虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第27回 あの街に住みたい

 しばしば雑誌などで、「住みたい街ランキング」という特集が組まれる。毎年連綿と続けられているものだから、不動の人気テーマの1つなのだろう。リクルートの住宅情報サイト『SUUMO』の、「2012年版・住みたい街ランキング(関西編)」によると、「1位:芦屋/2位:京都/3位:神戸/4位:三宮/5位:西宮/6位:梅田・西宮北口/8位:大阪/9位:天王寺/10位:岡本/11位:なんば/12位:高槻/13位:夙川/14位:宝塚/15位:千里中央/16位:御影/17位:豊中/18位:草津/19位:住吉/20位:箕面/21位:姫路/22位:茨木/23位:北山/24位:江坂/25位:六甲道/26位:学園前/27位:奈良/27位:甲子園/29位:福島/30位:尼崎・高槻市・桂」という結果だそうである。
 
 「いつかは芦屋」「夙川で夢のセレブ生活」「すみれの花に囲まれてヅカライフ」といった憧れなら理解できるのだが、こうしたランキングの上位に必ず、梅田だの難波だの三宮だの、そういうのが上がってくるのはどういう感覚なのだろう、と思ってしまう。最終電車を気にせず飲んだり遊んだりができる、というのが恐らくの理由だろうが、普通の生活を営む者は、そうそう毎晩遊び歩く訳にもいかないだろうし、何より生活臭がないだろうよ。夜中にトイレットペーパーが切れたからちょっとそこのコンビニにと、すっぴんにジャージで外を出歩けるかと考えてみたらよい。「住む」というのは、その街が自分にとっての「日常」になることなのだ。
 
 以前にも記したが、私はこれまでに7回、住まいを変えている。大阪だけでも5度目の住まいであるが、そのいずれも、件のランキングには出てこない。マイノリティなのかなあと思うが、しかしいずれにも、その時々における、ジプシーなりの思い入れがある。
 
 生まれて最初に住んだのは、京阪電車の宮之阪の駅前にある、「宮之阪ハウス」という文化住宅の2階だった。泣いてなかなか寝付かない私を、酔った父が抱いて外に連れていく。父が燻らせるハイライトの紫煙を浴びながら、行き交う電車を見ていると、泣き止んで眠りに落ちたそうである。「ポットン便所」も、この時代の文化住宅ではデフォルトであった。私は一度ここに嵌り、尻が大きいのが幸いして事無きを得たことがあるのだが、危うく、生を享けて僅か2年で、糞塗れという恥辱極まる状態で夭折するところであった。諸々全ては伝聞ではあるが、実像の如くに記憶に残っていて、今でもこの地に立つとその情景が思い起こされる。ただし、その文化住宅は跡形もなく、代わりに高層マンションが聳え立っている。
 
 次は、同じ枚方市内での引っ越しだったが、新築の府営住宅の抽選に当たり、「宮之阪ハウス」居住者の宿願であった“集団移住”が実現したのである。後にどの家庭もマイホームを持つようになるが、この連帯意識は相当なものらしく、今でも、親同士の年賀状のやり取りレベルの交流は続いているらしい。団地には小さな公園があり、そこに砂場があった。幼き日の私は、柿の種(酒のアテではなく、文字通りのもの)をその砂場に埋め、たわわに実が生(な)るのを楽しみにして、毎日の水遣りを欠かさなかった。しかし、そうこうしている内に父の岡山への転勤が決まり、発芽すら見ることもなく、生まれ育った枚方を離れることになった。後に訪れたとき、柿の木は当然ながら育っているはずもなく、思い出の砂場の前で、自嘲気味に笑うばかりだった。
 
 3つ目の住まいは、岡山市の郊外、西大寺という町である。川をこよなく愛する釣りバカの父は、吉井川という川の畔に立つ団地からの眺めを、大層気に入っていた。通っていた小学校には、「低学年は自宅の周囲、中学年は町域、高学年は校区域から子どもだけで外に出てはならぬ」という規則があった。ところがこの校区は、町の中心部からは離れた田舎にあり、友達と連れ立って遊びに行こうにも、校区内では、野球や虫取りといった健康的なこと以外では、老婆が営む駄菓子屋に屯(たむろ)するのがせいぜいで、ゲームセンターなどの娯楽施設は、中心部の大型スーパーに遠征せねばなかった。禁を破り、そんなときに限って、たまたま買い物に来ていた先生に摘発され、翌日学校で折檻を受けることもしばしばであった。中学校も1年間だけ通ったが、転校することになった経緯は前回記したとおりである。
 
 4つ目は、岡山市内の中心部、名勝後楽園の近くの分譲マンションである。風呂無し文化住宅から13年目にして、我が家は初めて「自分の家」を手にした。母はこのことに大層な感慨を覚えていた。校区内には名門の県立高校を2校も抱え、市内屈指の文教地区との触れ込みであったが、当の中学校は「市内御三家」と言われる札付きの荒廃した学校で、定期考査や卒業式には警察とPTAが物々しく校内を警邏し、街中でヤンキーに絡まれても、メンチを切りながら自分の中学校名を名乗るとそれだけで退散したほどである。そんなところだったが、家の近くを流れる旭川の土手が夕焼けに染まる様は実に美しい風景だった。好きだった女の子と話をしながら、ここをチャリンコで並び行くのは、それが全てと言っても過言ではない青春時代の思い出である。
 
 大学進学で大阪に戻ってきて、一人暮らしを始めた。その場所として選んだのが、西中島南方である。大学の近くだと友人に居座られる恐れがあるのが嫌だったのと、地下鉄・阪急の2路線が使える上、新大阪も徒歩圏内なので、京阪神のどこにでも行けるという利便性が決め手である。暮らすには本当に便利なところだったが、住まいに難があった。ワンルームマンションだったが壁が薄く、隣室の水商売の女性が夜な夜な男を連れ込み、大声を上げて事に及ぶのが、精神衛生上誠によろしくなかった。そして、ベランダ伝いに野良猫が侵入し、あろうことか私の部屋のベランダの段ボールを棲み家とした。様々な迎撃策を講じたが、敵も然る者引っ掛け者、遂に私が白旗を揚げ、3年で出ていくことにした。
 
 6つ目として選んだ場所は、天満である。このマンションが良かったのは、自室から天神祭の奉納花火が望めたことである。しかしその後、数々のマンションが建ち、帝国ホテルができたときには音しか聞こえなくなった。ベランダには今度は鳩が巣を作り、備え付けのエアコンが故障して真夏は氷枕を10個ほど敷き詰めて寝る羽目に遭う(管理人に言えばよかったのだが、不精故に半ばゴミ屋敷と化した自室に人を入れたくなかった)など、住環境は年々劣悪を極めたが、それでも13年、これまでの人生で最も長く暮らした場所である。この間、学生、フリーター、正社員と身分が変わり、遂には年貢の納め時とばかりに結婚にまで至った。自らの人生の縮図がここにはあった。出ていくとき、よく叱られた鬼瓦のような管理人のおばちゃんに「頑張ってや」と言われたときには、思わず落涙してしまった。
 
 そして今、再び淀川を越え、三国での暮らしも間もなく3年目を迎えようとしている。近所の行き付けの店を増やし、街に溶け込んで暮らしていくことが、ここでの生活の愉しみである。