虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第53回 万博ノスタルジア

 大阪の京橋駅の、JRと京阪電車の間の乗り換えコンコースというか広場みたいなところには、いつからか塵取りが置かれ、灰皿として利用されている。JRのホームは完全禁煙、京阪電車も京都方面のホームの端に喫煙ルームがあるのみで、電車に乗る前に一服しようとする者たちがそこら中にポイ捨てするものだから、堪りかねた誰かが置いたのであろう。こういうものがあれば、人はきちんとそこへ集まって喫煙し、ちゃんとその塵取りへ吸殻を捨ててゆくのである。勿論、隔離された空間ではないから、付近を歩く嫌煙者からすれば副流煙を吸わされることに変わりはなく、抜本的な対策になってはいないが、少なくとも街の美観という点では大きな改善であり、そうでなくても猥雑である街に出現した、ちょっとしたオアシスの如きスポットと言えよう。
 
 その塵取りが置かれている植え込みの囲いに、薄汚れた一つのレリーフが埋め込まれている。「花ずきんちゃん」である。今日日の若い者はそれが何かを知らぬであろうが、1990年、大阪の鶴見緑地で開かれた、国際花と緑の博覧会、通称「花博」のマスコットキャラクターである。ここでたばこの1本でも燻らせなければ決して気づくことのない、日陰の花たる「花ずきんちゃん」だが、博覧会というものにえも言われぬ郷愁を覚える私には、紫煙と土埃に塗れた「花ずきんちゃん」を見る度に、何だか物悲しい気持ちに駆られるのである。
 
 生まれて初めて足を運んだ博覧会は、「ポートピア’81」の愛称で親しまれた、1981年の神戸ポートアイランド博覧会だった。この博覧会で胸が高鳴ったのは、何と言っても「ポートライナー」である。今でこそ各地で走っている新交通システムであるが、当時は世界初の無人自動運転システムによる電車として話題を浚った。運転士がいないのだから車両の先頭部も乗客に解放され、そこに齧り付けば運転士の気分が味わえるという、子どもにとっては垂涎の的であった。そのスポットでは当然ながら、多くの子どもたちによる争奪戦が繰り広げられたのであるが、「大阪のおばちゃん」たる母親の従姉がそれを押し退け、私に“運転士席”をキープしてくれた。周囲の子どもたちから突き刺さる冷たい視線に居た堪れぬ思いを抱きつつ、三宮からポートアイランドを一周し、再び三宮に戻る、1周約30分の旅を楽しんだ。そのとき車窓に映った、ポートピアランドの観覧車は、遊園地そのものが閉園して跡形もなくなり、コーヒーカップの形が印象的だったUCCコーヒー館も、その後の大改装で当時の形は止めていない。
 
 その4年後の1985年には、国際科学技術博覧会、通称「科学万博」が、今の茨城県つくば市で開かれた。当時の私は、公式ガイドブックを買って毎日眺めては、会場内のさまざまなパビリオンをどういう順序で巡るか綿密な計画を立て、マスコットキャラクターの「コスモ星丸」の絵を毎日描いては、遠く離れたつくばの地に思いを馳せた。中でも心を鷲掴みにされたのは「住友館 3D-ファンタジアム」で、ミラー張りの建物に立体の黄色いフレームが空中に浮かんで見えるその外観はそれだけで、田舎の少年をして「これこそが21世紀の科学なのだ!」と訳の分からぬ高揚をせしめるのに充分だった。思いは日々嵩じ、夏休みには是非とも連れて行ってほしいと両親に懇願した。叔父母夫妻が東京に住んでいたので、そこに預かってもらう形でこの願いは実現しかけたのであるが、子どもには分からぬ「諸般の事情」で結局見送られた。夏休みは毎日、会場の様子を中継する番組を見ては地団駄を踏み、始業式の日には、「つくばに行ってきたぁ!」と自慢げに語りながらお土産を配るクラスメイトをただただ恨めしそうに見つめるばかりであった。私の頭の中では今でも「つくば=科学の聖地」の等式が成り立っているのであるが、実際のところはどうなのだろう。
 
 1988年には、瀬戸大橋の開通を記念して、岡山と香川の両県で、瀬戸大橋架橋記念博覧会、通称「瀬戸大橋博’88」が開かれた。1889年に、香川県議会議員の大久保諶之丞が架橋を提唱し、周囲からほら吹き扱いされてから約100年、本州四国連絡ルートで全通したのはこの瀬戸大橋が初めてで、両県では大変な盛り上がりを見せた。当時岡山に住んでいた私は、4月の開通後、「何を措いてもまずは渡り切らねばならぬ」と勇んで、快速マリンライナーに乗って高松へ向かった。国鉄からJRになったばかりの真新しい鉄路、しかもそれが海の上を渡るというのは物凄いことに思えた。しかし、博覧会の方は「近場なのでいつでも行ける」という思いもあってかなかなか足を運べず、やっと行けたのは会期の最終日、夏休みも終わろうとする8月31日のことであった。会場内はごった返しているかと思いきや意外にそうでもなく、「博覧会はパビリオンの前で辛抱して待つもの」という定説もどこへやら、すんなりと入場できた。どんなパビリオンがあったかも今となってはあまり記憶にないが、これで閉幕という万感が胸に迫ったのか、コンパニオンのお姉さんが号泣していたことだけ、はっきりと覚えている。

 
 それからもう25年、四半世紀が経ち、今でも出張で年に1~2回は瀬戸大橋を渡ることがあるのだが、会場の跡地であるJR児島駅前は、相変わらずだだっ広い空き地である。2005年の愛知万博は結局行くことができず、その4年後に漸く、跡地の記念公園に行ったのだが、人もまばらで、閉幕と同時に「海上の森」に帰っていったはずのモリゾーとキッコロのオブジェがぽつんと立っているのが、哀愁を醸し出すばかりであった。博覧会というものは、そのときは都市や国家を挙げてのお祭り騒ぎであるが、閉幕後はいずれもが「夢の跡」であり、その寂寞たる姿が、一層郷愁を駆り立てるのかもしれない。
 
 1970年の大阪万博は、開催から40年以上が経過した今でも、単に「万博」と言えばこれのことを指す場合が多いくらい、大阪にとっても、あるいは日本にとっても、その成長や発展を語るときにこれほど大きなエポックはあるまいと思う。私は1973年の生まれであるから、「万博」を実体験した訳ではないのだが、それでも往時を回顧する映像や資料を見るにつけ、何としてもその熱気を肌身で感じたかったと、「万博」への想いは募るばかりであり、この点に関してだけは、生まれる年を間違えたと強く思うのである。エキスポランドはあの事故でその姿を消し、個々に見れば往時を回顧できるスポットもあるのだが、風雪流れて、今も変わらずその姿を止めるのは、「太陽の塔」だけであろう。閉幕後に撤去する話もあったそうだが、署名運動が功を奏して、今もこうして、千里の丘から大阪の街を、そして我が国の姿を見つめている。郷愁に駆られる人々の想いなど、我関せずといった趣でさえある。
 
 背中に描かれた黒い顔は「過去の太陽」、お腹の部分にあるのが「現在の太陽」、そして天辺に輝く黄金の顔は「未来の太陽」を表現しているという。3つの太陽が見てきたこの街の、この国の姿の変遷は、必ずしも「国破れて山河在り」の光景ばかりではあるまいが、ならば「未来の太陽」に問いたい。この先、人類はどう進歩し、そして何より、どのように調和を果たしてゆくのであろうか。