虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第84回 迷子の子猫ちゃん

 勤務先は商都大阪のど真ん中、本町の御堂筋沿いにある。Wikipediaを見ていると、「『淀屋橋-本町の会社に就職すること』がステータス・シンボルと言われる傾向がある(東京人の「丸の内」に匹敵するブランド・イメージ)」といった記述がある。「どこで働いてんの?」と訊かれて、放出だの千林だの花園町だの駒川中野だのと答えるよりは、「本町です」と言った方が聞こえがよいということなのだろうが、現業時代に下町の店舗を経験してきた私にすれば、スーツ姿の人たちが、言葉も交わさず足早に歩き去ってゆくようなところよりは、ヒョウ柄の衣裳をお召しになったおばちゃんがずけずけと寄ってきてあめちゃんをくれるような、ど厚かましさに溢れる街の方が、人間味があって好きである。
 
 とは言うものの、殺伐としたビジネス街たる本町にいても、見知らぬ人から声を掛けられることはしばしばある。昼食を買いに外へ出て、ぼけーっと歩いていると、訊きやすい雰囲気を醸し出しているのか、しょっちゅう道を尋ねられるのだ。会社をクビになるようなことがあればタクシーの運転手をやろうかと思っているくらい地理だけには明るく、大概の場所は答えられるので、曲がり角まで行って指を差して案内したり、時には目的地までお連れしたりして、それで昼休みの時間を費やしてしまうこともある。「袖触れ合うも多生の縁」と思って懇切丁寧に説明するよう努めているが、それでも辟易するのは、弊社への来客からの「場所がわからない」という電話が後を絶たないことだ。
 
 地下鉄本町駅の1号出口から徒歩1分、御堂筋という大通り沿い、信号のある交差点の角、ビルの1階には目立つ店舗の看板と、これだけわかりやすい情報が揃っているにも関わらず、どうして迷うのだろうかと、毎度首を傾げてしまう。愛媛県から来られた方が、地下鉄の出口までは正しく辿り着けているのに、そこから僅か50mの移動がどうしてもできず、約1時間の格闘の末、結局、この50mをわざわざタクシーに乗ってこられたのが最も酷い例だが、どこで彷徨っているのかを確認すると、大体以下の3つに分類できる。
 
 まず、降りる駅からして間違っている人。迷える来客に、「周囲に何が見えますか」と尋ねると、「りそな銀行の大きな建物」と言うので、本町にりそな銀行なんかあったかいな、と思って地図を開いてみると、どうやら「堺筋本町駅」で降りているらしいのである。堺筋から御堂筋へは西へ約500mであるが、道順説明において、距離を数字で言うことと、東西南北で説明することは禁則であるから、電話越しに実況中継してもらいながら導くことになる。それにしても、駅名というのは他と峻別するための固有名詞なのに、毎日利用している者にはそれが当然でも、慣れぬ人にはそうもゆかないのだと実感させられる。造幣局桜の通り抜けの最寄り駅は「天満橋駅」だが、JRの「天満」や「大阪天満宮」で降りてしまう人が多いのも同じ理由であろう。それで言えば、地下鉄の「あびこ」、JR阪和線の「我孫子町」、南海高野線の「我孫子前」、阪堺電車の「我孫子道」は全部違う位置にあるし、JRと阪神の「野田」や、JRと地下鉄の「平野」、JRと阪急の「吹田」などは全く別の駅だが駅名は同じだからもっと紛らわしい。
 
 次に、「御堂筋線の1号出口」がわからない人。確かに、本町駅には出口が28箇所もある。ただ、これは3路線が集結する駅であるからこれだけの数になるのであって、御堂筋線の改札に直結するのはそのうち10箇所のみである。しかも、「なかもず方面の電車に乗って、一番後ろの階段(南から来る人には『千里中央方面の電車を降りて一番前の階段』と言い換えるくらいのことは当然やる)を上がり、そこの改札を出て右が1号出口」と言えば迷う余地はなさそうなものであるが、間違える人は大概、中央線や四つ橋線に乗ってくるものだから、そもそもこの説明が無効である。中央線や四つ橋線のホームの出口案内には、1号出口を表す「↑出口①」の表示がないのでパニックに陥り、とりあえず地上に出れば何とかなると考える。ところが、四つ橋線本町駅はもともと「信濃橋」という別の駅だったくらいで、御堂筋線のホームから300mも離れている。弱者にとって、地下は難攻不落のダンジョンであろうが、地上に出たところでそこも別世界。畢竟、中央大通四つ橋筋から半泣きで電話してくるのがオチである。
 
 そして、前述したように、「1号出口」を正しく出たにも関わらず迷う人。その原因は、「なかもず方面の電車に乗って、一番後ろ」は方角で言えば北なのに、出口を出たときには南を向いていることにあるのではと思うのだ。改札を出てから地上に出るまでのルートは、直角の方向転換が8箇所にも及ぶつづら折で、最後には向きが逆転してしまっている。これでは人間の方向感覚を狂わせるのも当然である。御堂筋は南行きの一方通行であるから、北上させるのに「車の流れと反対方向に歩いてください」とか、「出口を右に曲がって、すぐに大きな通りがあるのでそれをまた右に折れ、後はまっすぐ歩いてください」などと説明するのであるが、方向音痴の人は、上下左右を2回以上言われるともう駄目なようである。結局、「そこを動かないでください」と言って、お迎えに上がることも少なくない。
 
 都会の迷宮は、こうして来訪者たちを苦しめるのであるが、そこから救い出す者の道案内の手腕も問われるところである。過剰に言葉を尽くさず、わかりやすい説明を心掛けるべきなのは言うまでもないが、もう一つ大切なのは、「わかりやすい説明」のために、普段は気にも留めずに過ぎ去ってしまう風景を、迷える人たちの視点で見つめ直すことだろうと思う。人に対する優しさって、実はそういう感受性から滲み出るものなのだと信じたい。