虹のかなたに

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

第62回 素顔のままで

 女性芸能人が自身のすっぴんをブログで公開したと、一々ネットのニュースで取り上げられるのには、大概食傷気味である。芸能人の結婚報道で、都度妊娠の有無を明記せねばならないというのもどうかと思うのに、なぜ素顔を晒したくらいでそんな大騒ぎになるのだろうか。
 
 しかしよく考えれば、例えば杉村春子山田五十鈴といった大御所が存命中にそんなことをしたなら、それこそ国家の一大事であっただろう。何となれば棺の中にあってさえ、死に化粧を施すのである。況んや芸能人は顔そのものだって商売道具なのだから、素顔を晒すなんてする訳もないし、してはいけないのである。そしてそれが芸能界のタブーであったはずであるから、こうして話題になるのであろう。
 
 それはもしかしたら一般女性においても同様かも知れず、母が若い頃、就職先にすっぴんで初出勤したところ、お局様に呼び出され、「せめて口紅くらい施してきなさい」と叱られたと言うし、私の勤務先のある女性の同僚が、「すっぴんで外出するなんて、犯罪行為以外の何物でもありません」と力説するのも聞いたことがある。かつて、女性の部下が寝過ごして遅刻したことがあるのだが、それでも時間をかけてバッチリメイクで出勤してきたものだから、「すっぴんでもええからとにかく一刻も早く出勤せよ」と注意を与えた。その後暫くして、定時ギリギリに、息も絶え絶えに滑り込んでくることがあったのだが、教えを忠実に守り、すっぴんで現れたのである。これがもう、喋ってくれなければ誰か判らぬほどの別人であり、こんなことを言っては世の女性たちから糾弾を受けそうだが、「犯罪」とは確かにそうかもしれないと思ったものである。
 
 『源氏物語』に登場する、光源氏を取り巻く女性たちの中の一人に、「末摘花」という人物がいる。零落した亡き常陸宮の姫君の噂を聞き、阿呆な源氏は勝手な夢想と憧れを抱いて求愛する。そして念願叶って逢瀬を果たした翌朝、源氏は末摘花の顔を見て仰天する。驚くほどに不細工だったというのだ。原文ではそれを、「あなかたはと見ゆるものは、鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり(ああみっともないと見えるのは、鼻なのであった。ふと目がとまる。普賢菩薩の乗物〈=つまり、象のこと〉と思われる。あきれるほどに高く伸びていて、先の方が少し垂れ下がって色づいているのは、殊の外異様である)」と著し、散々な酷評なのである。「実はその容貌たるや」ということで男性の幻想を打ち砕き、大いに落胆させるという話は古来からあった訳で、女性たるもの、如何なる手練手管を以てしても、自身の容貌で男性を虜にせねばならなかったのであろう。
 
 余談だが、TBSが創立40周年を記念して、橋田壽賀子脚本、総製作費12億円を費やした実写版『源氏物語 上の巻・下の巻』が、1991年12月と1992年1月の2回にわたって放映された。主演は紫式部役の三田佳子光源氏東山紀之片岡孝夫(現・仁左衛門)。紫の上は大原麗子。その他、「橋田ファミリー」はほぼ全員が出演という超豪華キャストであるが、では末摘花は誰が演じたかというと、何と、泉ピン子なのだ。かつて、堺正章の『西遊記』で、鬼子母神和田アキ子が演じたのと双璧を成す、私の中で「よくぞオファーを受けたと感服する役柄」である。
 
 それはさて措き、それでも、彼女の素直な心根や、自身への一途な愛に感動した源氏によって、その後、末摘花は妻の一人として二条東院に引き取られ、晩年を平穏に過ごしたのである。ロリコン&マザコンを地で行く、リビドーの塊の如き稀代の色男でさえ、「見てくれより中身」に惚れるというのだから、女性の美意識はどこに力点を置くべきか、ちょっと立ち止まって考えねばなるまい。
 
 しかるに、男性を騙す必殺技が「化粧」だけでは飽き足らぬ現代の女性は、いとも容易く「整形」に手を出す。テレビのCMでも連日、「Yes! ○○クリニック!」だの、「○○は俺に任せろ!」だのと喧しいし、「整形」で検索を掛ければ掃いて捨てるほどにビフォア&アフターの画像が出てくる。ましてや芸能人ともなると、どこで入手したのか知らないが、素人であった少女時代からの容貌の変遷をまとめた写真がそこら中に流出していて、ゴシップとして見る分には興味深いものの、こんなものを晒されたのでは、一体何のために散財に散財を重ねて顔面改造に勤しんだのかと悲嘆に暮れはしないのか、余計な心配に駆られてしまう。
 
 播州俳人、滝野瓢水が、遊女を身請けしようとした友人を諌めた句に、「手に取るなやはり野に置け蓮華草」というのがあって、落語の『子は鎹(かすがい)』にも出てくる。吉原の廓遊びで朝帰りの熊五郎が、文句を言う女房のお光に対して、家風に合わないから出て行けと怒鳴ってしまった。息子の亀坊が「お父つぁんが悪い」と言うと、これも家風に合わないから出て行けと、2人とも出て行った。独り者になったのをいいことに、花魁の女を引っ張り込んで一緒に住み始めたが、「やはり野に置け蓮華草」とはよく言ったもので、家事も何にもできず、いつの間にか出て行ってしまった。3年が過ぎ、一人住まいの不便さと寂しさで、別れた女房の出来の良さを思い出し、子どもにも会いたいと思う。たまたま、学校帰りの亀坊に出会い、未だに再婚せず、針仕事で苦労しながら暮らしていることを知る。小遣いを与え、母親には内緒にしろというが、母親に見つかり誰からもらったか言わないと金槌で打つと怒られ、喋ってしまう。そして亀坊が仲立ちになり、夫婦仲直りをする。「子は鎹とは、うまいことを言ったもんだ」「あたい鎹か、だから金槌で打つと言った」――というストーリーである。男というものは最終的には器量より中身に行き着く、ということだろうか。
 
 女性の化身は、必ずしも男性を虜にするためだけのものではないかもしれない。自信を持って輝いて生きるという「自分自身のため」という面もあるのだろう。なればこそ内面を磨けばよいのではないかと思うのだが、家人などは「女というものは、外見を磨いてこそ、自然と内面も磨かれて輝くのである」と言って憚らない。自分磨きを忘れた女は最早女ではない、という考えで、それはそれで一理あるとも思うが、鶏が先か卵が先かという話のような気もする。男としては「野に咲かぬ蓮華草」も恐ろしいし、惚れた女であれば、たとえシミ、ソバカスだらけのすっぴんだって、きっと内面に湛えた美しさが表出するものだと思うのだが、「そうも言うてられへん女心」も理解せねばなるまいと自身を得心させる、私は小心者の男なのであった。