虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第11回 ことばに命を宿す

 実に約3年ぶりの更新である。方々で駄文を書き散らしているものだから、どうしても反応のあるものに更新の偏りが出てしまうのだが、筆力の減退は著しく、否、この放置ブログのアーカイブを読み返すに、そんなものは元々備わっていなかったのだと、今更ながらに頭を打つ次第である。
 
 文筆で生計を立てられればどれだけ幸せであろうかとは常々覚える感慨であり、殊にトラベルライターなど趣味と実益を兼ねた最高の生業に自分も就ければと痛切に思うものである。だが、例えば「乗り鉄」の嚆矢として知られる宮脇俊三のような人は、ヲタクの趣味世界を一般にも門戸開放して興味と関心を誘い、それ自体を文学の一ジャンルにまで昇華せしめた第一人者として後に続く者の追随を許さず、しばしば双璧のように謳われる種村直樹ですら宮脇と違って読者の好みは真っ二つに分かれるのであるから、況んや私の如きど素人など遠く及ぶべくもあるまい。
 
 また、想像力が甚だ乏しい自分には創作活動など全くの埒外で、小説家や劇作家といった人達はそれだけで本当に凄いと思うのだが、もっと凄いと思うのは、「小説家がエッセイを書く」ことである。創作のネタになりそうなものを惜し気もなくエッセイに認(したた)めてしまうこと、それでいてあたかも小説を読んでいるかの如き錯覚に陥る滋味深さと言ったらないのである。かつては宮本輝原田宗典鷺沢萠角田光代などを好んで読んだものであるが、最近のぶっちぎりは浅田次郎だ。文体の流麗さ、格調高い言葉選び、随所に散りばめられる軽妙な洒脱や諧謔、ほろっとさせる結び方。他に適する表現が思い浮かばないのが忸怩たるところであるが、もう「天才」と言う外あるまい。それが読みたいためにJALに乗って機内誌の浅田次郎の連載を貪るほどである。
 
 こうした羨望は翻って自身を顧みるに、その無能さにますます打ち拉がれるばかりであるが、自身が範とする作品に共通してあるのは「ことばに命がある」こと。同義語が他にあってもやはりその語でなければならない、そのぴったり填まったことばのチョイスに唸らずにはおれないのである。それはことばに命が宿る、すなわち「言霊」の為せるところに違いないのであり、蓋し、これは遍くことばを操る者は相当心して向き合わねばならぬところのはずである。
 
 それで、どうしても耐え難いことが1つある。第3回でも記した「安易なかな書き」の問題である。
 
 3月に「とうきょうスカイツリー」という駅が誕生するのだそうである。お江戸のことには疎いからよくは知らないが、元々「業平橋(なりひらばし)」だった駅名を、スカイツリーの開業に合わせて名称を改めるというのだ。ぴんと来られる方はご明察、「業平橋」の名は平安時代の色男、六歌仙にも名を連ねる在原業平に因むものであり、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥……」の有名な歌の所縁の地である。観光客誘致を意図してか、それを放棄しての今回の改名である。
 
 大阪にも地下鉄に「ドーム前千代崎」という駅がある。その名のとおり京セラドームの前なのだが、この「ドーム前」が引っ掛かる。工事中の仮称は「千代崎橋」だったという。八百八橋と言われる大阪の街を走る地下鉄の駅名として如何にも相応しいではないか。どうしてもドームを語りたければ「千代崎橋(京セラドーム大阪前)」と副称にすればよいと思うのだが。
 
 「わかりやすさ」というこれ以上ない合理的な理由に理解を示さぬ訳ではないが、かと言って地名はその土地のアイデンティティなのだから、伝統的な名をいとも容易く棄ててしまうような所業にはどうしても首を傾げてしまう。それに「わかりやすさ」を言うのなら、同じく地下鉄の中央線の「コスモスクエア」はどうだろう。中国語の路線図には何たるかな、「宇宙広場」と記されている。ロケットの打ち上げや火星人はおろか、終点でありながら取り立てて目立った施設も見当たらないこの駅だが、知らぬ人が駅名だけ見たら一体何を思うのだろうか。因みにこちらの仮称は「海浜緑地」だった。これならイメージと実態がぴったり符合する。
 
 然らばすなわちと、かな書きを採択する際の定番の理由として上がってくるのは「親しみやすさ」であるが、漢字表記を採らない理由としてはあまりにお粗末であろう。あまつさえ昨今では公立高校の名称にも「なぎさ」「つばさ」「フロンティア」などとかなが入る始末である。将来それを母校とする者の心中を慮るに、「親しみやすさ」だけでその名が一生ついてまわるのは、どうしても不条理の感が拭えない。
 
 畢竟、ひらがなでもカタカナでも、この安直な「かな書き」がいただけないのだ。百歩譲って「わかりやすいから『とうきょうスカイツリー』で我慢する」としても、なぜ「とうきょう」でなければならぬのだろうか。「東京」では「親しみやすさ」が沸かないと言える根拠は何であろうか。かなは専ら表音文字であるが、漢字は加えて表意文字である。単なる記号を超えて意味が付与される。だからことばに命が宿るのである。
 
 命の宿ったことばは人の心をも動かす。人や物の名に愛着を覚えるのもそれと同じであろう。だからこそ、安易で安直な名付けは、定めて慎重であらねばならないと思う。