虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第28回 恩讐の彼方に

 先日、たまたまアメブロの新着記事か何かで目にした記事が面白かったので、「ペタ」をつけた。すると程なく、この方からメッセージが届いた。大阪暮らしと岡山暮らしという共通項があったということで意気投合(?)し、見も知らぬ人とのネット上のやり取りという馴れぬことをしながら、しかし大いに盛り上がった。

 やり取りが進むにつれて、恐ろしいほど互いの共通項が重なってくる。住んでいた街、年齢、通っていた学校、そしてクラスや担任教師……。これはどう考えても面識があるに違いないのであって、その方が先に、意を決してご自分の名前を名乗られた。それを見て、私はほとんど卒倒しかけたのだ。何と、第26回 で記した、「中学校時代の件(くだん)の女子」その方だったのである。偶然に偶然が重なり、自分の記憶にたまたま蘇ってきた方と、ネット上ではあるが、時を置かずして邂逅を果たす。こんなことが世の中にあるのだろうか。
 
 相互に名前を覚えていて、おぼろではあるが当時の印象も残っており、それより何より、当初の彼女と私の確執(?)も記憶にあって、「スンマセン時を超えてスンマセン」と丁重なるお言葉を頂戴した瞬間には、39年生きてきて、最大級の感慨を覚えて落涙しそうになったものである。
 
 けれどもやはり、26年の歳月というものは、人間の記憶に著しい誤謬を与えるようで、私が抒情的に綴った、転校する最後の日の思い出も、その方によると「申し訳ないですが当方まったく記憶にございません」とのこと。四半世紀に亙る壮大なジブリの物語は、「私の勝手な思い込み」というオチであえなく幕を閉じたのであった。ちゃんちゃん。
 
 まあ、それはそれとして、互いに四十歳の節目を目前に控え、恩讐を越えて実際の再会を果たすことができたら、一体、どんな気持ちになるだろうか。
 
 若かったときは尖っていて、人と対立することも多かったし、またそんな自分に酔っているようなところもあった。長じてからもそれは変わらず、社会人になったときにはむしろエスカレートして、「会議は戦場、怪気炎を上げて現業の意見を上に通すんや!」などと意気がり、何度となく、上司に諌められていたものである。管理部門に移って一転、今度は自分が吠えられ噛み付かれる立場になって、初めてその愚かなることに気付くのであったが、そろそろ壮年と呼ばれる齢となりつつある今から考えれば、実に赤面の至りである。
 
 さりとて、今はもう、仙人か隠者のように達観した境地に達し、慈愛に満ちた表情を常に浮かべているのかと言えばそんな訳もなく、自らの未熟なることを痛切に感ずるものではあるが、それでも「争う」ことにエネルギーが沸いてこないし、人がピリピリしているのを見るだけでこちらまで疲弊してくるのは確かである。怒りや憎しみが全く存在しない、桃源郷のような場所はどこかにないものだろうか。それを求めるのは間違っているのだろうか。
 
 激しく対立し、和解することのないまま、訣別してしまった人はたくさんいる。当時はお互いに、自分が正しいと思って、あるいは、正しいとか正しくないとかそんなことはどうでもよくて、相互の意地だけが理由で相容れなかったのだが、歳を経てみると、いろいろと反省することはあるのであって、できることなら、そういう人たちとお一人ずつお会いして、謝罪を申し上げたいと、最近とみに思うのである。
 
 それでもう一つ思い出すのが、随分前に亡くなった、祖父のことである。
 
 大学受験のとき、進路をどうするかで、当の本人である私を差し置いて、たまたま我が家に遊びに来ていた祖父母と母の3人(こういうときには、父は決まって黙っているのである)が議論を始めた。本命の大学の不合格は決まっており、もう一つの大学の結果待ちであったが、大人たちは、予備校をどうするとか、やっぱり公教育は頼りにならないとか(中学時代に、通っていた塾を不当な理由でクビになって以来、塾というものが大嫌いで、高校卒業に至るまで、そういうところに通ったことがなかった)、好き勝手なことを言い始めた。彼らは本命の大学へ行ってほしかったのだろうが、第二志望の学校も自分には十分魅力的だったし、何より高校のことを悪く言われたのが我慢ならなかった。そして、思い付く限りの罵詈雑言を並べ立て、部屋を飛び出した。発表待ちの大学も結局不合格で、浪人生活を過ごすことになった。
 
 以来、母方の祖父母とはすっかり疎遠になってしまった。1年後、何とか進学先が決まり、大阪での一人暮らしが始まった。
 
 それから数年経ったある日、母が電話をしてきて、「おじいちゃんがすっかり弱っている」と語った。理由はよく分からないが、あのとき、自分の暴言が傷になっているのではと思うと居た堪れなくなり、一人、祖父母の住む広島に向かった。同居する叔父夫妻とその子ども(つまり従兄妹)を含めた6人で歓待してくれ、晩餐は和やかに進んだ。祖父母や従兄弟が寝静まった後、酒豪の叔母が夜中に、「一緒に飲もう」と言うので、下戸の叔父を無理矢理付き合わせ、3人で痛飲した。泥酔状態で部屋へ戻ろうとしたとき、トイレに行こうとして起きてきた祖父と鉢合わせになった。入れ歯を外しているのもあったのだが、その顔が驚くほど老いていて、大変なショックを受けた。母の言うとおり、祖父は「すっかり弱ってい」た。翌日、大阪へ帰る私を、祖父はバス停まで見送ってくれた。動き出すバスに向かって手を振ってくれる祖父は、幼い日の記憶に残る厳格な姿ではなく、本当に、弱く、小さくなった姿だった。そしてついぞ、あのときの謝罪の言葉を伝えることはできなかった。
 
 さらに数年後、祖父はあの世へ旅立った。それからでも、既に10年が経つ。
 
 結婚したとき、祖母は祖父の遺影を持ってきた。直視できないので止めてほしかったのだが、初孫の結婚をあの世で喜んでくれているのなら、それで祖父との和解ということにさせてもらったら、と、勝手に思っている。直接ごめんなさいが言えなくて、申し訳ないとは思うけれど。