虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第20回 鳥啼き犬の目は泪

 山梨県で、90歳の女性が、散歩中の土佐犬に首を噛まれて死亡するという、世にも恐ろしい事件があった。新聞記事によると、飼い主が紐を付けて散歩させていたところ首輪が抜け、別の男性と立ち話をしていたこの女性に襲いかかったという。飼い主の男性には過失致死の疑いがあるとみて捜査中とのことである。詳細を知らないから不用意なことは言えないが、こういう輩が存在する限り、迂闊に外を出歩けない世の中であることは確かである。
 
 私は犬が大の苦手で、「小さいから可愛いよ」「噛んだりしないから大丈夫」などと言われても、そんなことは関係がない。相手が受精卵であろうが、口腔内を悉く抜歯しようが、嫌なものは嫌なのである。世の中には犬好きの方も多いであろう中で本当に申し訳ないのだが、犬が絶滅しても生態系は特に崩れないのではとそんなことを考えたりもするのである。生類憐みの令が発せられた元禄の世に生きていたなら、進んで切腹していたであろうと思う。漢和辞典で「猋(『森』のような配置で犬が3つ並んだ文字)」なんて漢字を見つけたときには危うく失神しかけるところだった。
 
 犬嫌いのご他聞に漏れず、原因はやはり幼少時のトラウマにあるらしい。
 
 父の実家が岡山県の山奥にあって、山陽自動車道はおろか、中国自動車道もまだ北房ICまでしか開通していなかった当時、住んでいた枚方から5時間か6時間くらいかけて、一家揃って車で帰省していた。自分で言うのも憚られるが、幼かった私は「北河内一の愛らしさ」との呼び声が高く、今は閉店してしまった枚方三越へ、母に連れられて買い物に行くと、すれ違う人で振り返らぬ者はいなかったほどだったという。私は事実を語っているに過ぎないのだ。話が逸れたが、とにかく女の子と見紛うほどの美少年であった私は、親戚縁者の多い実家に帰省すると、それはもう、皆に猫可愛がりされるのであった。すると、それを見ていたそこの飼い犬がジェラシーの炎を燃やし、田舎であるが故に(なぜ「故」なのかが今以て理解しかねるが、「故」らしい)常に放し飼いであったその犬に襲われ、逃げども逃げども止め処なく追い回されたのである。その後どうなったかの記憶はない。
 
 小学校のときは、皆でこぞって集団登校するのが慣例であった。その道中に、ヤのつく自由業の方のお屋敷があって、我々が通るときにそこの猛犬がガオガオと吠えてくるのが嫌だった。ある日、たまたま家を出るのが遅れ、一人走って皆の後を追いかけねばならないことがあった。何としてもあの犬屋敷までに皆に追いつかねばならない。私は必死に走った。盟友セリヌンティウスを待たせるメロスの如くに懸命に走った。遠くに目指す集団の隊列が見えたが、しかしそれは、犬屋敷を既に超えた地点であった。已んぬるかな、私は単身、犬屋敷の前を通過せねばならなくなった。一転、極力存在感を消して、忍び足で慎重に歩みを進めた。もう少し、あと少し……というところで、この猛犬の視界に入ってしまった。敵が一人と見るや、いつにも増して激しい吠え方をしてきた。けれど、屋敷内から飛び出してくることはあるまい、ここはいち早く走り去ろうとダッシュをかけた瞬間、猛犬は公道に躍り出てきたのだ。またしても、放し飼いの犬に襲われるの巻である。私は断末魔の叫びを上げながら猛然と走り、遂には目指す集団を追い越すまでに駆け抜けた。あまりの顛末に、友達の誰かが、飼い主であるヤのつく自由業の方を呼んでくれ、九死に一生を得た。
 
 という訳で、私はこの歳になっても犬への恐怖を拭うことができず、従って当然ながら犬というものと生活をともにしたことが一度もないし、この先永劫にする予定もないのであるが、あるとき、家人の実家に行く用が発生した。そこには犬がいる。家人が仕事先でドックフードのサンプルを大量にもらったらしく、「中丸に持って行ってあげよう」ということで召喚を受けたのである。「中丸」というのは実家のその犬のことで、正しい名前は「ゆめ」と言うのだが、某ジャニーズグループに狂信的にのめり込んでいる家人が独自に命名し勝手にそう呼んでいるものである。それもどうかと思うのだが、それより何より、犬のいる家に行かねばならぬことに、私は大変な戦慄を覚えたのである。
 
 だが、家人の実家と折り合いが悪い訳でもなく、訪問を拒む理由もないので、しぶしぶながら伺うことにした。家の玄関の前に立った時点で、2階のベランダから「中丸」が苛烈な勢いで吠えてくる。ほら、「吠」という漢字は“口偏に犬”って書くではないか。この会意文字の構成がインパクト満点で十分に怖い。それによく考えれば、他の動物なら「鳴(啼)く」と表すのに、犬にだけ特別な単語が与えられている。このことに世の人々はもっと思いを致すべきではなかろうか。
 
 恐る恐る家に上がったのだが、「中丸」はガルルと言うだけで私をガン見こそすれ、決してこちらに近寄ってこようとしない。義母曰く、「この子はあかんたれでねぇ」とのことで、「中丸」が私に吠えかかってくるのは見ず知らずの私に対して怯えているのだとか。怯えているのはこっちの方であるが、犬が吠えるのは威嚇行為に他ならないと思っていた私は、これには少々驚いた。最初は顔を忘れてしまい、家人にすら警戒心を示したほどのあかんたれぶりである。聞けば、雷鳴が轟くと号泣して(本当に涙を流すらしい)震えているとか、家人が実家に置いていったリラックマのぬいぐるみが大好きでボロボロにしてしまったとか、「中丸」だけの話なのかどうか分からないが、犬って意外とかよわいのよねと、変に感心してしまった。
 
 目をとろんとさせて睡魔と闘いつつ、しかし私への警戒を片時も緩めることのない「中丸」は、私が帰るまでは何があっても眠らないと言わんばかりにガン見を続けてくる。こんなにキミのことをビビッているこの私がそんなに怖いのかねと、だんだん可哀想になってきたので、2時間ほどの滞在の後、そそくさと辞去した。その後、ほっとした「中丸」は、直ちに眠りに落ちたという。
 
 やはり犬と仲良くはなれなかったが、獰猛としか思っていなかった犬の弱さを知って、ちょっとだけ認識が改まった1日であった。