反発の声が上がっている。同じ陳情にしても、こちらは「学びの意義」に思いを致しているという点で、議論のレベルが違う。
 
 こんなことを述べれば落ちこぼれの僻みと謗りを受けるかもしれないが、名門校に入学したことがステイタスなのではなくて、そこで何を目標に、何を学んだのかが肝要であろう。その辺が曖昧模糊としていると、「入試に合格すること」自体が目的化してしまい、それをゴールとして燃え尽き症候群に陥ってしまうことだってあるだろう。あまつさえ、「この高校のOBであることを語れば、それだけで一流企業に就職できる」と気のふれたことを真顔で放言する者も実際にいて、バブルも弾けて景気は一気に冷え込んだというのにろくな努力もせず安穏と大学生活を送ったようであるが、彼がその後どうなったのかは知る由もなく、同窓会名簿にも「消息不明者」として名を連ねて久しい。いずれにしても、長い人生のたった15年間で人間の価値など決まる訳がなく、そうしたおかしな幻想を抱かせる「母校愛」自体のあり方を、この“一大事”を機に見直すときが来ていると、同窓生の一人として痛切に思う。