虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第45回 散り際の美学

 紅白歌合戦を最後まで視聴して、蛍の光の合唱に今年の穢れを濯ぎ、そして23時45分に、それまでの喧騒が一転、『ゆく年くる年』の除夜の鐘を静寂の中に聴く、あの落差が堪らないのであり、ここへ来て漸く、1年の終わりを実感するのである。
 
 1年の終わりと言えば、この時期、各新聞社のサイトで1年のお悔やみ記事のまとめみたいなものを読むという根暗なことを、毎年の恒例行事としてやっている。著名人、とりわけ名優とか名匠と呼ばれる人たちの訃報に接する度に、「また一つ、昭和の灯が消えた」と我々は定型句のように言うのであるが、今年の例えば芸能界を振り返ってみても、二谷英明淡島千景中原早苗小野ヤスシ地井武男山田五十鈴内藤武敏津島恵子山田吾一大滝秀治馬渕晴子桜井センリ、森光子、中村勘三郎小沢昭一といった数々の大俳優が逝き、これは確かに「昭和の灯が消えた」としか言いようのない、寂寞たる思いに駆られるのである。
 
 大切な人を失う悲しみは計り知れないものではあるが、大切な人なればこそ、最高の敬意と謝意をもって送り出したいと思うのは、至極真っ当な人の情けであろう。その意味で、弔辞とか追悼文というのは、何を見たり聞いたりしても、胸を打たれるものである。
 
 名弔辞と言われるものは数あれど、私の記憶に深く残るのは、横山ノックに呼び掛けた盟友・上岡龍太郎のものである(今のところYou Tubeでも視聴できる)。「横山ノックを天国へ送る会」での挨拶なので厳密な意味での弔辞ではないが、「漫才師から参議院議員大阪府知事から、最後は被告人にまでなったノックさん」と笑いを取ったかと思えば、「そして、いつでも、どんなときでも、必ず、僕の味方でいてくれたノックさん」と涙ながらに語る約5分間に亙る挨拶は、起承転結、緊張と緩和、言葉の韻律、そして故人への想い、それらのいずれもが備わっており、これをこそ話芸と言うのかはと唸らされた。赤塚不二夫の告別式でのタモリの弔辞も歴史に残る素晴らしいものと言われるが、私はこれと双璧を成す絶品であろうと思う。
 
 高校1年のとき、江川先生という、数学のベテラン教師が亡くなった。我々の卒業と同時に定年を迎えるという先生で、それまでずっと受験学年である3年ばかりを担任してきたが、教師生活の最後には、宿泊研修や修学旅行に一緒に行きたいということで、10年以上ぶりに1年を担任することになったのだという。指導には大層厳しい先生であったが、コンパスや定規なしで、曲芸のように円と接線をさらりと、しかし極めて正確に描く板書は、文系の人間である私でさえも舌を巻く、芸術と呼んで差し支えのないものであった。ところが1学期の半ばに急に体調を崩された。休むことを勧められたが、「授業に穴を開ける訳にはいかぬ」と教壇に立ち続けた。そのうちチョークを持つ手に力が入らず、講義に堪え得る大きな声も出なくなった。それでも自宅で板書代わりのプリントを作成し、講義内容を録音して流し、身振り手振りだけで授業を行う様は、最早鬼神としか言いようがなかった。結局夏休み中に息を引き取られた。旧制中学時代に出会い、同じ数学教師として30年以上共に歩んできた同僚の先生が、校内誌に「江川君を悼む」と題した追悼文を寄せた。そこには、学生時代からの思い出が、理系の教師とは思えぬ叙情的な名文で綴られ、それだけでも読む者の涙を誘ったが、最後に「江川君ほど幾何のできる人間に出会ったことがない。その逸材を失ったことが、何より悔やまれてならない」と締め括られていた。生涯現役の教師として職責を全うした同僚に送る餞として、これに勝る賛辞があるだろうか。
 
 自身のこれまでの約40年間の人生を顧みるに、このような賛辞を語ってもらえる何事かを成し遂げてきたかと言えば甚だ自信がなく、弔辞を読んでくれる方を困らせるのではと不安を覚えるばかりである。だからもっともっと、今を懸命に、充実させて生きていかねばならないと思うのであるが、一方で、旅立つ者から遺しておきたいメッセージというのもあろう。
 
 昨年(2011年)4月に、55歳の若さで亡くなった田中好子が、生前、お世話になった人々に遺した肉声メッセージを録音していて、それを本人の告別式で流すということをやった。モルヒネが効いていて呂律が回らず、息も絶え絶えに声を振り絞っての語りには胸が張り裂けそうになったが、何と言うか、人を愛し、慈しみ、大切にする故人の人柄が大いに偲ばれ、感涙を極めるとともに、猛烈な感化を受けた。私も周りの人を大切にし続ければ、きっとその時にはこんな私でも報われるのであろうという確信である。そして、多くの人に見送られたいという故人の思いには大いに共感した。無二の親友に弔辞を読んでもらえたのも本望であろう。不謹慎かもしれないが、心底羨ましいと思った。
 
 私もいつ何があるか分からないから、遺言という訳ではないが、もしもの場合のお願いをしておきたい。
  
 家族のみの密葬は厳禁である。チェーンメールでも何でも構わないからできるだけ多くの人に知らせていただきたい。献花などお金のかかるものは結構である。淋しがり屋だから、ただ逢いに来てくれたらそれでよいのである。弔辞は、同期で最も出世した方に読んでいただきたい。思い起こせば入社も同じ、現業のマネージャーを任せられたのも同時、管理職に昇進したのも同時。内示のあった日の夜、「お互い重たい責任を負う立場になったね」とメールもらったのもしっかり覚えている。
 
 骨は、半分は舞子の海岸から明石海峡に散骨いただきたい。海が大好きである。人間が還る場所として最も真っ当な所と思う。広島で母親の胎内から出てきて、大阪で育ち、岡山で10年余りの多感な時期を過ごし、そして大阪に帰ってきて20年、その間、兵庫県では当時のアルバイト先で震災とも闘った。これらの地いずれにもつながるのは瀬戸内海のみである。残り半分は、大阪平野を見下ろす生駒のどこかの霊園にお願い申し上げたい。この20年、公私それぞれの時間を過ごした場所が望めるし、遠く先、岡山や広島に続く海を眺めれば、これまでに出会った人たちとの思い出が次々に蘇ることであろう。あの世に行っても、きっと退屈することはあるまい。
 
 無神論者なので特に希望の宗派はないが、あの世に行っても、皆が時々お墓参りにきてくれたら幸甚の極みである。
 
 今夏、26年ぶりに再会した中学時代の同級生がこんなことを言っていた。「お互い生きているだけでも奇跡だが、こうして再会できたのは正に奇跡である」と。同級生に既に少なからず物故者がいることを踏まえての言葉であるが、年が明ければいよいよ不惑、今日一日を大切に生きねばという思いはますます募るばかりであり、と同時に遺してゆく人たちにメッセージを紡いでおきたいという想いを込めて、今年最後の拙文としたい。