虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第31回 きらきらひかる

 人知れずゴーストライターの如くに書き散らしている拙文であるから、自らの実名を名乗るのは大いに憚られるのであるが、私の名前は「直木」という。今も昔も大層珍しがられる。そして、必ず由来を尋ねられる。大抵の人は、直木三十五、つまり「直木賞」を想起されるようである。確かに大学は国文学科ではあったが、別に「名前負けしないように」という理由で選んだ訳ではないし、専攻は中古文学であるから、現代の大衆文学とは全くの無縁である。それにそもそも、創作の能力など皆無である。
 
 幼い頃、両親に、なぜ「木」にしたのかと問うたことがあるとは思うのだが、その回答があまり記憶にない。長じて、小学校のときに、担任の先生から「『樹』よりも『木』の方が、余計な枝葉がなく、真っ直ぐ伸びるという感じがあるね。ご両親もそういう願いを込めて名付けてくださったのではないかな」と言ってもらったことがあり、これで初めて得心が行ったのである。肉親ではなく赤の他人から自分の名前の解説を受けるなんて。
 
 しかし、果たしてその通りに真っ直ぐ育ったかと自問すれば甚だ自信がないので、今では人から由来を尋ねられても、「画数の多い漢字を書くのが面倒臭かったから、『木』にしたんと違いますやろか」と答えることにしている。
 
 何にせよ、変わった名前であることは確かなのであって、自署にも関わらず誤記と認識され、「直樹」と訂正されることもしばしばである。「直樹」なら読みは合っているからまだよいのだが、「真樹」と「直」まで正されたこともあり、一番酷かったのは、年賀状の宛名に「植木」と書かれたことである。さすがにこれには抗議をしたのだが、パソコンの宛名ソフトにそのように登録されているからか、今以て一向に直してもらえない。
 
 さて、変わった名前と言えば、昨今何かと話題の「キラキラネーム」はやはり気になる。ネットで検索してみたら一覧のようなものがあったので、省くことなく、そっくりそのまま拾ってみると、「今鹿(なうしか)、金星(まぁず)、泡姫(ありえる)、美俺(びおれ)、黄熊(ぷう)、梨李愛乃(りりあの)、愛理(らぶり)、樹茶(きてぃちゃん)、阿弖流為(あてるい)、嗣音羽(つぉねぱ)、爆走蛇亜(ばくそうじゃあ)、世歩玲(せふれ)、亜菜瑠(あなる)、ララ桜桃(ららさくらんぼ)、幻の銀侍(まぼろしのぎんじ)、愛棒(らぼ)、光宙(ぴかちゅう)、輝宙(ぴかちゅう)、空海(ぶるう)、眠民(むーみん)、凱亜(がいあ)、純粋(ぴゅわ)、揺(はるか)、綺羅亜(きらあ)、汐朱(しあん)、王子(きんぐ)、金星(まあず)、磨王(まおう)、笑(わろた)、翔兎(とと)、桜愛(おうあ)、美空(みき)、奏空(かそ)、月煌(つきき)」と。
 
 もう、絶句しかあるまい。これらは全て、実在する人名なのだそうだ。
 
 決して放送で流せないようなものまで含まれていて、名付け親には正気の沙汰かと小一時間ほど問い詰めたいところである。そうしたものに較べればまだましと言えるのかもしれないが、しかし「田中ララ桜桃」とか「木村幻の銀侍」などと署名されれば、一体どこまでが名字なのか、あるいはミドルネームを含んでいるのかと頭を抱えてしまう。王子は「キング」ではなく「プリンス」だと思うし、「はるか」と読ませている「揺」は恐らく「遥」と書き違えた、あるいはそう思い込んでいるだけのことであろう。この辺りは単純に、基本的素養が欠損している親の下に生まれた子どもを哀れと思う他あるまい。逆に、「今鹿(なうしか)」などよく考え付くよなと、変に感心したりもするのである。
 
 「キラキラネーム」の筆頭に上げられるのはやはり、音韻だけで決められた「当て字」の類であろう。思春期を昭和末期あたりに過ごした方々には、「夜露死苦」「仏血義理」「愛羅武勇」などが懐かしく思い出されるのではと存ずるが、こういう奇天烈な当て字というのは、かつてはヤンキー(当時の言い方なら「ツッパリ」)の専売特許であった。正視できぬほどに煌びやかな刺繍を施した学ランに、この「四字熟語」が大書してあったものである。その意味においてもこれらこそが由緒正しい「キラキラネーム」と言えるのではないかと思うが、ただ、これらはあくまで(方法として正しいかどうかはさて置き)自己主張なのであって、他人から与えられたものではない。
 
 親から与えられた命名に抗うことは原則的には許されないのであるから、「キラキラネーム」を付けられた子どもがあまりに可哀相だという意見は必ず出てくる。「直木」ですら他人にやいのやいの言われるのだから、況んや「眠民(むーみん)」だの「凱亜(がいあ)」だの「綺羅亜(きらあ)」だのが虐めの標的になり得るというのも誤った憂慮ではあるまい。それはそれで正論だとは思うのだが所詮、他人の余計なお世話である。ことばに煩い者からすれば、そもそもの話として、親本人の「命名の思い」を問いたいのだ。
 
 数年前、現業でマネージャーをしていたとき、部下に女の子が生まれることになり、彼は名前をどうするかで、仕事を半ば放棄して勤務時間中もずっとそのことを考えていたことがある。立場的には「ちゃんと仕事せえよ」と注意しなければならないのだろうが、まあ、初めての子どもであるし、それくらい大目に見ようと思い、「どんな名前を考えてんの?」と話を振ってみた。すると、第一候補として彼が上げたのが、「ららら」だった。この君の名字の最後の音は「ら」であるので、フルネームで呼ぶと、4文字連続で「ら」が並ぶことになるのだ。仰天して、思わず「お前はアホか」とツッコんでしまったのだが、いやしかし、何か思いがあるのであろうと思って、「何でその名前にしようと思うんや?」と問うてみた。すると、「『ら』が4つ並ぶからです」と答えるのである。こちらの心配というかツッコミの内容そのものが命名の理由だったとは。それ以上この話題を継続することを断念し、自分の仕事を続けることにした。
 
 要は、「キラキラネーム」において第一に重んじられるのは、というか唯一それだけの理由は、「音の響き」ということなのであろう。ならば仮名の名前にすればよいではないかと思うのだが、なぜか漢字を当てようとする。しかるに漢字は表音文字であると同時に表意文字でもあるのであって、この点を外して命名などしてはならぬと思うのだ。
 
 例えば「光宙(ぴかちゅう)」も、「この宇宙を広く光り照らす人になるように」という願いが込められているのなら、他人がとやかく口を挟む筋合いのものではないと思うのである。「命名」というのは文字通り、「名前に命を宿す」営みであるというのは、蓋し、この上なく重要なことであろう。これらの「キラキラネーム」の一つひとつに込められた思いというものを、一度聞いてみたいものである。