虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第25回 せんせいあのね

 例えば、電車に乗っていて、別に誰でもよいのだが、まあ、前田敦子によく似た人がいたとしよう。思わずTwitterで「電車なう。今、前田敦子そっくりの女子高生が乗ってきた! かわいいww #前田敦子」とつぶやいてみる。ハッシュタグをクリックすると、同じことをつぶやいている人がいるではないか。ふと顔を上げると、向かいの席に、ケータイを持ったまま、こっちを見て微笑んでいる女性が座っている。一目合ったその日から、恋の花咲くときもある……。
 
 実にくだらない妄想をしてしまったが、パソコンやケータイというものが普及すらしていなかった青春時代を過ごした者からすると、SNSというものを考え付いた人は、本当に凄いと思う。
 
 既に死語であろうので、使うのも憚られるが、Web2.0というのは、ネット社会における1つの大きな転換点であった。誰もが情報の発信者となり得て、世相を斬ったり諸問題を世に問うたりする高尚な内容から、そんなことを人に言って聞かせて一体どうするんだという他愛もない日常の出来事に至るまで、実に大量の、しかも極めてパーソナルな情報が、ネット上を駆け回っている。
 
 ブログにしてもつぶやきにしても、そもそもは日記なのだから、本来人に見せることを前提とするものではないし、また、すべきでないという意見もあろう。しかし、現存する日本最古の日記と言われる『土佐日記』はどうだろう。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」はあまりに有名な冒頭の一文であるが、男である紀貫之が女のふりをして書くというのは、取りも直さず人の目を気にしてのことであり、その嚆矢からして、既に人に読まれることを前提に日記というものが書かれていたのだということが分かる。
 
 今も学校の現場に残っているのか分からないが、小学1年生のときに『あのねノート』というものがあった。「せんせい、あのね。ぼく、きゅうしょくだいすき。まだいちどものこしたことないんだよ」という具合に、担任教諭に対して独白を行い、それに対して担任が返信を行うという、一種の交換日記のような国語科の指導である。「せんせい」に「あのね」とタメ口を利くことが指導上正しいのかどうかという疑問は残るが、義務教育において恐らく初めて「文章を書く」ことに当たらせるのがこの『あのねノート』である。日記にしても作文にしても、「何を書いてよいのか分からない」と苦手に思う子どもはいるものだが、私などは、その内容や巧拙は別にして、この「担任からの返信」が楽しみでやっていたところがあったように思う。
 
 発信者は受信者がいてこそ成立するものであり、「書きたい欲求」はことばを変えれば「聞いてほしい欲求」と言えよう。蓋し、Web2.0を加速させたのは他ならぬこの「聞いてほしい欲求」なのであって、SNSというものが流行るのも、源流はこの『あのねノート』にあるのかもしれない。
 
 しかるに、SNSが『あのねノート』と決定的に違うのは、1対1ではなく、1対多であることである。相手が「多」であってもこちらの「聞いてほしい欲求」は変わることはないのだが、その相手の全員がそれを「聞きたい」と思うかは当然ながら別問題である。ここに、ネットの世界におけるコミュニティ形成の難しさがある。内輪ネタで盛り上がって、図らずも関わりのない人を排除してしまうこともあろう。愚痴や批判を書き連ね、イエスマンだけで盛り上がってアンチが疎遠になっていくこともあろう。そもそも趣味や思想が合わないことだってあるだろう。
 
 かくして「聞いてほしい欲求」はネット社会の意図しない残酷な人間性によって打ち砕かれ、「mixi疲れ」ということばに代表されるように、ネットの世界においてさえ孤独を覚えてそれ自体への関わりを自ら絶ってしまうことになるのである。対人関係に問題を抱える者がネットにのめり込むというのはよく聞く話だが、もしかすると、リアルの世界で人と上手くやっていけない者は、ネットの世界においても、やはりコミュニケーションが取れないのではないかと思う。
 
 こうして考えると、SNSというものは何と脆弱で危険なコミュニティであることよと、戦慄すら覚えてしまうのである。余程気をつけてやらないと、自らの手で自らを孤独へと追い込んでしまうのだ。ならばそんなものやらなければよいではないかというご意見もあろうが、しかし、「聞いてほしい欲求」は、文字というものを手に入れて以来の人間の本質的な欲求であるし、少なくとも私の場合は、書くことを止めることは思考することを止めることと同義であるので、それをやってしまったら死んでしまうに等しいのである。孤独であろうが何であろうが、結果的に独白になってしまっても、発信することを止めることはできないのである。地味にして孤高な人間の営みである。
 
 小学校のとき『あのねノート』をやり取りした、若くて美しかった担任も、恐らく定年を迎えなんとしておられることであろう。38歳の今、再び、「せんせい、あのね」とメッセージを認(したた)めたら、先生は一体、どんな返事を書いてくださるのであろうか。