虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第83回 ヤバいよヤバいよ

 4月も半ばを過ぎた。新入社員たちの前に、間もなく立ちはだかる壁は「五月病」だと思っていたら、それを待たずして、僅か1週間で「会社に来なくなる」事例があちこちで起きているという。これが話題になった端緒は、ある参議院議員が自身のブログで明かした、「新人秘書が2日目に腹痛で休み、3日目に電車遅延で遅刻、4日目は朝9時にトイレに立ち、そのまま戻ってこなかった」という話であろう。辞めたければきちんと手順を踏めばよいのに、どうしてこういう夜逃げ(朝逃げ?)のようなフェードアウトの仕方をするのだろうか。どんな理由があったにせよ、トイレに行ってそのまま帰ってこないなんて、凄いことを考えるものである。
 
 世のすべての若者がそうだとは思わないし、ナンセンスな一般化をすべきでないとも思うが、会社で何か辛いことや嫌なことを一度でも経験すれば、それだけで企業は彼らから「ブラック企業」と謗られる。面と向かって啖呵は切れないくせに、SNSでは悪口雑言の限りを尽くして自らの憤懣の爆発を全世界に発信する者も少なからずいるという。誰かが「モンスターペアレントの子はモンスター」と言ったのだが、そのうち「モンスターチルドレン」、略して「モンチ」なんてことばが跋扈するかもしれない。おちおち部下の指導や育成などやっていられない世の中である。
 
 そして、世のおっさんおばはんたちは、「今日日の若い者は」とぼやくのである。ただ、ぼやく者たちだって、かつては同じように「今日日の若い者」と謗りを受けたのだから、歴史は廻るとはよく言ったものだし、人はそうして成長していくのだろう。未熟者が根性を欠いているというのは事実なのだろうが、自分の意志で入社を決めた会社を数日で辞めてしまう者たちの心理には、入社その日から目隠しをされて、先が見えない、どうしてよいのか分からないという不安だって、多分にあったに違いないのだ。かつて、日本の高度経済成長を支えてきた人たちは、明るい未来を夢見ながら我武者羅に働いてきた。時代が時代なれば、自ら未来に光を見出すこともできただろう。しかし、この時世ともなれば、必ずしもそうはいくまい。だから我々は、「今日日の若い者は辛抱が足らん」なんていきり立たないで、もっと将来というものをしっかり語ってやれよと思うのである。それが人材育成の要諦というものだろう。
 
 しかし、そんな私でも、「今日日の若い者は」と嘆かずにおれないことがあった。つい先日、懇意にしているコンサル会社のマネージャーの方から聞いた、ある会社から請け負った新卒入社の新入社員研修での話である。
 
 まず、「挨拶語」を思い付くだけ挙げてみよ、という課題を提示した。起床してから家を出るまでの間を思い起こすだけでも、「おはよう」「いただきます」「ごちそうさま」「行ってきます」「行ってらっしゃい」と、これくらいはすぐに思い浮かぶと思うのだが、多くの子たちは、3つ挙げたところで頭を抱えたのだという。マネージャー曰く、「頭を抱えたいのはこっちですわ」。
 
 しかし、それ以上に吃驚したのは次の話である。「ポジティブ語」を、これもできるだけ多く挙げてみよ、と指示した。「明るい」「楽しい」「面白い」「朗らか」「好き」「わくわく」「最高」「期待」「希望」「夢」「愛」等々、これならいくつでも思い付くことだろう。ところが、なのである。確かに数は挙がるのだが、3割くらいの子たちが申し合わせたかのように同じ単語を挙げた。それは何かというと……。
 
 「ヤバい」。
 
 「ヤバい」はいつからポジティブ語になったのかと、そのマネージャーの方は一瞬天を仰いだという。聞いた私も絶句しつつ、そう言えば以前、社員旅行に行ったとき、新卒の女子、しかも難関の国立大を出た子が、土産物屋の通りを2m進むごとに「ヤバーい!」と絶叫していたのを思い出した。美味そうなものを見ても、可愛いゆるキャラを見ても、全部「ヤバーい!」なのである。
 
 若者言葉の変容は、最早その語のニュアンスや価値判断を逆転させるまでに極まったのかと茫然としたが、日本語の歴史を紐解けば今に始まった話でもなく、例えば冒頭でも用いた「凄い」が当てはまる。本来は、寒く冷たく骨身にしみる感じを表すのが原義で、それが転じて、ぞっとするほど恐ろしいという意味で用いられるようになった。それが今では「すごくおいしい」「すごいかわいい」などと使うから(形容詞の前に「すごい」と連体形を用いるのは文法的にも正しくないのだが)、ポジティブな「ヤバい」も、そのうち市民権を得ることになるのだろう。
 
 それよりも何よりも、会社の然るべき研修で、ポジティブだろうがネガティブだろうが、「ヤバい」という言葉を平気で使えることの方が余程問題だと思うのである。よもや、分かった上で故意に使っている訳ではあるまい。上司に「マジっすか?」「了解です!」などと口にするのも同じだが、常識云々の問題でもあるだろうし、それを聞いて相手がどう感じるかという想像力の欠損であるとも言えるだろう。ただ、そのことで相手を怒らせたとか、誰かからそれを注意されたとかの経験がなければ、常識的判断も想像力も働かせようがないのだ。
 
 ゆとり教育は、管理教育や詰め込み教育へのアンチテーゼであったはずだが、知らないことが多くて、結局は社会に出てからあれこれと詰め込まれる他はないというのは、大いなる矛盾であり皮肉であろう。そして、社会に出た若者たちも、詰め込まれることを望んでいる。「少しは自分で考えたらどうだ」と言っても、思考を組み立てるための知識がないのだからどうしようもない。だから、上げ膳据え膳で教えてやる。こうして、マニュアルや台本がなければ立ちゆかぬ社会人が増えてゆく。今春迎えたある新入社員のデスクには、そうして書き留めた、「名指し人が不在なら折り返す旨を伝える」「電話番号は復唱して確認する」といったレベルのポストイットがそこら中に貼り付けられていて、それを見るに付け、私は暗澹たる気持ちに駆られるのである。この子が怠惰で無能という訳では決してない。明朗快活にして、指導したことは実直に取り組んでくれる。知らないことが多いのは、必ずしもこの子の落ち度ではないように思うのだ。すべてを教育のせいにするのは正しくないのだろうが、しかし敢えて言わせてもらおう。ゆとり教育の犯した罪は、事ほど左様に根深いものなのである。
 
 “知識の目隠し”をされた若者たちだって不安だろうが、そんな現実を目の当たりにする我々おっさんたちだって大いに不安なのだ。20年経ったとき、この世代が日本の経済を支える中枢にいる。どこかの会社で課長が「今日、新規契約が一本取れたよ。ヤバーい!」などと言っているかもしれない。大丈夫だろうか。どうする日本、どうなる日本。