虹のかなたに

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第9回 漢字の日に寄せて

 今年の漢字は「変」に決まったとか。「落」を予想していたが第3位。これまで一度として当たったことがないが、余程世相の対極で生きているのだろうか。
 
 ところで、文部科学省が2月に発表した新学習指導要領案で、小学校の国語の「解説」を読むと、以下のような記述がある。
 
 「漢字の指導については、日常生活や他教科等の学習における使用や、読書活動の充実に資するため、上の学年に配当されている漢字や学年別漢字配当表以外の常用漢字についても、必要に応じて振り仮名を用いるなど、児童が読む機会を多くもつようにする」
 
 当たり前である。今更何をか言わんや。
 
 小学校で指導する漢字は一般に「教育漢字」と呼ばれ、指導要領で学年ごとの配当が明示されている。「ゆとり教育」への転換点であった2002年の指導要領改訂では、配当学年では読めるように、その上位学年で書けるように、というようなことが謳われ、以降、小学校の教科書では、各単元の最後にまとめられる新出漢字の箇所に、「前の学年で習った漢字」が併記されるようになった。
 
 これを厳格に運用する教師は、「習った漢字以外は用いてはならぬ」と指導することが往々にしてあるようで、かく言う私も小学校時代、全く同様のことが強いられた。
 
 それは自分の氏名にも例外なく適用され、特に可哀相だったのは、クラスメイトにいた「石原正美」さんである。小学2年生の時点で「美」だけが未習であったために、事もあろうに自らの姓名を、「石原正み」と表記することを強要されたのだ。誰の眼にも異様に映る「み」である。
 
 方や、11月17日付の産経新聞http://sankei.jp.msn.com/life/education/081117/edc0811170812000-n1.htm )によると、千葉県のある私立幼稚園では、百人一首高村光太郎島崎藤村佐藤春夫らの詩を音読させる教育を行い、園児たちもそれをよどみなく読むと言う。
 
 「野ゆき山ゆき海辺ゆき 真ひるの丘べ花を敷き つぶら瞳の君ゆゑに うれひは青し空よりも……」と朗々と読み上げる幼稚園児。英才教育とか先取り指導とか、そういう次元の話ではあるまい。流麗な日本語に幼少期から接することの意味は、決して小さいものではないはずだ。
 
 指導要領の改訂によって、「変」な慣習からの「変化」が進むのなら、それは大いに結構なことである。「み」に泣くような子どもがこれ以上出てこないことを願うばかりだ。