虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第24回 夢十夜(二)

 九州の起点、門司の発車は5時01分である。大阪を2時間以上も後に出た、同じ長崎行きの特急「あかつき2号」が、門司発車の時点で8分後にまで迫り、博多到着に至ってはこちらより4分早い。すなわち門司~博多間のどこかで「あかつき2号」に追い抜かれるのだが、時刻表の上ではそれがどこなのか分からない。どこかで客扱いをせずにひっそり止まって、後から来た特急にそっと道を譲るのである。時刻表をよく見ると、既に岡山で「明星2号」、糸崎で「明星3号」と「あかつき1号」、西条あたりで「彗星2号」に抜かれており、これで5本の後続列車に道を譲ったことになる。これぞ急行のしおらしさとでも言うべき姿であって、「あかつき」でなくこの「雲仙」を選んだのには、何か自分の姿を重ねるところがあったのだと思う。
 
 鹿児島本線をひた走り、6時15分、博多到着。言うまでもなく九州を代表する街である。前夜、大阪駅で買い貯めた食糧もひもじいもので、途中下車をしてラーメンの一杯でも食したいところだが、早朝から屋台で麺を啜るのもどうかと思い(大体早朝営業の屋台などあるのか?)、今回は見送ることにする。ところで駅名は「博多」であるが、行政上の都市名は「福岡」である。中学時代の修学旅行で一度訪れた街であるが、バスガイドのお姉さんに、福岡vs博多の熾烈な名称争いの話を聞いたのを思い出した。市制施行は1889年のことだそうだが、互いに相譲らぬ「福岡派」と「博多派」が闇討ちをし合ったという恐ろしい出来事まであったのだそうだ。この人たちが、平成の世の「つくばみらい市」とか「南セントレア市」などのキラキラ名称を見たら、一体どう思うのであろうか。
 
 6時56分、鳥栖着。ここから西へ分かれる長崎本線に入る。11分の停車中に、横を西鹿児島行きの特急「なは」が通過していった。沖縄返還は3年前に実現したが、その前から沖縄の本土復帰を願って名付けられた名前だそうで、他に上がった候補には「おきなわ」「しゅり」「でいご」「ひめゆり」があったという。固有名詞なのに抒情的なのは一体どうした訳だろうか。遠く琉球の人々の切なる思いが偲ばれる。
 
 県庁所在地なのにどこか影の薄い佐賀には7時30分の到着。博多からわずか1時間と少しであり、大阪から姫路よりも近い。口の悪い芸能人がテレビで「佐賀は福岡の植民地」などと言っているのを聞いて、佐賀県民は本気で憤るべきであると思ったものだが、さて、現地の人たちはどう思っているのであろうか。わずか1分で発車というのも、県の代表駅としての面目がないような気がする。
 
 そして7時46分、肥前山口に到着。大阪から13時間以上を共にしてきた妹分の佐世保行き「西海」とは、ここでお別れである。他にも、寝台特急「さくら」「あかつき」、昼行の急行「出島」と「弓張」(後の特急「かもめ」と「みどり」)、そして普通列車でも、この駅で分割併合するものが多い。一日中、列車がくっ付いたり離れたりを頻繁に繰り返す駅もそう多くはあるまい。なぜか「俺とお前はお風呂のおなら 前と後ろに泣き別れ」という都々逸が思い浮かぶ。
 
 妹分を置いて、兄貴分の「雲仙」が先に発車。針路を南へ変え、朝の光が気怠い車内に差し込んでくる。8時07分の肥前鹿島を出ると、左手の車窓には有明海が広がり、ここから諫早までの約1時間、途中の停車駅もなく、海岸線をうねるようにのんびりと走る。門司~博多間で抜かれた「あかつき2号」の後塵を拝する形であるが、こちらの乗客は我関せず、閑散とした車内はまるで午睡の雰囲気である。それに有明の海も所詮干潟なのであって、それもこの澱んだ空気の演出に一役買っているような気がする。このスローな空気は、急行列車でないと似つかわしくない。
 
 いつの間にか、佐賀県から長崎県へ入ったと気づくのは、島原半島に聳え立つ雲仙岳の姿を見たときであった。16年の後に、この頂から火砕流が流れ落ちようとは、このとき誰も知る由はなく、その名を頂いた急行列車は、相変わらずぼんやりと走り続けるのみである。9時53分、左へ大きくカーブして、諫早に到着する。この先、大村湾沿いに走る旧線と、山間部をショートカットする新線とに分かれるが、スローな旅のはずのこの急行も、ここだけはさすがに新線を駆け抜ける。
 
 いくつかの長いトンネルを抜け、旧線と再び合流して、10時16分、浦上に到着。既に長崎の市街地であり、平和公園浦上天主堂などへはこの駅の方が近い。駅前には路面電車も走っている。空ろに過ごしていた客たちもようやく重い腰を上げ、10時19分、大阪から15時間39分の長旅を終えて、急行「雲仙」は、長崎のホームに滑り込んだ。新幹線の博多開業の影響もあるのだろうか、降り立った人は疎らである。けれどもホームは軒並み長く、東京や京都・大阪からやってきた夜行列車の終点としての風格は十分。改札を出て、振り返って仰ぎ見る大きな三角屋根の駅舎もまた、終着駅の堂々たる佇まいだ。しかしこの象徴的な駅舎も、25年後の2000年には、大きなドーム状の屋根に覆われた、近代的な建物に生まれ変わる。
 
 社会科で学習した長崎は、江戸時代の鎖国政策の中にあっても海外貿易を許され、世界に開けた港町として活況を呈していた。今でも街の方々にその名残が認められるが、「港町」のイメージがあまりに強過ぎて、周りを山に囲まれた狭隘な市街地だったのは少し意外だった。グラバー園大浦天主堂などを巡って、坂本龍馬亀山社中の人たちに思いを馳せ、博多でラーメンを断念した分、皿うどんを心行くまで堪能し、夜は稲佐山に登って、長崎の美しい夜景を愛でようと思う——。
 
 「雲仙」は、この5年後、1980年10月1日のダイヤ改正で、妹分の「西海」とともに、姿を消す。その後、1990年代初頭に臨時列車として一時復活するが、これも知らぬ間に運転取り止めとなり、2009年3月の「はやぶさ」「富士」の廃止で、九州方面への直通夜行列車そのものが全廃となった。来年の10月には、九州を一周する豪華寝台特急ななつ星」が走り始めるそうで、死ぬまでに一度は乗ってみたいと思うのであるが、吝嗇を旨とする者にとって、夜行列車への追憶は、古い時刻表の中でしか叶わぬものなのである。
 
※「夢十夜」と銘打ったくらいなので、今後も不定期であちこちを駆け巡ってみたいと思います。勿論、妄想の世界で。